1-07 瑠璃色の幻燈

「…そうして母方の祖母が亡くなった後、私を連れて父母は日本へと飛んだ―――それはまるで夜逃げのような性急さで、自分の身が其処に落ち着くまでは目まぐるしい日々でした。それは私が中等部二年の頃で、一年間の療養と、並行して日本語の勉強を経て琉晴学園への転入…留学を決めたのです」

 初めて自分の事を人に話しました、と締めくくるのとほぼ同時に、使用人の爺やが彼女を迎えに来、「ではまた明日。御機嫌よう、…迅君」と告げながら、エミリーは如何にも高級そうな左ハンドルの車へと吸い込まれていったのだった。


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「じん〜?迅?どうしちまったんだよ」

 早朝の教室で神妙な顔をして黙りこくる迅の周りを、侑斗がひょこひょこと動き回っていた。季節が春から夏に向かい始めているとはいえ未だに日は短く、まだ頼りない日の光が差し込んでくる教室は半袖で過ごすには少しだけ肌寒い。

「なんかあったの?ね〜、前みたいに侑斗ちゃんに相談してよ」

 これから朝のランニングをするつもりなのか、ジャージを身に纏った侑斗が迅の顔を覗き込むようにしながら呼びかけた。


 別になんでもない、と軽く流せるような出来事ではなかった。なにせ自分の隣に座っている無表情の留学生が、何の偶然か唐突に自分の過去を告げたのだ。

 大変だったねとか、辛かったねなどと分かったような口を聞くわけにもいかず、かと言ってはいそうですかとあしらえるような軽い話題でもなかった。どう声をかけたものかと考えあぐねている間に彼女の使用人が車で迎えにやって来て、煙のように走り去ってしまったのだった。


 エミリー・青葛・クロウフットは、心を粉微塵に砕いてしまったから、笑わない。ばらばらに壊してしまったから、泣かない。跡形もなく風に舞ってしまったから、怒らない。彼女の一番の秘密を、本人の意志を確認しないままに言いふらしてしまうなど、あってはならないことだ。迅は唇をぎゅっと結んで、溜め息を一つ吐いた。

「…うーん」

 迅は侑斗の方には向き直らずに、机を見つめるようにして、

「…人って意外なことを隠してるんだって思った。それだけだよ」

 と答えるほかなかった。侑斗は怪訝な顔をしていたが、

「詳しくは言えないけど。…まぁ、良いから、走ってこようぜ」

 迅がふっと笑って立ち上がり足早に教室を出て行くのを見て、しょうがないなぁというような顔をして侑斗は後を追いかけた。


 --

「ミスター杉本のデータベースには『通学手段:電車』と書かれていましたし、学校の最寄りに位置する駅の抱える路線は一つ。その駅の時刻表を以前見かけたとき、琉晴からの下校ならばこのくらいの時間帯だろうかと考えていたことがありまして」

「それでシウ君の電車の時間が分かったわけか!すごいなぁ探偵みたいだよぉ〜…あっ、迅と侑斗君だ」

 更衣室で制服に着替え、迅と侑斗が教室に戻ってくると、昨日の知生との一件について喋っていたであろうエミリーと翔太が目に入った。


「おはよーっす!エミリーちゃんに赤坂クン!」

「はよっす」

 侑斗、続いて迅。

「おはよう二人とも。朝から元気だねぇ」

 翔太がニコニコと笑ってそう返したのち、

「お早う御座います。迅君、降矢君」

 エミリーが透き通ったガラス細工のような声で挨拶をした。

「それで、翔太…本当にやるんだろうな…?」

 迅は翔太の顔を見るなり、怪訝な顔で問うた。翔太その人はふっふっふ、と笑って背負ってきたリュック―――さながらスーパーで長ネギを買った帰りの人間のごとく、中から何やら棒状のものの先端が飛び出している―――を開く。その中から、ポップな絵柄でデフォルメされた太陽や星、月のイラストを糸の先に取り付けたらしい延べ竿が飛び出してきた。それも、三本。

「今日の夜はスーパーナイスコンディションなのでやります!星釣り講習会!」

 背後からピカーッ、と強い光が差すほどの勢いで翔太が決めポーズを取りながら、大きな声で告げた。そのまばゆい光に照らされた迅、エミリー、そして侑斗がそれぞれ呆れ顔、無表情、ぽかんとした顔で見守る。

