1-05 Shrinking Violet

「今日の昼休みにしようよ」

「急に会いに行ったら相手にも悪いと思うんだけど」

「じゃあ、放課後?」

「いや放課後は昨日の二の舞だろ」

「確かに微妙かと」


 天候観測隊の面々は、朝礼を控えたD組の教室の一角でああでもないこうでもないと議論していた。いつも迅が登校しているのは学校が開くかどうかというようなとても早い時間帯であり、当然教室は人一人おらず静まりかえっているのだが、今は始業時刻の10分前ともあって、打って変わって騒がしくなりつつある。


「三人とも仲良くなぁに喋ってんのっ!」

 その正体の掴めない喧騒の中から飛び抜けて大きな足音を響かせながら、降矢侑斗が輪の中へと飛び込んだ。

「ああ、なんだ、侑斗か」

「なんだってなにさ、冷たくね!?迅君のイジワルー!」

 勢いを完膚なきにまでかき消すほどの冷たさでもって迅が返すので、侑斗はぽかぽかと背中を叩いて喚いた。

「悪いけど侑斗、後でな。とにかく俺達が知ってるのは六刻むつき冬也…ってやつだけだし、せめて座ってる席くらいは先に把握しといた方が良いかもな」

 軽く右手で侑斗をあしらいながら、迅は提案を寄越す。

「ええ、私も賛成です。その方が会いに行くときに短時間で見つけられます」

「そうしたらまずは様子を見に行くところから始めてみようか〜」

 エミリーと翔太は同調するように頷いた。迅はともかくエミリーちゃんに無視られると流石の俺も凹むけど、と侑斗は迅の背中でしょげている。


「冬也ぁ?その名前聞くとムカつくんですけど」

 突如、そのやりとりのさなか、遠くの方から大きな声が響いた。四人が一斉に省みると、視線の先には茶に染めて毛先の傷んだショートカットの髪にパーマを当てた、所謂ギャル風の外見をした女子生徒の姿があった。彼女は自分の席に足を組んで腰掛けており、そのスカートの丈は規定の位置よりもかなり短く、学校指定のネクタイもしていない。あまつさえ思い切り座っている椅子を引いていて、周囲を通る生徒のことなどまるで意に介さないような様子だった。

「あんなヤツに用事あるとかマジ?グループの程度の低さが知れてるわね。ウッザいわぁ、名前出さないで欲しいんですけどー」

 女子生徒は背中を椅子に乱暴に預けながら、特大の独り言を吐いている。明らかに、迅たちに聞こえるように言っていた。

「…何なんだ?あの子」

 翔太がメンバーの面々の方を省みて顔をしかめたが、迅はまあまあ、とそれを宥め、女子生徒の方へと歩んでゆく。

「えーと、もしかして、冬也のこと知ってる?」

「うわ、まさかアタシの独り言聞きつけて来ちゃった感じ?地獄耳ねぇ、つかアンタ誰」

 控えめに問いかけてはみたが、盛大な独り言と同様に舐め腐ったような口調で女子生徒は応じるだけだった。対して迅は、こういうときこそむっとしたりせずに朗らかに、と自分に呼びかけながらにっこりと笑って、

