青蘭のアルカディア
唯野木めい
第1話
これは私の軌石にも刻まれていなかった、遺物を巡るささやかな出来事だ。だが、この思い出は間違いなく一生の宝である。
*
「ガンドの花?」
騒がしいルームメイトの一言に、私はページをめくる手を止めた。
「そ。花に願えば、どんな願いも叶えてくれんだって。なんでも、運命を書き換えるらしいとか」
ベッドの上で足を組んでいたシガレットはにやりと口角を上げる。うんと見開かれた緑色の瞳がきらきらと輝いていた。まるで子供のみたいに。
バカバカしい。
「そうか」
私は小さく息を吐くと、再び経典に目を落とした。
神の箱庭であるアルカディアでは、人は生まれた時に自身の一生を神に定められている。洗礼時に、教会から「軌石」と呼ばれる宝石を渡されるからだ。軌石には神から与えられた人生――神託がおおまかに刻まれている。そして、私たちは神託にそって生きることを強要されている。神の意に反することをすれば、人間性を剥奪され、異形の怪物になり果てるからだ。ゆえに、人はいつしか呪いのような神託を運命と呼ぶようになった。
しかし、シガレットは初等学校で習う常識を忘れたのか、あるいはガンドの花という御伽噺に魅了されているのか。「ちぇっ」と不機嫌そうに舌を出した。そのままベッドから飛び降りると、強引に私の視界に入ってくる。
「伝説の花を探しに行こうぜ」
シガレットは私から経典を奪い、言った。
「探すってどこに」
「んなもん学校に決まってんだろ」
「学校? 学校とはこの教立第一神学院のことか?」
「おうよ。最近話題になってるぜ」
シガレットは拳を心臓に当てて、胸を張った。私は言葉を失った。呆れてものも言えないとはまさにこのことだ。
私たちの間に奇妙な沈黙が訪れる。
それから数秒後。私はシガレットから経典を奪い返すと、頭を抱えた。
「仮にガンドの花が存在するとして、だ。学外ならともかく、この学校にそんな危険なものが生えているわけがないだろう。叔父上が……理事長が許すわけない」
脳裏に、にこにこと人の好さそうに笑みを浮かべる少年の姿がよぎる。叔父上はもう40をとっくに過ぎているが、私とさほど歳が変わらないような見た目だ。雰囲気も良く言えばフランク、悪く言えば軽薄。そのせいで勘違いされやすいが、大司教の証である赤いローブを靡かせる彼は、間違いなく権力者の一人だ。そして国内でも有名な保守派である。経典の原点解釈に基づいた教育理念を掲げる彼が、神託を穢すような遺物を処分しないはずがない。
「ああそうだ、わかったシガレット。君は何か理由をつけて、私を外へ連れ出したいのだろう」
私は目の前に迫ったシガレットの顔を押しのけ、虹彩の小さい緑の目を見つめた。
「あ、バレた?」
シガレットは頭に手を当てて舌を出した。おどけて笑うこのポーズは、彼が図星を突かれたときの癖だ。
「だってさあ、待ちに待った学園祭なんだぜ? 最終日くらい外に出ようじゃねえか。引きこもってばかりだと、気が付いたときには青春が終わってるぞ」
太くて筋肉質な腕が私の肩に回される。私の体は彼に引き寄せられた。ギシギシとベッドがきしむ音がする。
「不要な心配だ」
私はシガレットの拘束から抜け出さずに、言葉を吐き捨てた。
「私は人混みが嫌いだ。騒がしい教室も嫌いだ。バカ騒ぎする青春など興味もない」
「嘘つけ。俺は毎日あんたが学園祭のチラシを見てたこと、知ってんだからな」
「くだらない催しが行われることを確認していただけだ」
「うっわ性格悪っ」
「悪くて結構」
自分の性根が曲がっていることなど、物心ついたころから知っている。