「あっ、侑斗君もやる?きっと楽しいよ〜」

「へ?あ!いや、放課後は陸部で忙しいからさっ、遠慮しとくわ!」

 翔太に促されたが、侑斗は慌てて断った。それは残念、と翔太。

「天候観測隊は僕が代表な以上もう星釣り同好会と言っても過言ではないよね。ということは隊員のみんなにも星釣りを施さないといけないし、責任重大だぁ…」

 そう目を輝かせる彼に、「勝手に星釣り同好会にすんな!」と迅は突っ込みをかますのだった。


 --

「それじゃあ、これは迅に。こっちは、エミリーに」

 延べ竿Aが迅に、Bがエミリーに手渡される。見ればその延べ竿は釣り堀で用いられているような安価な竹製のものだった。魚を狙うとなれば針先には餌をつけるものだが、迅に手渡された延べ竿にはきりっとした顔の三日月のイラストが取り付けられていて、これから異質な事を始めるんだという雰囲気を盛大に醸し出している。

「翔太…もう一度確認するけど、本当にやるのか?星釣り…」

「何度聞いたって同じ。答えはYES、だよ」

 ウィンクしながら満面の笑みで答える翔太に親指を立てられ、そうですかと肩を落としてしまった。


 琉晴学園の位置する小高い丘は海を臨むのにも絶好のスポットであるが、それと同時に周りに街明かりはおろか空を遮るものもないので、天候さえ良ければ夜空の観察には持ってこいの場所であり(翔太談)、学生達はその暗闇を度胸試しや花火に用いている。毎日強風の吹き荒れる道路を自転車で走らされる身としては学園がもう少し住宅街に近い場所に位置していても良いのではないかと考えがちだが、周りを建物に囲まれてろくに騒げもしない狭苦しい環境よりは今の方が好みだ、と迅は思う。

 また、そのあからさまにタフな通学環境がゆるみがちな私立高校を謎の絆で結んでいるのも確かで、部活動で活躍する陸上選手が豊作なのに加えて何故か学力の全校平均が高いのだという。不思議なこともあるものだ。

 さて、そんな小高い丘から迅、翔太、エミリーが臨む水平線には少し前に太陽が沈んだところで、夕暮れの空は徐々に夜に切り替わり始めていた。

「あれは…宵の明星、ですか」

 ふとエミリーが彼女の斜め前を指さし、誰にでもなく問う。当たり前だがそれを拾ったのは翔太で、

「おおっ!金星さんだね!いや、ヴィーナスというべきか…ああ〜、それは朝夕しか姿を見せてくれない恥ずかしがり屋な天空の乙女〜っ!」

 などと、背景に薔薇でも散ってるんじゃないかと言わんばかりに大げさに跪きながら左手を胸に当て、金星の方向に右手を差し出した。

「ということは、他の人達も姿を現す頃合いかな」

 彼は立ち上がって迅とエミリーを省み、にっこりと笑った。彼に向かって差し込む薄暗い橙の光も相俟って、普段から優しげな表情を浮かべている翔太が余計に温かに見える。


 じゃあ早速だけど、と翔太は自分の延べ竿を取り出す。

「星釣り講習会なんて堅苦しく言ってみたはいいんだけど、要はフィーリングなんだよね、あれは」

 よいしょ、という小さなかけ声と共に、振り子の要領で翔太が彼の仕掛け―――星型で、何とも言えない笑顔を浮かべている―――を虚空に向かって落とす。

「…星釣りはね、こんな風に構えながら、話をしたい星に意識を集中して、星の声を聞こうとする。それだけ」

 釣り人がそうするように、翔太が糸の先に意識を集中する。当然のことながら仕掛けは時折強く吹いてくる風に揺れるだけで、別段変わった動きは見せない。

「…………」

「…………」

 翔太の言うところの星釣りという行為を見るのはこれが初めてだった。夕陽よりも赤いセーターの彼は構えたままほとんど動かないが、ふと思い立ったように―――水中で狙う層でも変えるかのように―――竿先を上から下の方へやったりしている。側から見ると全くもって意味不明な行動なのだが、当の本人は至って真面目で、此処ではない遠い遠い何処かへ意識を集中させているかのように見えた。