「俺は、黒羽迅。話すのは初めてだよな?よろしく」

 と言った。

 するとどうしたことだろうか、その女子生徒は目を見開いて固まると、かぁっと顔を上気させてしまった。

「はっ、はぁっ?何よ急にっ、馴れ馴れしくしないで欲しいんですけど!」

 女子生徒が突っぱねるように叫ぶ。何だ、あからさまに態度が切り替わったぞ。迅は怪訝な顔になりかけたが、本題から外れないようにと首を振って仕切り直す。

「名前、教えてもらっても良いかな。お前って呼ぶの嫌だし」

「別にアンタなんかに呼ばれても嬉しくないし…」

「俺の事は迅って呼んでくれよ。名字で呼ばれるより、名前で呼ばれる方が好きなんだ」

「何なのようるっさいわね!誰が呼ぶもんですか!」

 遂に女子生徒は腕を組みながらそっぽを向いてしまった。彼女の嵐のような応対に迅がぽかんとした顔でその場に立ち尽くしていると、

「……白和泉しらいずみ麻望あさみよ。アンタと同じ。アタシも名字で呼ばれるのが嫌だから、呼びたいなら名前で呼べば」

 と、顔を背けたまま小さな声で呟くように名前を名乗った。迅は少し思案して、

「じゃあ、麻望」

 と話を持ちかける。

「俺、どうしても冬也の力を借りなきゃならないんだ。もし何か知ってるなら、教えて欲しいんだけど」

「……ふーん」

 女子生徒―――麻望―――は迅を振り返り、エミリーや翔太の居る窓際を見、

「アンタ…迅。ちょっとこっち来なさいよ」

 と言って、立ち上がるや否や廊下の方へと歩を進めた。迅はその後に着いていく。

「何だよ、あの横暴な態度」

 翔太がその後ろ姿を見送りながら、小さな声で呟いた。



「アンタ、陸上部よね」

 廊下に沿って規則的に取り付けられた窓の側に立ち、麻望が尋ねた。よく全校集会で表彰されてたしそうなのかなと、と付け加える。

「…まぁ、形式上はな」

「…気に障ったなら悪かったわね」

 やはり迅が陸上部であるという認識は、皮肉なことに過去の輝かしい戦績のおかげでこの学校中に知れ渡っているらしい。決まりが悪そうに迅は顔を伏せたが、麻望は先刻とはまるで真逆の態度で、素直に謝罪を寄越した。

「アタシのこと、覚えてない?一年の時、部結成にだけ参加して、それから一回も行かないうちに退部しちゃったんだけど」

「部結成にしか参加してないとなると…ごめん、覚えてないな…」

「別に謝らなくて良いんですけど。その方が好都合っていうか」

 はあ、と麻望は短くため息をついたのち、軽く辺りを見回して、

「アタシ、あの時彼氏が居たの」

 と小さな声で言った。

「入部する前は部活しながら彼氏とも付き合っていけると思ってたんだけど、琉晴の陸部がガチだって知らなくて」

 腕を組み、眉間に皺を寄せる麻望。

「それで彼氏と会えなくなるのが嫌だから、陸部やめたの。なのにあの男…!信じられないのよ!大切な人がいるから、お前とは付き合えないから、じゃあなって。あっさりよ、あっさり!意味分かんないんですけど!」

「…お、おう?」

 意味分かんないんですけど、は此方の台詞だ。迅は面食らってしまった。六刻冬也のことを教えてくれるという話なので着いてきたはずだが、何故か廊下のど真ん中で他人の色恋沙汰を聞かされる羽目になっている。

 怪訝な顔をしている迅を見て麻望はきょとんとした顔をしたのち、眉根をひそめ、

「あの、まだ分からない?」

 と溢した。な、何が、と言葉を詰まらせながら迅が首を傾げると、

「だーかーらー!」

 彼女は履き潰した上履きで滑らかな廊下のタイルをドン、と踏みしめて、

「その男が冬也なんだっつの!」

 と大きな声で叫んだ。

 その直後、しまったというように麻望は焦燥しながら廊下を見回した。幸いにも、麻望の声に反応した者は居なかったようだ。

「あーっ、な、なるほど!俺、恋愛に疎いから全然気付かなかった」

 迅は慌てて笑って、後ろ髪をぐしゃぐしゃと掻きつつそう取り繕った。

「ま、まぁ、アタシの話も分かりづらかったわね…」

 腕を組みながらそっぽを向いて、どもりながら麻望。

「とにかく、冬也とはそういう経緯で知り合いなの。そんな超ムカつく冬也に一体何の用なわけ?」

「そうだ、それが本題なんだって」

 迅はそれだよ、とでも言うかのように手をポンと打った。

「冬也って、パソコンに詳しい?」

「確か得意だったはずよ。気持ち悪いの、ひたすらパソコンに向かってワケ分かんない英語?打ってて」

 杉本のデータベースどおり、やはりパソコンにはかなり強そうだ。彼女の前でもコンピュータと戯れているというのだから、筋金入りのパソコン好き―――パソコンに疎い迅の脳内にはプログラマとか具体的な単語ではなく、こういう曖昧な表現しか浮かんでこない―――らしい。