だが、シガレットは批難の言葉とは裏腹に、にまにまと笑っていた。手慰みに私の長い黒髪を櫛で梳いていることといい、本気ではないのだろう。いつもの軽口の叩き合いだ。
「じゃあさ、室内で学園祭やろうぜ」
シガレットは私の髪をポニーテールにすると、勢いよく立ち上がった。
「俺が肉を買ってきてやるよ。ついでに放送部の奴から音源も借りてくる。だから、あんたは部屋を飾りつけておけ。あんたの神術の腕なら朝飯前だろ」
「……は?」
「俺のやさしさに感謝しろよな~。ぼっちで引きこもり、素直じゃないコミュ障にも青春を分けてやろうってんだ。室内なら人も俺とあんたのふたりきり。騒がしさも、えーっと、20分の1だ」
どうだ、すごいだろう。シガレットは褒めてくれと言わんばかりに、指をブイの字にして笑う。
「まったく……。私が望むのは穏やかな暮らしだというのに」
私は冷めた視線を彼に向け、経典を開いた。私の運命は叔父上の後を継ぎ、この国一の教育者になることだと定められている。今のうちに多くの知識を得なくてはならない。
しかし、昼下がりの読書は思わぬ出来事により妨げられた。
「ブラックお兄ちゃん。それ、本当?」
不意に、私でもシガレットのものでもない、高い声が聞こえたのだ。
「誰だ!?」
私とシガレットは同時に声がした方向へ視線を向ける。
そこには、青色の髪の子供が立っていた。少年とも少女ともとれる、愛らしい顔立ちだ。髪色より薄い空色の瞳は、山に流れる小川のように澄み切っている。12、3歳くらいのこの子は、きっと初等部の学生なのだろう。だが、制服ではなく真っ白いシャツに、濃紺のショートパンツという動きやすそうな服装は、聖職者を目指す生徒というよりは、商人見習いだと説明された方がしっくりくる。
しかし、いつの間に侵入したのだろう。さっきまでこの部屋には私たちしかいなかったはずなのに。
首を傾げる私をよそに、子供は私の服の袖を引っ張る。濁りのない空色とぱちりと目があった。
「ブラックお兄ちゃん。お兄ちゃんは穏やかな暮らしが欲しいんだよね?」
子供は名乗らず、再び質問をした。先ほどと同じ質問だ。
「ああ、まあね」
私は言葉を濁して答えた。静かなことに越したことはない。
「そっかあ」
子供は顔をほころばせた。にっこりと目を細め、独り合点がいったようにうなずく。
「じゃあ、ボク、ここにきて正解だった。初めまして。ブラックお兄ちゃん、シガレットお兄ちゃん。ボクはガンド。理想郷を作りにきたよ」
「が、ガンド!?」
ふと、興味深そうに少年、もといガンドを眺めていたシガレットが声を上げた。彼はガンドの肩を掴み、空色の瞳をのぞき込む。
「あんた、今ガンドって名乗ったよな。理想郷を作るって言ってたし、もしかしてガンドの花と関係があるのか?」
「あると言えばあるけど……。実は、ボク自身が花なんだよね」
「あんたが花? どっからどう見ても人間じゃねえか。なあ?」
シガレットが同意を求めるように、こちらを向いた。私は「ああ」と短く頷いた。目の前にいるのは可憐な少年であって、運命を書き換える青い花などではない。
「うーん。見てもらった方が早いか」
そう言うと、ガンドは胸の前で両手を組んだ。目を瞑り、神術の呪文のようなものを唱えていく。
「青蘭の祝福を君に。魂の開放を。救済への誘(いざな)いを。今一度、汝は理想郷(アルカディア)に生まれなおす。花よ、散れ」
刹那、部屋中が柔らかな光で満たされた。反射的に私は目を細めた。だが、朧気な視界に映ったその光景に、目を見開かざる負えなくなった。
ガンドが足元から崩れ落ち、代わりにどこからともなく大量の青い花が降り注いだのだ。
木目の床は、あっという間に青い花で埋め尽くされた。
