第5話
柔らかな光が瞼の奥を刺激した。私はうっすらと目を開け、あたりを見回す。初めに目に映ったのは慣れ親しんだ経典だった。7歳になった日、叔父上から頂いたものだ。ここはz室だろうか?
「確か私は……」
「お、起きたか」
温かな泥の中にいる意識を呼び戻そうとしていると、ふと、頭上で聞きなれた声がした。私が顔を上げると、ぱさりと何かが落ちる音がした。床に落ちていたのは黒いブランケットだった。寝ていた私に、目の前のルームメイトが、シガレットが肩にかけてくれたのだろう。
「おはよ、ブラック」
「君か。おはよう」
私はブランケットを拾うと、角と角を合わせて四つ折りに畳んだ。
「珍しいな。あんたが寝落ちするなんて。それに何度も呼びかけても起きなかったし。いい夢でも見てたのか?」
シガレットは私の隣に座ると、興味深そうに私をのぞき込んだ。
「夢、か」
私は先ほどまで見ていた光景を手繰り寄せた。シガレットと、ガンドと名乗る不思議な花と
一緒に学園祭に遊びに行く話だ。
「ああ。とても楽しい物語だったよ。私と君と、それから幼い子供と一緒に綿あめを食べたり、昼寝をしたりしてさ。……そうか。今から思うとあれは夢だったんだね」
私は人混みが嫌いだ。騒がしい教室も嫌いだ。バカ騒ぎする青春など興味もない。
だけど、それ以上に私は人の目を引いてしまうことが嫌いだ。皆が私を私でなく、叔父上の養子、学園の黒雪姫として見定める視線が怖い。だから、普段は自室に引きこもってやり過ごす。
あの夢は、そんな私が君との幸福に憧れた景色が反映されたものなのかもしれない。
「ところでシガレット。君は私に用があったんじゃないか? 何度も声をかけてくれたのだろう?」
「あー、それはもう解決した。神術の応用理論で、自動人形を作り出す方法があっただろ? 生成式の途中式がわかんなかったんだが、他の奴に聞いたから大丈夫だ。あんたの穏やかな時間を邪魔したくないしな」
「そうか」
私は彼を一瞥すると、経典に目を落とした。シガレットが気を使うなんて珍しい。いつもは人が読書中だろうが、課題中だろうが容赦なく質問してくるのに。
私の代わりに質問に答えた人は誰なのだろう。私以外を頼るなんて、なんとなく面白くない。私以上に君と親しい人間がいるのだろうか。
私はもう一度シガレットを眺めた。だが、彼の顔はいつになく真剣だった。プリントの内容からして、明日提出の課題と格闘しているのだろう。
彼を邪魔することなどできなかった。
それから夜になるまで、私たちは一言も言葉を交わさなかった。私は元々自分から話すタイプではない。しかし、シガレットは聞いてもいないことをべらべらと語りだす、歩くラジオだ。昨日の賭けの成果。酒場にいたどの女性がきれいだったか。3組のあいつとあいつが付き合ってるらしい、など。そいった俗っぽい話のひとつもしないで、夕食の鶏肉のトマト煮を口に運びながら黙々と参考書のページをめくる彼は、まるで別人みたいだ。
私は違和感に我慢できなくなって、自室に戻るや否や、彼に尋ねた。
「シガレット。君は変な薬でも飲んだのか?」
私は断りなく彼のベッドの上に座り、参考書を枕で隠した。顔を上げたシガレットは目を見開いた。
「あんたこそどうしたんだ。今日はやけによく喋る。熱でもあんのか?」
「私は問題ない。おかしいのは君だ。こんな時間まで勉強して。いつもはとっくに酒場に行っているはずだが?」
「あー。あれだ。俺、ちょっと反省したんだよ」
「反省?」
シガレットとは一番縁がない言葉に、私は首をかしげた。
「そ。昨日、いつもの賭けで結構な額を擦っちまったんだよ。で、俺もそろそろ真面目になんねえとなって思たんだ。いつまでも遊んでいられないしな」
意外か? シガレットは照れくさそうに、無造作に髪をかき上げた。私は肯定とも否定ともとれない曖昧な母音を漏らした。シガレットが真面目になることはいいことだ。さすがの叔父上でも、3回以上留年した生徒は除籍してしまうかもしれない。
だが、心の奥底の違和感はぬぐえなかった。何かが嚙み合わない。私の知っているシガレットはもっとどうしようもない男だ。私が何度警告してもめげずに賭けに行き――。
そこで私は気が付いた。
今、彼は昨夜賭けをしたと言ったか? 煙草代に使ってしまい、私に焼き肉代をせびた男に、どこにその金があるのだというのだろう。