「どんな性格?話しやすい?」

「話しやすいって言われると…」

 そこで、うーん、と唸る。何やら思案している様子だった。

「見かけは、ね。明るいし、笑顔が絶えないし。でも、何て言えば良いのかしら…」

 俯いてしばらく沈黙したのち、

「陰がある気がするの」

 と、廊下のタイルに向かって静かに零した。

 彼女の言葉の意味が良く分からず、へえ、と曖昧な相槌を打ってしまった。笑顔が絶えないのに陰があるというのは、一体どういうことなのだろう。

「上手く説明できないけど、アタシにも全てを見せてる感じじゃなかったの。まあ、そこが良かったんだけど…」

「なるほどな…どうだろう、少しだけなら、協力してもらえたりしないかな」

 まぁそこはなるようになるわよ、と麻望。

「アタシが教えられるのはこれだけ。どう、満足?」

「うん、参考になった。わざわざありがとな、麻望」

「…ふん。全くだわ、アタシに時間取らせて…感謝しなさいよ」

 迅が礼を述べると、麻望はつんと顔を背けて、廊下の向こうへと大股で歩いて行ってしまった。


 ―――陰、ねえ…

 ぼんやりとその言葉を反芻しながら、迅はD組の教室へと身を翻した。



「それで、あの子何だって?」

 戻ってきた迅に翔太が問いかける。迅は先程の麻望との対話の内容を彼なりに整理して翔太とエミリーに伝え、

「話せなくはないっぽい。意地悪じゃないし、何とかなるだろうって」

 と締めくくった。ふうん、と翔太。

「お昼と放課後と、彼はどちらが暇なのでしょうか」

「どうだろうね…行動パターンを押さえるためにも、まずは今日試しにA組に行った方が良いと思うんだ。きっと、クラスメイトに聞けば席の場所も分かるだろうし」

「運が良ければ、今日会えるな。取り合えず昼休みに出掛けるか」

 三人は顔を見合わせてうん、と頷くと、本日の行動計画を固めた―――

「えー?迅、昼は走らねぇの?」

 侑斗が不満げな声で訴えたのはその時だった。顧みると、侑斗の膨れている顔が目に入る。

 何故だろうか、迅にとってとても稀有なことだったが、話の腰を折るような侑斗の子供じみた我が儘に無性に腹が立ってしまった。続けざまに、自分でも驚くほどに大きな溜め息が生じる。

「さっきまでの話聞いてたろ?今日は用事があるから走れない。お前一人で走ってこいよ。つーかお前…中学の頃から変わんないな。毎日毎日ランニングに俺ばっかり誘って寂しがりかよ」

 一瞬、侑斗は無表情で固まった。が、しかし、

「バッ、ちっげーし!俺は寂しがりなんかじゃないぞ!何言ってんだよぅ黒羽先輩が好きだからだよぅ好きな人と走りたいじゃないですかぁ〜」

 などと、何事もなかったかのように茶化した。

「はいはい、分かった分かった。俺が好きなのは分かったから、いい加減一人で何でも出来るようにしろよな」

 迅はそう諦めた様な声で言ったのち、翔太達を残して席を立ってしまった。

「………」

 侑斗はその後ろ姿を見て一瞬だけ唇を噛んで何かを堪えるように俯いていたが、ふう、と息を短く吐くと、

「んじゃ赤坂クンにエミリーちゃん、昼休みは迅の事よろしく頼んだぜっ!」

 と満面の笑みで言い残して席を立った。

 何で僕だけ名字なんだろ、とその背中を見送りながら翔太が小さくぼやいた。


 --


 ―――ったく、フユキのバカ…


 所変わって、此処は件のA組の教室。現在は古文の授業のさなかだ。窓の外では太陽が空高く上り、柔らかな風が教室内へと吹き込んでいる。


 ―――今日の昼休みは一緒にゲームするって決めてたのに、アイツときたらすぐ約束破るんだから…


 窓の外に広がる爽やかな風景と相反する不満の数々は、教室内でも日の当たらない、隅の方の席に座った男子生徒の心の中のものである。長い前髪を横に流しているせいで彼の右目はほとんど隠れてしまっている。そして彼が机の下で操作していたのは、なんとポータブルゲーム機だった。絶妙なスライドでボタンの鳴らすカチカチという操作音を緩和し、教師と手元の間に死角となる机が入るよう位置をキープし続け、姿勢は不自然にならないように、かつ無表情を保つ。この男子生徒は常人の成せる内職の域をとうに超えた技術を以て、授業中にまでゲームを進めようとする熱心な、いや、中毒を拗らせたゲーマーだった。


