色相環のルアリ

柚木有生

第1話

 ルアリという町で、気づくとユキと呼ばれていた。ユキは自分の本名を知らない。過去のないユキは、過去を知らない人間だった。

 ユキはある日、目が覚めるとルアリの病院にいた。


「君はこの町で暮らしなさい。大丈夫、ここなら一からでも生きていける」


 検査を終えて数日、白衣をまとった医師にそう告げられたのだ。医師の後ろに立つ三つ編みをした看護師の切なそうな瞳が、記憶を失った原因すら分からないユキを不安に包んだ。


 ユキは生き直したいと願ってもいないのに、一からの生活が始まったのである。

 退院した日にユキは早速ルアリへの転入を始めた。役所に同伴した医師が手続きを進めるあいだ、ユキは壁に釘打ちされた黒いラックに置かれたパンフレットを読んでいた。


『いまなら豪邸あたるかも?』『大人気のペットショップ店員残りわずか!』『美容院の店頭に立つだけの簡単なお仕事!』『好評! 駅近マンション特集!』『調理師補助、未経験歓迎!』『え、データ入力ってこんなに稼げるの!?』『★役所職員緊急募集★』


 紙に太く印字された見出しは目を惹いた。

 ルアリでは転入したらすぐに家と職を提供する。どちらも一覧表から自分で選び、仮に志望する希望者数が空き数を上回った場合でも、抽選を経て決定としていた。運悪く職がすぐに決まらなければそのあいだ家賃の支払いは生じないが、決まり次第それまでの家賃は分割で上乗せされる条件だと書かれていた。

 パンフレットに夢中になっていたユキの肩を誰かが叩く。振り向くと医者が子どもをあやすような声を出した。


「どうだい? この町は」


 ユキが「まだ分からないかな」と言葉を返すと、そのタイミングで窓口に手招きされた。

 カウンターで身分証明を発行するための顔写真を取り、用紙に氏名を記入した。

「どういう名前がお好みですか?」

 水色のシャツと眼鏡を身につけた職員の男の声は高く、ユキの耳をつんざく。男が首から提げた朱色の紐は、胸の辺りで揺れるネームプレートに繋がっていた。

「最近はラ行が人気みたいですね。発音がカッコイイとかでいま流行ってるんですよ」

 男が喋る『ラ』は一際大きく、ユキは目をつむり適当に指をさす。

「分かりました。ユキさんですねーー」

 目を開けると、『ユ』と『キ』が黒い丸で囲まれていた。ユキはこの瞬間、ユキになった。

 身分証の発行には時間がかかると知り、ユキは「夕方また取りに来ます」と職員に伝え役所を出た。医者は何度も「なにかあったら言ってください」と口にして病院へと戻っていった。役所は病院に隣接していたので、その姿はすぐに見えなくなった。

 まだろくに外出をしていなかったユキは、とりあえずルアリ見て回った。あちこちに視線をやり、ふらふらと歩くユキを、すれ違った町の人々は皆微笑みながら見ていた。

 小一時間も歩くと、ユキは自分が意外と知っていることに気がついた。カフェの看板に描かれた絵でアイスコーヒーを飲みたいと、横に書かれた数字には高いと思った。役所では男の言葉が分かっていた、と思い出しながら、彼は横断歩道で足を止め、信号が青に変わったら歩き出した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る