 講習会などと言っておきながら『要はフィーリング』などという適当極まりない説明だけ残して翔太は別世界に行ってしまっているわけだが、こんな丘まで連れてこられてしまった以上黙って帰るわけにもいかず、何より場合によっては翔太よりも危なっかしいエミリーを放っておくことはできなかったので、迅は黙ったままの翔太の次の言葉を待つほかなかった。エミリーは、どんな気持ちで彼の背中を見つめているのだろうか。

「……日が強くて、金星さんとはいつも話せない」

 ふと強張っていた肩が脱力するのと同時に、翔太は振り返らずにそう告げた。

「目の前に見えていても届かないものはごまんとある。憧れや強い願いだけじゃ、それには届かない」

 でもね、と続けて、

「図々しくそちらへ向かわなくたって…向かえなくたって良い気がするんだ。神秘的なものは神秘のままにしておくのが一番綺麗じゃない?」

 ふわりと笑いながら翔太は二人を振り返った。

 何だかその笑顔は、一番綺麗な理想を語っておきながら、その理想を諦めてしまった自分への嘲笑のようにも見えて。

「なるほどねぇ」

 意識が飛びかけていて話半分だった迅には、真面目に答えたくてもそう答えることしかできなかった。


 金星が出てきたということは明るい星々ならすぐに出てくる頃合いだろうと翔太は言って、星釣りの基本の構えや投げ方についての説明を始めた。その後に実践編が始まり、やれキャストがなってないだの、星さんに対する姿勢がなってないだの、迅とエミリーが仕掛けを放る度に翔太が駄目出しをしていくという構図が続いた。


「左手でこっちを支えながら、右手で仕掛けを持って、で、こうやって、離すの」

「こう、でしょうか」

「そうそう、そうなんだけどエミリーってばほんとに動きが機械的だねぇ」

「よく言われます」

 翔太はカチコチと動作をこなすエミリーから向き直って、

「迅は諸動作は完璧なんだけどほんとに星さんと向き合う気があるの?」

 と迅を一括した。

「す、すんません…」

「困るよ、そんなんじゃあ」

 呆れたように首を振る翔太、何故急に厳しくなるんだ?と疑問を隠しきれない迅。

「お星様とこれからお話させて頂くんだっていう綺麗な気持ちで向き合っ……」

 もうここまで来ると怪しい宗教の行事みたいだと迅が思ったところで、翔太は弾かれたように空を見上げ、口をつぐんだ。

「どうした?」

 翔太は空―――太陽が沈んでかなり経ったので、真っ暗とは言わないまでもほとんど夜の空になっていた―――を見つめたまま固まっていて、返事をしない。

 彼はそれに留まらず夜空の彼方を指差して、

「…3、4、5、6、7」

 何かの数を数え始めた。

「…北斗七星(ザ・プラウ)」

 彼が指差す方向を見て、エミリーはそう呟く。

 迅もつられてそちらを見遣ると、いつか理科の教科書で見た大きな星の集合が空へ上っていた。何かの道具と似た形をしているから北斗七星という名を冠しているのだと誰かが言っていたような気がするが、肝心なその道具のことは忘れてしまって、どこぞの漫画の主人公の名前みたいだなどと考えていた記憶が根強く残っているおかげで、その名前だけは知っていた。

「大ぐまのあしを北に…五つのばしたところ」

 翔太が何やら小さく歌いながら、夜空に指で線を描いていく。それはまるで子守歌のように柔らかで優しいメロディで、穏やかな翔太が口ずさむとさまになっていた。

「…小ぐまのひたいの上は」

「北極星、ですか」

 翔太が歌い終わらないうちに、彼の指が追う先の星を見てエミリーがそう言った。

「この星の北の天球は、北極星を中心に回転している。とすると、今見ている方角が北、ですね」

「…その通り」

 翔太は薄闇の中で微笑む。

「先程の歌は一体何なのですか」

 気になっていたことをエミリーが尋ねてくれたので、迅は人知れず安堵した。

「小説の一節だよ。僕が考えたわけじゃない」

 翔太は天の北の方を見遣りながら、そう答える。そして、息をついて、

「そしたら星釣り、やってみよっか」

 と二人を振り返って笑った。



 最初のうちは天球のどの辺りに何の星座があるのかやんわりと語ってくれた翔太だったが、次第にその星座だかそれを構成する星だかと星釣りという名の交信を始めてしまい、遂には一切口を聞かなくなってしまった。