「この文献で最も重要視されている概念は何か。…そう、無常観だ」


 ―――無情だ。フユキは俺の予定を狂わせても何とも思わない無情なヤツなんだ。もういい、俺は授業中にフユキを出し抜いてやる。


「この無常観が、日本人の美意識の特徴の一つとされる」


 ―――美意識か。ちなみに俺が美徳とする事は毎日欠かさずゲームを続けること。


「ああ、一つ言い忘れていた。まだテストは先の話だが、授業ノートは全員に提出してもらう」


 ―――俺を甘く見ないで欲しい。俺は全部完璧にノートを写した上でゲームに勤しんでるんだから。


 ゲームをプレイしながらも、教師の言葉にも耳を傾けることを怠らない。

「…よし、今日の範囲はこれで終わりだ。時間が余ったから、後は自習して過ごして良いぞ。チャイムが鳴るまではなるべく外に出ず、教室内で静かにしているように」

 教師がそう言って教室を後にするのを確認したのち、今だと言わんばかりに生徒が一斉にざわつき始めた。その瞬間、男子生徒はゲーム機を机上に出し、ショルダーバッグの中から疾風と見紛う速度でイヤホンを取り出して接続し、その聴覚をバックグラウンドミュージックの中へと投じた。


 ―――BGM無しじゃやってられない。この音楽を聴かなきゃ、このゲームの意味が無い。


 彼が一旦ポーズ画面を開き、息をついて細い指をぽきぽきと鳴らし始めた時、授業の終わりを、そして同時に昼休みの始まりを告げるチャイムが響いた。しかしこの男子生徒は既にゲームの世界に完全に入り込んでしまっていて、大きなチャイムの音も、生徒が次々に席を立って騒ぎ出す挙動すらも気に障らなかった。


 ―――よし…いける…


 ポーズ画面を閉じるとすぐに、凄まじいコマンド入力が繰り出される。物静かな様相とは反比例するように、ゲームに異様なまでの熱情を向ける男子生徒。彼が勤しんでいるのはタイムラップ制のゲームらしく、制限時間内に出来るだけスコアを伸ばせば良いらしい。


〈mission complete!〉

〈your lank is "SS"! excellent!!〉


 ―――よし…!


 男子生徒は無表情のままながら、机の下で小さく、本当に小さくガッツポーズを決めた。挙動こそ控えめだったが、彼の心のうちは全知全能の神の力を手に入れたとでも言うようなこの上ない喜びに満ちていた。


 ―――やった、やった…まさか学校で、ポータブル機でSS達成できると思ってなかった…


「さて、件のA組に来たわけだが…」

 独りしみじみと喜びを噛み締める彼の後方で、迅。

「パッと見た感じ、居ないみたいだね」

 うーんと唸りながら、翔太。

「何かのご用事でご不在なのかも知れません。クラスメイトの方に聞いてみるというのは如何でしょうか」

「じゃあ…この人、この人で良いかな」

 エミリーの提案に押され、迅はゆっくりと男子生徒に近付く。彼はというと、次なるスコアの更新に向けて再び策を練り始めていた。

「あの、すいません」

 当然のことながら、イヤホンでゲームの世界に陶酔している男子生徒からは反応がない。迅はおかしいな、というように首を傾げて、

「ちょっと、良いですか?」

 と声をかけながら、男子生徒の肩を叩いた。もちろん迅の声に気付いている筈もなく、唐突に自分の肩に他人の手が触れたわけで、男子生徒はびくりと身体を震わせてしまった。

「………」

 ゆっくりと、まるで恐ろしいものでも確認するような面持ちで男子生徒が振り返る。その耳のイヤホンを認め、ああ、と迅は目を見開いた。

「イヤホンしてたのか!驚かせてごめん」

「……別に、良いですけど」

 迅は掌を合わせて慌てて謝罪したが、男子生徒は俯きながら、昼休みの喧騒に掻き消されてしまうほどのとても小さい声で反応を返すだけだった。その応対はあまりにも素っ気なく静かで、居た堪れない心地がしてしまう。

「も、もしかして、怒った?ごめんな…」

 迅は冷や汗を浮かべた。再び訪れるであろう新しい出会いに胸を躍らせながら期待感のままに教室を飛び出してきてしまったが、あまりはしゃぐもんじゃないと何者かに出鼻を挫かれたような心地だ。翔太やエミリー、先刻の麻望もそうだが、これまでのエンカウントが上手くいきすぎていたのかもしれない。普通はこういう怪訝な顔をされる出会いの方が多いのかも知れない―――

