私のどん底①
『はじめに』にも記しましたが、他人との辛さの比較は必要ないというのが私の持論です。ですから、私が経験したことなんて記さなくてもいいかもしれない、とも思いました。ですが、①辛さを知らない人間の言葉には説得力がないこと、②同じ経験をした人(している人)の助けになってほしいということ、以上二点から記すことにしました。興味はない方は、ここを読み飛ばしてくださって大丈夫です。
私のどん底は高校三年生のときでした。始業式が執り行われるということで、生徒たちは全員体育館で着席していました。出席番号順で並んでいて、私は列の真ん中より少し後ろの辺り。ふと見渡すと、千人ほどの人間が集まる体育館が急に窮屈に感じられました。不思議ですよね。高校三年生に至るまで似たようなことを何度も何度も繰り返して来たのに、初めてそんな心地がしました。そして、それを意識すると途端に怖くなったのです。
「逃げられない」と、脈絡もなく思いました。これから式が終わるまで小一時間、私はこの窮屈極まりない空間から動けないのだと思うと、怖くて仕方なくなりました。心拍が乱れ、呼吸が乱れ、お腹が痛くなり、最後に手足が痺れて感覚が遠のきました。こんなことは初めてで、なぜだか死ぬと思いました。私の周囲の人が私を見ていることに余計に緊張して、ますます何が何だか分からなくなってしまった。それから式が終わるまで、私は自分がどうやって過ごしたのか覚えていません。どうにかして耐えていたのだと思います。そして式が終わるなりトイレに駆け込み、個室の中で私は泣きました。得体のしれない恐怖に怯えていたのだと思います。これが広場恐怖症の症状だということは、後から知りました。
それから私は身動きが取れない状況になると、同じ感覚を味わい続けました。それでも三日ほどは、どうにか辛抱しながら通学しました。しかし土日を挟んでの週頭からおよそ一ヶ月半ほど、私はほとんど学校に行きませんでした。いえ、どうしても行けなかった。行くには障壁が多すぎたのです。
まず、電車。片道二十分ほどの電車通学が、とてつもなく苦痛でした。駅から駅までの間は長くてもたった三分です。ですが、扉が閉まって走行を始める電車という空間は、どこにも逃げ場がありません。どんなに調子が悪くなってもどこにも行けない。そして、周りには多くの人がいる。調子が悪くなるとこの間も記憶が曖昧になったように、私は何をするか分からない。人に迷惑をかけるかもしれないし、もしかしたら奇行に走って気味悪がられてしまうかもしれない。それならまだいいですが、電車に乗る前にパニックに陥ったら、駅で人を突き落として殺してしまうかもしれない。そう考えると駄目でした。とても電車には乗れないと思いました。
次に、授業。一コマ五十分の授業はもう地獄です。指定された席に座り、ただじっとしていなければならない。調子が悪くなれば先生に断って保健室に行けばいいだけなのに、「授業中の退室を繰り返したら周りにどんな目で見られるか」、「教室でおかしなことをしたら二度と学校に行けなくなる」、こんなことばかりを考えると、座っていられませんでした。親に車で送ってもらうなどして頑張って学校に行っても、精神力が持つのはせいぜい二コマでした。そこから先は、自分の意志の力でパニック状態を抑える自信がありませんでした。
起床も段々難しくなりました。不安から眠れなくなり、ようやく眠るとすぐに朝が来る。朝が来たら、怖くて堪らない場所に行かなくてはならない。起きなければ行かなくて済むかも。そう思うと起きることに意味を感じられなくなってきました。また、疲労も溜まっていたのだと思います。私はそれなりに練習熱心だった運動部に所属していて、まだ引退していませんでした。ですから体力にはそれなりに自信があったのですが、パニックを堪えるのに使う精神力は、肉体の疲れとはまた違う疲労を私に感じさせました。怖いところに行かなくて済むせっかくの土日は、ただ横になるだけで何にもできずに過ぎて行きました。
段々過敏性腸症候群も併発して、パニックに耐えていると腹痛が来るようになりました。本当にお腹も頻繁に下しました。何か食べればお腹を壊す。そう思った私は朝ごはんを抜いて、昼ご飯は二口くらいの小さなおにぎりを一つだけ、夜ご飯はお腹に優しいものを少しだけ、という暮らしを始めました。周りが心配するくらい痩せました。
半月後だったと思います。それらに耐えかねて、早退や遅刻を繰り返しつつどうにかは通っていた学校に、私はとうとう行けなくなりました。朝学校に行く振りをして親が出勤するまで近くで身を潜め、親が出たら家に戻るということも何度もしました。親を騙すことに良心を痛めつつ、そして皆が当たり前にできることができない自分自身を情けなく思いつつ、それでもどうしても行けなかった。そうして家にいたらいたで、罪悪感で潰れそうになっていました。受験生なのに、という焦燥もあったのだと思います。
ただ学校に行けないだけなのに、私はこの頃本気で死のうかと思っていました。自宅はマンションのそれなりに高い階、自室にある窓から身を投げれば間違いなく死ねます。家族全員が寝静まった深夜、泣き暮れながら何度も窓を全開にしました。私が勇敢だったなら、おそらく死んでいました。窓の縁に足をかけても最後の一歩が踏み出せなかった無様な私に、今の私は感謝しています。
ちっぽけな悩みだと、今では思います。しかしやはり当時の私には大きな問題でした。もう少し私の背景を書くと、父が仕事を変えざるを得ない状況にあり、家にお金がありませんでした。私が引きこもりになっても、親には私を養う余裕はありません。大学には行かせてくれると言ってくれましたが——父は塾講師で、学歴へのこだわりが強く、娘にも大いに期待しました——私には妹もいて、彼女のための学費を残そうと思うと国公立にしか行けません。また、家から通える距離の学校でなければなりませんでした。私は、とても勉強を頑張らなければならない状況にありました。そういうことにも、勝手に追い詰められていたのだと思います。とにかく、当時十七の世間知らずの私が絶望するには足る状況でした。辛くて辛くて仕方ありませんでした。ただもう楽になりたかった。何も考えたくなかった。それなのに弱くて死ねない。そんな有様でした。
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