 実践でも投げ方がどうだとかこっぴどく叱られるのを覚悟していた迅は呆気なく解放されてしまい、適当に、本当に適当に延べ竿を構えて星空を眺めていた。


 翔太曰く新月の日は夜空の明るさが暗くなるので、星の観察―――彼の場合、星釣りも含む―――には最適なのだという。だから昨日はあんなに大慌てで帰っていったのか、と迅は回想した。完全な新月ではないにしても月の光が弱い今日もその例外ではないらしく、最善ではないが良いコンディションとのことだ。


 ―――夜空の明るさなんて、気にしたことがなかった。


 迅はほとんど名前の分からない星座の集合を目で追いながら、ぼんやりそう思った。

 この丘の標高はさほど高くないはずだが、自宅の窓から見るよりも星々がよく見える。周囲の明かりが邪魔をしていないからだろうと、迅は素人なりに予想を立てる。

 それにしても、赤坂翔太という男は本当に刻一刻と変わる空のような人間だ。太陽さんさんの昼間はあんなにも元気に星釣りへの意気込みを語っていたのに、やがてその太陽が沈んで空に星が満ちるとすっとその勢いが溶けて、今では静まりかえってしまい、それどころかかなりクールな印象を受ける。こうして黙っていた方が女子受けが良かったりするのかな、などと迅はぼんやり思った。


 エミリーはどうしているだろう、と左隣を見遣ると、彼女もまたそのガラス玉のような目で星空を見つめていた。

 彼女は翔太とは相反して一日を通して不変であり、極めて機械的―――無機質な人間だ。目をかっぴらいたまま喋る人型ロボットの類いをテレビで見かけるが、彼女は彼等と似ている―――またはほとんど同じで、表情に喜怒哀楽の一切が反映されていない。しかしそんな彼女にも、どうやら感情があるようなのだ。たとえ石膏で固められてしまったように無表情だったとしても、この美しい星空を見上げて何かしら思うところがあるのだ。


 ―――思うところ、ねぇ…


 限られた短い時間ではあったが、エミリーは自分の過去を迅に話してくれた。道端の立ち話にしては少し重かったかもしれないが、承知の上だったのだろう。人が表情の一切を削ぎ落とされるには、それ相応のバックボーンが必要なのだ。


 ―――確かに、あの人のやり方は手荒などという言葉では済まされなかったと思います。でも、それでも、それがあの人の生き方であり、思想だった。それを否定する権利は私にはありませんし、ましてやその死を喜ぶなど…以ての外なのです。


 エミリーは母国であるイギリスで、母方の祖母から虐待まがいの英才教育を受けて育ったらしい。というのも父も母も多忙で、彼女の屋敷に預けられることが多かったのだという。幼い彼女はそれが自分にとって当たり前なのだと思い込む一方で、無意識に耐え難いほどのストレスを感じ、家柄に恥じぬようにという使命感と板挟みの逃げ出せない状況で逃げようとした結果、感情が消し飛んでしまった。

 優秀な孫が欲しいというエゴを押し付けられて喜怒哀楽が欠落してしまったにも関わらず、その元凶である祖母のことは頭ごなしに否定できないなどと言うのだから、彼女が誠実過ぎるのか、それとも否定すらできないように洗脳されてしまったのか。いや、こうやって哀れんだところで彼女に失礼だろう。何故ならエミリーは、彼女なりに今もしっかりと歩んでいるからだ。歩みの途中にあったこの星釣りに興味があるのかはともかくとして、だ。


 ―――思うところ…


 そんなエミリーが、他でもない自分だけに過去を打ち明けた理由は何なのだろう。ふと記憶の彼方に『人からこんな風にされたら嫌だろうなって、自分のことに置き換えて考えられないのか』と母親に叱られたときのことがよぎって、自分の場合を想像してみる。


 ―――自分について、人に知って欲しい時かな。


「どうかされましたか」

 突然、プロキオンの光のように真っ直ぐな声に思考をシャットアウトされる。エミリーは迅の方を無表情で振り返っており、視界の中で首を傾げていた。

「ああ、いや、……考え事してた」

「そうですか。何やら迅君から視線を感じたので、顔に何かついているのかと」

「あ、あはは…そういうわけじゃなくてね」

 迅は苦笑いしつつ、なにをぼんやりしているんだと内心頭を抱えた。


「天の庭の彼女は北の空の中心軸なんだよ」

 適当に構えていた延べ竿すらも置いてしまって、迅とエミリーは丘の上に寝転んで当てもなく空を眺めていたのだが、いつからそこに居たのか、迅の隣に寝転んだ翔太が静かにそう言った。