 と独り肩を落としていた迅を見、男子生徒はきょとんとした顔をして、

「あっ、いや。別に怒ってはないです…その…びっくりしただけです」

 と慌てて述べた。男子生徒は「え、そうなの」と間抜けな返事をする迅を見、迅の後ろに立っている翔太とエミリーをちらりと目線だけで窺うと、まるで何かに怯えるように再び目を伏せて俯いてしまった。

「こちらこそ、急に話しかけたりして悪かったな。ところでさ、ちょっと聞きたい事があるんだけど。良いかな」

「……何ですか」

「六刻冬也って人、どの席に座ってるか分かる?」

「え」

 六刻冬也という名前を聞くなり、男子生徒は条件反射のように顔を上げた。彼は「あ、えと」などとどもりながら、自分の一つ隣の席を指差し、

「此処に…座ってますけど」

 と言った。

「あ、隣なんだ!案外近かったな」

 尋ね人の気配に、思わず顔が綻んでしまった。しかし肝心の冬也の席を窺うも、荷物と思しきものは見受けられない。仮に置き勉を採用したとしても、流石にここまで持ち物を少なくすることはできないだろう。ゆえに欠席なのかと問うに至ったが、男子生徒ははい、と静かに頷いた。

「参ったね、迅。外見が分かるのは彼だけなのに」

 翔太は唇をむっと尖らせて、困ったような様子だ。

「うーん…どうすっかな…あ、じゃあさ、何だっけ…そう!碓井知生って人、知ってるか?」

 碓井知生という名前を聞くなり、男子生徒は声も出せぬままに目を丸くした。六刻冬也という名を聞いたときより驚いたような様相である。男子生徒は少し顔を赤らめつつ、困り顔になると、戸惑いがちに小さな声で言った。

「あ…あの、俺が、碓井です」

 斯くして、迅は奇跡的に一撃で碓井知生ともたかを引き当ててしまった。


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「よし、此処が視聴覚室か」

 迅が例のごとくお願いします、と宣言して視聴覚室へと歩を進め、

「失礼します」

「失礼しまーす」

 エミリーと翔太が後に続いた。

「碓井君はまだ来てないみたいだね」

 がらんどうの部屋を見渡して翔太が言う。

 パーソナルコンピューターが規則正しく列を成す視聴覚室は、日中は多学年にわたって授業で用いられているものの、放課後にもなれば人の気配は消え静寂に包まれている。その人工物ばかりの部屋には大きめの窓から夕陽の橙の色が差し込み、机やディスプレイの表面に薄く滑らかな和紙のように優しく被さっていた。

「上手くいくと良いんだけどな」

 そうぼやきながら、迅がパソコンの列を縫って歩き回る。


 結局、昼休みのA組で六刻冬也の居場所を問おうと迅達が話しかけた男子生徒は、杉本のノートで写真を剥がれていたあの碓井知生本人だった。常人ならざるパソコン捌きを難なくこなして見せる人物に出会うことができ、ホームページ作成に向けての道を指し示す神が現れたのだと勝利を確信した迅達であったが、そんな彼等に知生はこう述べたのである。

「本当に申し訳ないんですが、ホームページ作成にはあまり詳しくないんです…」

 どちらかと言えば六刻くんの方がそういうプログラミングの方面にはめっぽう強いんです、と彼は付け加えた。そうなんだ、と肩を落とす迅たちを知生は遮って、

「でも…何とかなると思います。頑張ります」

 と、思いの丈を語ったのだった。

 そんな彼に今日の放課後は特に用事も無く空いているのかと問うたところ、もし迷惑でなければ今日からでも是非手伝わせて欲しい、という旨の返答が返ってきた為、早速学校の視聴覚室を借りてホームページ作成に取りかかることになったのだ。