「シガレット。君は昨日酒場に行って、賭けをしたんだね?」
「ああ。そうだぜ。それがどうかしたか?」
「いや。なんとなく聞きたかっただけだ」
私はかぶりを振った。あくまで、あれは夢の中の話だ。だが、もしかすると目の前のシガレットは、シガレットじゃないのかもしれない。私の脳裏にそんな考えが浮かぶ。
私はその仮説を確信に変えるために、目の前の「シガレットのような誰か」にカマをかけた。
「ところで、私の髪を結びなおしてくれないかな」
「まあいいけど。どうしてまた?」
「君が真面目になると言ったんだ。なら、私ももっと人に甘えられるように変わろうってね。それより早く。ほら」
「はあ……」
間延びした返事をするシガレットもどきをよそに、私は髪をほどいた。ベッドから降り、紫色の紐を強引に手渡す。
シガレットは訝しがりながらも、私の髪に手を伸ばした。そのまま髪全体を包みこむように、高い位置でてきぱきと束ねていく。数秒もすれば、元通りのポニーテールが完成した。
それだけでわかってしまった。
「やはり、君はシガレットじゃないね」
私は横髪をくるくるともてあそびながら言った。
「ガンド。シガレットになりすますのは楽しいかい?」
その瞬間、世界は柔らかな光で満たされた。シガレットの幻影がほろほろと崩れ落ち、代わりに青い花びらが舞い落ちる。
「どうしてわかったの? 声も形も言い方もそっくりにしたのに」
子供の姿に戻ったガンドは、困惑の眼差しを私に向けた。少年とも少女とも取れる愛らしい顔はわずかに歪んでいた。
「シガレットは私の髪を結ぶときに必ず櫛を使うんだ。私が髪を結んだ後に君はやって来たから、知らなくて当然だけれど」
「そっか。お兄ちゃんたち、本当に仲がいいんだね」
ガンドはがっくりと項垂れた。しかしすぐに顔を上げ、自分の髪を一本引き抜いた。青色の髪の毛は伝説の青い花に変わった。
「じゃあさ、なおさら納得できないよ。ここはブラックお兄ちゃんの望んだ
今度は私が眉間に皺を寄せる番だった。
「お兄ちゃんは悲しくないの? 悔しくないの? 得体の知れない『神』に勝手に人生決められてさ、やりたくないことをやらされるんだよ? 命令に従わないと化け物にされちゃうなんてひどいと思わない?」
「それは……」
「ブラックお兄ちゃんは『神』の被害者なんだよ。生まれた時にお母さんを奪われた。お父さんも3歳の頃に『神』に持っていかれた。叔父さんはお兄ちゃんを育ててくれたけど、それはお兄ちゃんを愛しているからじゃない。『神』が叔父さんを脅したからだ。ねえ、ブラックお兄ちゃん。ボクはキミが可愛そうだよ。だって、ブラックなんて偽名を名乗ることを強要されて、大切な人に本名を一度も呼んでもらえないまま彼を殺しちゃうなんて、悲劇そのものじゃないか」
ガンドは私の服の袖を引っ張り、上目遣いで見上げた。空色の瞳は、私の何もかもを知っているのだということを物語っていた。
「ボクは、いや、ボクたち
ガンドは私に青い花を差し出した。その瞬間、私の中の何かが壊れる音がした。
「そんなこと望んでいない!」
私は自分でも驚くくらい大きな声を出して、その手を払いのけた。
「私が欲しいのは本物のシガレットだけだ。偽物なんかじゃない!」
隣にあった枕をガンドに思い切り投げつける。小柄なガンドはてっきり倒れるかと思ったが、意外にもそれを無表情で受け止めた。
「確かに私たちの運命は呪われている。だが、それがどうした? 未来のことに頭を悩ませるくらいなら、私は今の幸福に存分に浸るよ。それに、友の名を騙った奴が作理想郷なんて、ろくなことが起こらないだろうね。ガンド、君がもし本当に願いを叶える花だとしたら、一つ願いをかなえてくれ。私を今すぐ解放しろ」
私はガンドを睨みつける。初めは押し黙っていた彼だったが、やがて大きく息を吐くと
「つまんないの。ふたりして堕ちていきなよ」
と呟いて、パンッと弾けた。
ガンドが消えると、椅子やブランケット、ベッドたちも形を崩し始めた。青い花がそこかしこに舞い、幻がほろほろと雪のように溶けていく。いずれ崩壊の波は壁ぎわから押し寄せたが、数十秒もすると中心にまで到達し、私を飲み込んだ。足が、手が、腹が消えていく。
私は偽りの理想郷の残滓を目に焼き付けると、瞼を閉じた。
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