(3)
──二日後。週が明けてもハヤトの体調はよくならなかった。
ひどい喘息と身体中の湿疹に見舞われ、どれだけ厚着をしていようとも、彼は極寒の地に取り残された遭難者のように、その身を震わせていた。昨日から食事はほとんど喉を通らず、なんとか胃の中に収めたものもすぐに嘔吐していた。布団の中で目を瞑っている彼はげっそりとミイラのように痩せこけていた。
会社には昨夜のうちに病欠する旨を伝えていたらしい。今朝は八時を示すアラームが鳴っても、ハヤトは一向に起きる気配がなかった。
アラームの音で目が覚めたマルは、彼を起こさないように慎重に寝室から抜け出し、居間の電気ストーブとコタツの電源を入れた。室内の空気が十分に暖まったところで彼女は台所に移動した。
シンクには使用済みの食器が二日分ほど溜まっていた。マルはそれを横目に冷蔵庫の前に立ち、三段ある収納のうち下段の冷凍室から順番に開けていき、一番上の段の冷蔵室の中身を物色した。納豆、キムチ、卵、オレンジジュース、麦茶、ヨーグルト、飲むゼリー、豊富な調味料。マルはその中から飲むゼリーに手を伸ばし、冷蔵庫を閉めた。台所のダイニングテーブルにはふた切れ残った食パンも残っていたが、それだと、ただでさえ枯渇していたハヤトの体内から、さらに水分を奪ってしまうような気がしたのでやめておいた。
居間に戻ったマルは、ひとまず飲むゼリーをコタツ台の上に置いて、トイレで用を足した。そのすぐ隣には、上部が開けっぱなしの段ボールがそのまま放置されていた。資源ゴミは毎週木曜日に回収されるらしい。
おしっこが終わり、彼女はテレビボードの横のビニール袋から自分用の食糧を調達し、パウチの切り口を歯で開封した。中身は味気のないシーチキンだったが、とりあえず空腹を満たすことはできた。ますます鮭の塩焼きが恋しくなる。あれは格別に美味しかった。
ハヤトはまだ起きてこなかった。マルはテレビを点けて時刻を確認した。
九時三十二分。いつのまにか一時間半が経過していたらしい。飲むゼリーを探すのに手間取ったせいだろう。マルはコタツの上に置いていたそれを携えて寝室に移動した。
襖は開けたままにして、居間の暖かい空気を冷えきった寝室に流し込む。彼女は布団の中で眠るハヤトに近寄り、ゼリーを枕元に置いた。どことなく呼吸が乱れ、顔色が悪そうに見えた。
「大丈夫?」とマルは声をかけた。
すると、もともと彼は起きていたのか、マルの声に反応して片目を開けた。『……ああ、おはよう。マル』
とても大丈夫そうには思えなかった。首筋には赤い斑点がいくつも広がっている。マルはそれを舌で拭い去るように、順番に舐めていった。
『くすぐったいよ、マル』、ハヤトは口元にかすかな笑みを浮かべた。鼻にかかった、か細い声だった。やがて彼は布団の中から出した手を、マルの頭の上に伸ばした。『心配してくれるなんて、相変わらず優しいんだな』
「本当はこういうのじゃなくて、お粥とか作ってあげられたらよかったんだけど」、そう言ってマルが枕元のゼリーをハヤトの頬に押しつけると、彼はわかりやすく驚いた。「いくら体調が悪いからって何も食べないのはさすがに良くないと思ったから」
しばらく固まっていたハヤトはその後、意識を取り戻したようにふっと鼻を鳴らし、苦笑いを浮かべた。そして身体ごと横を向き、マルの頬に両手を添えた。
マルは黙って彼の言葉を待っていたが、いつまでも彼は口を開けようともせず、ただじっとマルの顔を見つめているだけだった。物珍しいものでも発見したかのような目で。
「どうしたの? 何かついてる?」、つい痺れを切らしたマルがそう尋ねると、彼はその問いから数秒遅れて首を振った。
『ごめんごめん。ちょっと考えごとしててっ──』
ハヤトは何の前触れもなくそこで言葉を中断し、激しく咳き込み始めた。
その唾液がシーツに落ちるたびに、ハヤトの身体は勢い余ってくの字に折り曲がる。彼はマルの頬を触っていた手で自らの口を押さえ、彼女の顔に唾がかからないように反対側を向いた。
「別に気にしなくたっていいのに」
思っていたよりもハヤトの咳は続いた。ニキビを潰した時にでる血と同じように、一度出始めたらなかなか止まらなかった。さすがにその状態が数十秒も続くとマルも心配になり、彼の背中を軽く叩いた。しかしそれでも咳は止まらない。