「これだけ長く向き合ってると、色んな星が少しずつ動いてるのが分かるでしょう。でも、彼女だけはその位置を変えずに留まり続けている」

 彼女、と言いながら、翔太は天に浮かぶ北極星を指差す。

 北極星は北斗七星から辿ることでアクセスできる著名な星だが、意外にもその光は頼りない。というのも、アルタイルやベガといったいわゆる一等星の星々に対し北極星は二等星で、若干光度が劣るらしいのだ。それが長きにわたって航海や測量など人類史の発展に大々的に寄与してきたというのだから分からないものだなと、いつか翔太が話してくれた際に迅は頷いたものだった。

「翔太、北極星好きだよな。何か特別な思い入れでもあんの」

 迅が翔太の方は見ずに、上を向いたまま問う。

「……恋してるんじゃないかな」

「は?」

 そんな台詞を恥ずかしげもなく吐いて見せる翔太の方を見遣るが、彼の目はいつも以上にぼうっとしていて、それこそ本当に恋煩いにかかった人のような顔をしていたのだった。

「僕が昔、自分を失いかけた時に道しるべになってくれたから。好きなのかもね」

 そして、ふふふ、と静かに笑ってみせる。

 エミリーと同じだと迅は思った。エミリーが笑わなくなったのと同じように、きっと翔太にも星を釣ることが趣味です、北極星が好きです、と言うようになるだけの特別な理由がある。それが何なのかは、彼の電波さ加減も相まって見当もつかないけれど。

「気になっていたのですが、北極星は女性の方なのですか」

 迅の隣で、エミリーが上を向いたまま翔太に問う。

「多分、そうなんじゃないかな」

 力ない、曖昧な返答。

「と言いますと」

「彼女にだけは僕の声が通じないから、本当にそうなのか定かじゃないんだ」

「星釣りのspecialistの赤坂君でも、応えてくれない星はあるのですね」

「どうなんだろう、僕の力量不足かも知れないし、そうじゃないのかも知れない」

 あやふやな、自信のない返答が続く。

 そこで、迅の持っていた携帯端末がポケットの中で振動した。迅はそれを取り出し、画面に表示されたニュースのトピック―――ある時間になると、アプリが勝手にニュースを配信してくれるもののようだ。そんな真面目なもの、いつ入れたのだろうか―――を認めた。


『大人気ネットゲーム【プラドリ】一部機能停止

 サービス開始以来初のトラブルか』


「なんだって?」

 翔太が上を向いたまま問うてくるが、

「ネットゲーム?が、一部機能停止?したらしい、ニュースの通知だった」

 迅はその記事のタイトルを読み上げるだけに留めた。そして電源を切って端末をポケットにしまったのだが、

「…あれ?さっきまで見えてたのに」

 そこで、夜空の星が見えなくなったことに気付いた。

「ああ、明順応・暗順応ってやつね」

 翔太が軽く笑った。

「明るいところから急に暗いところに入ると周りが見えにくくなるでしょう、でもしばらくすると見えるようになってくる。それと同じで、さっき明るい画面を見たから暗い夜空が見にくい状態になってるんだね」