「ところでジャバなんとかって何だったんだろう。シャバの間違いじゃなくて?」

「黒羽君、私はシャバという言葉をそもそも知りません」

「多分知らなくても平気だと思うな」

 未知の言語について呑気に三人が語らっていると、

「お、遅くなってごめんなさい!」

 と、図書室で借りてきたらしい数冊の本と共に知生その人が雪崩れ込んできた。かなり息が荒く、急いで視聴覚室に向かってきたものだと思われた。

「あれれ、そんなに急がなくても良かったのに〜!」

 翔太は小走りで知生を迎え、身体を気遣うようにそのほっそりとした肩に手を添えた。

「いや、あのっ…俺、ほんと体力無いんで…小走りで階段上ってきたら…息上がっちゃって…ごめんなさい…」

「ほらここ、掛けて掛けて!」

 迅が視聴覚室のキャスター付き椅子を引っ張り出し、知生に腰掛けさせる。すいません、ごめんなさい、と彼は本日何度目かも分からない謝罪を並べ、顔を覆って一息ついた。彼はそのまましばらく下を向いていたが、ふー、と長めの息をついて、「もう大丈夫です」と頷いた。

「それで…これ、少しだけ読んできたんですけど」

 数冊の本の内一番上にあったものを取り上げて、ぱらぱらとページを開き、

「…なかなか、面白かったです」

 無表情を繕いつつも、口元を僅かに弛ませて知生が言った。

「面白い…ってことは、やっぱり理解できるんだ…」

 迅の口から震えたような声が漏れた。異質なものを飲み込むだけでなく、自分の中で噛み砕かなければ、面白いという感想は生じまい。彼は未知の言語に怯えず、真正面から迎え撃ち、さらにはその手応えをなかなか面白いと評するほどの余裕を持っている。

「お前、すごいなぁ…」

「あ、ありがとう…ございます…でも、俺にできることなんてこれくらいしかないですから…」

 知生は分かりやすいほどに肩をびくつかせ、困ったように顔を赤らめている。

「あ…そういえば俺、お前の事何て呼べば良いのか聞くの忘れてたな。お前って呼ぶのは気が引けるし…」

 迅は思案顔で零した。

「えっ、いや、俺の事なんて呼び捨てにしてください。碓井で良いんです」

「親切にしてくれる人を呼び捨てになんてできないよ。かと言って、碓井君は他人行儀みたいで好かないしな…」

 迅はどうしたものか、と唸った。翔太もエミリーも、うーん、と俯きながら思案し始めた。知生は困惑した様子で三人を交互に見、俯いた後、

「…じゃあ、あの…あだ名を一つ…」

 ふと意を決したように息を吸って吐いて、

「シウって、呼ばれてます」

 と、か細い声で零した。

「シウ?」

 迅と翔太が声を揃えてその渾名を呼ぶと、知生がびくりと震えた。そして、まずいことを言ったとでも言うかのような焦りをその表情に浮かべた。

「シウか!へえー、面白いな!どういう由来なの?」

 もちろん知生の抱える詳細な事情など解さない迅は感心するのみだったが、何故か知生はほっと安堵するようにため息をつき、説明を始める。

「えと…俺の下の名前が、知、と生、って漢字なんですけど、だから…」

「シウ、って読ませるって事?なるほど、考えたね〜」

 翔太は感心したように頷いた。

「じゃあ俺、シウって呼ぶな!」

「僕もそうさせてもらうよ〜」

 しかし、それはそうと、と翔太が続けて、

「何かシウって名前、どっかで聞いたことがあるような気がするんだよなあ」

 と呟いた。再びぎくりと震える知生。迅や翔太にこそ見られていないが、彼の顔は『ヤバい』の三文字が見て取れるほど分かりやすく焦っていた。そして、彼にしては珍しく大声で指摘したのだ。

「あっ、の!多分英単語か何かだと!思います!」

「エミリー、そんな感じの英単語知ってる?」

「いえ。記憶に御座いません」

「っ〜〜、と、とにかく響きが、カッコいいじゃないですか、友達が、そう言って、付けてくれたんですよ、あ、あ、あ…」

「確かにそうだね!とってもカッコよくて憧れちゃうな〜、僕もそういうあだ名付けてもらいたかったな〜」

 翔太の言葉を受け、がくりとうなだれる知生。彼の息は荒く、「危なかった」と声を出さずに口だけを動かして言った。そして、

「…じゃあ…理解できた範囲で説明するので…パソコン点けますね」

 とゆっくり立ち上がった。


 知生―――シウというあだ名が付けられている―――は、その控えめでどもりがちな言動とは打って変わって至極滑らかに、無駄のないタイピングでもってウェブサイト構築について指南した。それは夕陽が地平線の向こうに消え入ろうかという時間帯まで続き、集中していた翔太がふと立ち上がって薄暗くなりつつあった視聴覚室の電気を点けるなどした以外には、誰一人として余計な言動、挙動は見せなかった。しかしその緩やかな緊張が破られたのは、知生が突然咳き込みだした時だった。