やがてその呼吸は、肺の中で何かが引っかかっているように、ぜいぜい、と奇妙な音を立てるようになった。ふとハヤトの声が頭に浮かぶ。彼の母はアナフィラキシーショックで死んでいた──。
不吉な予感がした。異様な胸騒ぎがした。そういえば前の男が連れてきた女も首元によく湿疹の症状が出ていた。
マルは急いでハヤトの正面に回り込んだ。彼は口を押さえていた手で、今度は服の首元をしわくちゃになるくらいに強く握りしめ、顔を思いきり歪めていた。たった今まさに、鋭利な刃物を持った何者かが、彼の体内に備え付けられたありとあらゆる機能を侵害している真っ只中であるかのように、彼は歯を食いしばっていた。
「ねえっ、大丈夫?」
返事は返ってこない。
彼女はハヤトの首筋に手を伸ばし、その尋常じゃない冷たさにハッとした。
「なに、これ……」、心臓が凍りついた。
マルは慌てて居間に駆け出し、カラーボックスの上に設置されていた時代遅れの固定電話に手を伸ばした。受話器をなぎ払うように外し、外線ボタンを押してから一一九番をダイヤルした。だらんと垂れ下がる受話器を横目に、スピーカーホンでの通話に切り替える。それから二度ほどコール音が鳴った後、男性の落ち着いた声が電話に出た。
『火事ですか? 救急ですか?』
「救急です、急いでくださいっ。ハヤトが、はっ、ハヤトが大変なんですっ」、マルは早口にそう答えた。
『もしもし、聞こえてますか?』
「聞こえてます。いいから早く来てくださいっ」
『もしもーし』、男性は遠くにいる誰かに呼びかけているような間延びした声で繰り返した。あるいは回線が不調なのかもしれない。『もしもーし、聞こえてますかー?』
マルはつい声を荒げた。「だから聞こえてるって、何回言えばいいのよっ。いいから今すぐ来てよっ。ハヤトが苦しんでるの」
それからしばらくの間、沈黙が流れた。向こう側にいる男性のかすかな鼻息だけが聞こえてくる。するとその間に今度は、寝室の方から漏れていたハヤトの咳がぱたと止んだ。
「大丈夫? 落ち着いた?」
またしても返事は返ってこなかった。彼女はハヤトの様子が気になって、一度その場から離れて寝室に向かった。彼は相変わらず居間に背中を向けて横になっていた。
「少しは楽になった?」とマルは彼の背中に声をかけた。
返事はない。そういえば、ぜいぜいというあの奇妙な呼吸も聞こえなくなっていた。マルはハヤトの肩を掴んで手前に引き、その身体を仰向けに倒した。
彼は口を若干開けたまま、息をしていなかった。
一瞬のうちに全身から血の気が引いた。マルは慌てて居間に戻る。彼女はついさっきも同じことをした。そして固定電話に向かって思いきり叫んだ。「お願いっ、急いで。このままじゃハヤトが死んじゃうからっ」
その声は家じゅうに響き渡り、電話帳に唾が飛んだ。しかしそれでも向こう側にいる男性はそれに応答してくれなかった。火事で老夫婦を亡くした日とまったく同じだった。誰も助けてくれない。
マルは固定電話の前でつい苛立ちを抑えきれず、身体のあちこちを舐めまわし、搔きむしり、そして噛みついていた。
すると程なくして男性の声が聞こえてきた。だが、それは残念ながらマルに向けられていたものではなく、何やら向こう側にいる誰かと会話をしている模様の声だった。電話対応をしている男性ではない他の誰かが、『どうしたんだ、住所が特定できないのか?』と尋ねている。その厳格な声色からして、男性の上司なのかもしれなかった。
『いえ、違うんですよ。発信元はどうやら固定電話のようなので、すでに住所は特定できているんですが……』、男性は途中で言い淀んだ。
『じゃあ何が問題なんだ』という上司の声が間に挟まる。
つかの間の静寂が流れて男性はこう言った。『それがさっきから全く反応がないんですよ。こちらから何度呼びかけても猫の声がするばかりで──』
その会話を聞いてマルの尻尾は力なく垂れ下がった。
イチイチク(No.11) ユザ @yuza____desu
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