「へぇ…」

「迅君、明暗順応についてはこの前生物の講義で習った気がするのですが」

「げ、そうだったっけ…」

 不勉強をまたしても指摘され、苦い顔の迅。

「とまぁこんな感じで、夜空とか星にまつわる体験ができたら良いな、なんて今回は思ってた。二人が星を見るのを楽しんでもらえたなら良かったんだけど」

 翔太が急に真面目になるので、迅は面食らった。

「嘘つけ、絶対俺ら主体じゃなかったろ!自分だけ星釣りエンジョイしてたじゃねえか」

「良いじゃないか!山を前にして登らない登山家が居ないのと同じなの。星を目の前にして釣らないわけにいかないでしょ!」

「…でもまぁ、真面目に星空を見るなんて普段なら絶対やらないことだったし、楽しかったかな」

 素直に認めると、翔太はよかった、と満足げににこにこと笑ってみせた。ところで迅、と彼が言葉を継ぐ。

「今何時か分かる?」

「あぁ、今は21時……って、もうそんな時間か!?」

 迅は大声を出して跳ね起きた。翔太とエミリーもそれに続いて上半身を起こす。

「まぁ、帰りは遅くなるとは言ったけど…エミリーは?」

「私は、終わり次第迎えを頼もうかと思っていたところです」

「そうか…」

「そうしたらぼちぼち解散かなぁ〜」

 ふわぁ〜、と長い大きな欠伸をして、翔太がのびる。

「解散とは言っても、こんなところでお開きにされてもって感じだし、駅まで歩いて行こっか。エミリーは、お迎えの人に駅まで来てもらうように言ってね」

「そうさせて頂きます」

 翔太にそう提案され、頷くエミリー。

「それじゃあ、今日の星釣り講習会はお開きです。ありがとうございました」

「あざっした」

「ありがとうございました」

 翔太の挨拶を受けて、迅とエミリーはぺこりと頭を下げるのだった。



 迅と翔太は自転車を押しながら、エミリーは徒歩で、駅への道を辿った。

 いつもは一気に自転車で駆け下りる学園の前の真っ直ぐな坂道だが、こうして自転車を押しながらゆっくりと歩こうとするとかえって辛いことが明らかになった。人と歩みの速度を合わせることの難しさを、変な場所で実感するものだ。

「…ええ。遅くなってごめんなさい。駅に着くのは、…」

 エミリーが、迅の隣で迎えの人―――恐らく爺やだろう―――と端末を用いて連絡を取っている。その様子から判断するに、こっぴどく叱られてはいなさそうで安心した。

「翔太ん家ってどの辺?」

「僕の家はねぇ、あの住宅街よりももう少し山の方寄りで、…川の近くなんだよ」

 住宅街、と言って翔太が指差したのは、迅の自宅が位置するところだった。琉晴近郊には川が流れていて、その氾濫を防ぐ為に土手が設けられている。そこはサイクリングロードとしても利用されているのだが、どうやらその川からしばらく山の方へ行ったところに赤坂邸はあるようだった。

「いつかおいでよ、きっとお父さんもお母さんも喜ぶよ」

「おう!俺ん家にも来いよ、あ、でも事前に言ってくれよな、部屋の片付けさせて」

 二人は顔を見合わせて、げらげらと笑った。そこで、ああそうだと迅は思い出したように零す。

「俺、星釣りは流石に難しくて分かんないけど、翔太が星のこととか空のこととかすげぇ好きなのはよく分かったよ。だからお前がその気なら、やっぱりこういう活動は学園内外問わずに広めていくべきだと思うぜ」

 一呼吸おいて、翔太の顔がぱあっと、あからさまにほころんだ。

「本当に?そう言ってもらえて嬉しいよ!」

「そうそう。だからさ、サイトの件、頑張ってこうぜ」

 とは言っても、俺はなんにも出来ないんだけど…と頬を掻きながら迅は付け加えたのだが、翔太は太陽顔負けの笑顔で、

「うん!ありがとう!」

 と応えてみせるのだった。


 無機質な秀才:エミリーと、三度の飯より星が好きと言っても過言ではない男:赤坂翔太という、普通の生活をしていれば友人には選ばないであろう二人と共に迅は坂道を下っていた。…そう、普通ならば、だ。


 ―――何がどうしてこうなって、三人で星を見に来たんだっけ。


 始業式の日に、エミリーがやってきて。

 それから、早朝の教室で翔太を見かけて。

 たったそれだけのきっかけでこんな風に物事が転んでしまうこともあるのだ、と自分の事ながら感心してしまう。


 ―――ごめん、なさい…俺のせいで…


 ふとした瞬間、噎せ返るような夏の記憶が蘇る。が、それも一瞬で、記憶と共に訪れた熱気はすぐに爽やかな海風にさらわれてしまった。

 考えてみたら、『あれ』も些細なきっかけだった、と迅は回想する。今考えればあんなことで、何も考えずに真っ直ぐに走り抜けてきた陸上の道が一気に閉ざされたような感覚に陥り、気が付けば一年間部活に顔を出していない状態にまで堕ちていた。些細なきっかけで、陸上から離れてしまったのだとしたら。

「……逆も有り得る…?」

「いや、カストルとポルックスはあの位置で間違いないよ」

 迅の意識の外で星座の話をしていたらしい翔太が、そう応える。

「何の話だよ」

「迅の方こそ」

 しばらく沈黙が続いて、迅が先に吹き出し、聞いてなかった、ごめん、と謝る。

 駅までの一本道は、街灯に明るく照らされ、彼等の前に長く長く続いていた。

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