「げほっ、…で、ここからここまでが、表になるわけ、です…げほげほっ!」

「シウ、風邪気味なのか…?」

 唐突に咳き込み出した知生を見、無理しないで、と迅が声をかけた。

「いや、風邪は引いてないです。大丈夫…ですけど…」

 咳払いをしながら知生が顔をしかめていると、

「もしや、お話を続けて喉を痛められましたか?」

 りん、と鈴の鳴るような声でエミリーが呼びかけたのだった。

 翔太と迅は「え」とまるで示し合わせたように同時に声を上げた。怪訝な顔の二人など構わないといった様子でエミリーは知生を真っ直ぐに見つめ、

「日頃から口を開いていないと辛くなるのはよく分かります。此方をどうぞ」

 学生鞄を開けて小さなポーチを取り出すと、中からのど飴を一粒出して渡した。

「あ、…ありがとう…ございます…」

 知生は申し訳なさそうにそれを受け取る。

 迅はその様子を側から見ていることしかできなかったが、日頃石膏像のように凝固したまま無表情を保っているエミリーの口元がふっと柔らかくなった―――ように見えた――――のを見逃さなかった。

「ご無理をさせてしまいましたね。今日はもう、お開きにしましょうか」

 エミリーはキャスター付き椅子に座ったままぺこりと一礼して、ゆっくり休んでくださいね、と付け加えながら立ち上がった。

「えっ、でもまだ…」

 まだ話すべきことが残っているのだろうか、知生が慌てて立ち上がる。しかし、

「良いのです。長い時間、一人でよく話してくれましたね」

 と無表情のままで労いの言葉をかけつつ、エミリーは荷物をまとめ始めた。

「さて、黒羽君、赤坂君。お開きにしましょう」

 確かに知生には無理をさせてしまったかもしれないが、それにしても急な解散ではないか。真意を図りかねて、迅と翔太はエミリーに困惑の眼差しを向けるしかなかった。そんな二人を見やった後、彼女は知生に向き直り、

「碓井君…いえ、シウ君、もう17時38分です。誤っていたら申し訳ありませんが、あと20分で貴方のいつも乗っていらっしゃる電車の時間ではありませんか?」

 と問いかけた。それを聞くなり知生は弾かれたように壁にかけられていたアナログ時計を振り返り、あ、と口を開けた。

「そう…だった…よくご存じですね…ありがとうございます」

「オンナのカンというやつです。薄暗いですし、風も強くなっていると思います。こちらこそ有り難う。どうかお気を付けて」

 エミリーはもう一度ぺこりと一礼すると、無言で迅達の方を見遣った。その視線に迅と翔太ははっと顔を見合わせると、慌てて嵐のように荷物をまとめ、

「じゃあな、シウ、今日はほんとにありがとうな!」

「またお世話になるかも〜」

 と、早口で別れを告げ、エミリーに続いて視聴覚室を後にした。


 一人取り残された知生は、エミリーに渡されたのど飴のパッケージを眺めながら、

「…優しい人達だった、なぁ」

 と小さく呟いた。


 --

 夕闇で薄暗くなりつつある琉晴構内を校門まで三人揃って―――エミリーは徒歩で、迅と翔太はそれに合わせて自転車を押しながら―――歩いていたのだが、その途中で翔太が思い出したように

「大変だ!今日が新月なの忘れてたっ、夜空が廻る…絶好の星釣り日和だぞ―――っ!」

 と叫び、慌てて迅顔負けの速度で校外へと飛び出していってしまい、結局のところは残されたエミリーと迅とで並んで歩いていくことになった。


「……」

 日頃は何気ないところから会話を試みようとする迅だが、何故か今は口を開く気になれなかった。恐ろしいほどに何も思いつかない。こういう時は素直に黙っているほうが良いのかもしれない、とエミリーのことを横目で窺ってみる。