私は花を一輪手に取り、それを眺める。作り物かと思ったが、花弁がしっとりとしていたので、生花だと分かった。
「ね、ボクはガンドの花そのものでしょ?」
どこからともなく、かわいらしい声が聞こえた。
「すっげーな」
傍らに立つシガレットは、あんぐりと大きな口を開けた。
「さすが伝説の花。運命を書き換えるだけじゃなくて、人にも化けられるってか」
「おだてても何も出ないよ、シガレットお兄ちゃん。でも、お兄ちゃんが書き換えたい運命があるなら、ボクが書き換えてあげる。それがボクのお役目だから! だけどここでは叶えられないから、今はもとの姿に戻るね」
そしてまた、室内は柔らかな光に包まれる。まるで映画を逆再生したかのように、青い花々がある一点に集まり、人の形を成していった。
最後の花が一本の髪の毛に変わると、ガンドはその場でくるりと回った。咲き誇る花のように、ぱっと顔を明るくする彼は、事情を知らない者が見れば純粋無垢な子供だと思うだろう。私も先刻までそう思っていた。
しかし、彼は人ならざる何かだ。初等部の学生などではない。何か目的があって、私たちの部屋を訪れたのだろう。
「ガンド。君の目的は何だ」
私は彼を睨んだ。けれど、ガンドは自分が怪しまれていることなど、ちっとも気にしていないようだ。空色の目を大きくして、小首を傾げている。
「目的じゃないけど、言いつけならあるよ。ババ様にブラックお兄ちゃんのことを調べて来いって言われたんだ」
「ババ様?」
私とシガレットは同時に眉間に皺を寄せた。
「ババ様はね、ボクにお役目をくれた人だよ。一緒にこの学校に来て、ボクをここまで届けてくれたの。今は外にいると思う。物知りで、すっごく優しくて、自慢のおばあちゃんなんだ!」
ガンドは両手を腰に当てて得意そうに笑う。
「そうか」
私は頬杖をついて、しばらくの間考えた。
不思議な人外だが、ガンド自体は無害と思っていいだろう。私に危害を加える様子もないし、ただの無邪気な子供だ。だが、ババ様とやらが私のことを調べろと命令したのは聞き捨てならない。父と母が神の身元へ旅立った後、私をここまで育ててきてくれたのは叔父上だ。大方、私を通して叔父上に、この学院の理事長に探りを入れるつもりだろう。叔父上は政敵が多い。
故に、私は――
「ガンド。ババ様はこの学院内にいるんだよね? 私もババ様に会いたいな」
極上の笑みを浮かべた。いつぞや、シガレットが「人を騙すには最高の道具」と褒めているのか貶しているのかわからない評価をした表情だ。緊張を解くためにはこれが一番である。
しかし、先ほどまで外出を渋っていた人が急に手のひらを返したのだ。案の定、シガレットは怪訝そうに首をひねる。
「叔父上の敵かもしれない。逆にこちらから情報を引き出してやる」
私はシガレットに耳打ちした。それだけで、シガレットは事情を察してくれた。
そして、彼もまた、尖った歯を見せてにかっと笑った。
「ガンド、実は今うちの学校では学園祭をやってるんだ。ここに来るまで、きれいな飾り付けがしてあっただろ?」
「うん! ボク、お星さまとか、真っ赤な十字架とかたくさん見たよ!」
「そうそう。だから、ババ様のところに帰るついでに一緒に見て回らないか? 欲しいものがあったら買ってやるから」
「本当? ありがとう、シガレットお兄ちゃん!」
ガンドがその場でぴょんぴょんと跳ねる。青い花飾りがついた胸元のリボンがひらひらと踊った。
こうして、私たちの遅い学園祭が始まった。運命を書き換える花を一人、共にして。
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