 この日系イギリス人の少女は、今更特筆するまでもなくチャーミングだった。幾多の星を浮かべた深い青の瞳に、天の川のように煌めく、背中まで伸びたブロンドの髪。その髪が夕日に透けて、宛ら丹念に磨かれたアゲートのように飴色の柔らかな光を纏っている。その光の中を自分の指でそっと梳いたなら、…いや、何故そうなる。自分は同級生、それも出会って数ヶ月しか経っていない異性の髪を撫でたいと考えているのか。気色悪い。


「…君、黒羽君」

「…はっ?おう」

 あれやこれやと思案しているうちにエミリーに名前を呼ばれていることに気付かなかった迅は、ワンテンポ遅れて彼女の方を振り返った。夕陽の橙を映す無機質なガラス玉のような二つの瞳が、迅のことを見つめている。

「爺やが迎えに来ますので、私はここで」

 余程ぼんやりしていたのだろう、気付けば校門の手前まで来ていたらしい。エミリーはそう言うとぺこりと頭を下げ、学校の前の路地をじっと見つめたまま身動き一つしなくなった―――いや、ちょっと待てよ。

「爺や!?爺やって…爺や!?」

 自分でも訳の分からないことを口走ってしまった。何せ迅にとって漫画や映画の中にしか存在していない想像上の生き物である〈爺や〉が想像上の生き物である〈お嬢様〉を迎えに来るという構図が、呆気なく目の前で成り立ってしまうからだ。半ば混乱しながらどういうことだと言わんばかりにエミリーの顔を覗き込むと、エミリーはきょとんとして―――そう表現するのが正しいかどうかはさておき、近くで見ると本当に若干、きょとんとした顔をしているように見える―――小首を傾げた。

「爺やは爺やです」

「爺や!?」

「ええ。爺やです」

「は!?」

 よくこんな崩壊した日本語に応対できるな、などと迅は自分が投げかけたにも関わらず感心してしまった。普段も迎えが来るのかと聞くと、エミリーは何かを納得したようにふむ、と唸って、

「元々あまり身体が強くないものですから。過保護すぎるとは常々思っているのですが」

 と返答を寄越した。

「へぇえ…」

 気の抜けたような相槌が、迅の口から漏れた。

「何ていうか…俺、エミリーのこと全然知らないんだな」

 足元に伸びた自分の影に向かって、迅はぽつりと零した。エミリーは再び小首を傾げるのだが、迅はいや、と苦笑いを浮かべながら言葉を継ぐ。

「俺、エミリーのこと、人のことを気遣ってやれるやつだなんて知らなかったんだ」

 切り出しておきながら、決まりの悪さに思わず羽織っているジャージのポケットに無造作に両の手を突っ込んでしまい、履いているスニーカーのつま先を学校の敷地のタイルに軽く打ち付ける。踵はしっかり入っているにも関わらず、だ。

「この前の諸磯先生のことだってそうだし、シウにだって、あんな風に迷わず手を差し伸べてたし、さ。エミリーって、優しいんだな」

 諸磯へ顧問になってくれないかと頼み込んだ日のことを思い返しながら、迅は足元の虚空をつま先で蹴る。虚空には実体がないので、足に当たっても前へ飛んでゆかない。

「…そう、見えますか」

 エミリーが珍しく応答に時間を要した。うん、と迅は頷く。

「俺さ、エミリーのこと、たまに機械か何かなんじゃないかって思うことがあるんだよ。いつも静かだからさ。気を悪くしたらごめんな。でもどっかユーモアがあったり、優しかったりしてさ…こんなこと言うのは変なんだけど、人間らしいなぁって思う」

 何を言っているんだ、エミリーは元よりしっかり人間じゃあないか、と迅は自戒するように頬を掻いた。こんなことを言われて不快に思わない人間の方が少ないだろう、と迅は眉間に皺を寄せた。

「ああ、俺、何言ってんだろ。ごめんな」

 その気まずさに迅はまるで免罪符でも得るかのように謝罪を述べた。エミリーはいいえ、と小さな声で足元に向かって返事をしたが、ふと思い立ったように顔を上げると、迅の眼前へ歩み出た。

「…爺やが来るまで少し時間があります。立ったままで申し訳ないのですが、少し私の話を聞いてくれませんか」

 迅よりも頭ひとつ背丈の低いエミリーが、迅の影の中にそっと立つと、おもむろに口を開いた―――

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