星見の庭

寿 丸

ケース1ー1「噂」

 どこかの教会の裏に、〈星見ほしみの庭〉と呼ばれる場所がある。


 星の形に区切られた庭で、そこで願い事をすると必ず叶うというのだ。


 眉唾まゆつばものの話だ。そんな簡単に叶うものなら誰も苦労しないと、マサトは一つ年下のミサキにそう言ってやった。


     ☆


 物心ついた時から施設育ちで、その暮らしはお世辞にも上質なものとはいえなかった。毎日のように怒鳴る大人、どこからでも響き渡る子供の泣き声、汚れがこびりついたトイレ。加えて、食事がパンとコンソメスープのみという日もあった。


 いつからどうして、自分はここで暮らすようになっただろう。


 わからない。覚えていない。


 ただ、自分はこの毎日が当たり前のものだと受け入れていた。大人の言うことをハイハイとうなずいていれば、余計なトラブルは起こらない。トラブルを起こすのはいつも要領の悪い子か、愛情を知らない子だ。


 そして自分も愛情を知らない子供だ。


 でなければ、ここにいるはずがないのだから。


 何かが変わったのは、ミサキが入所してきた時からだ。


 肩の高さまで切り揃えた、さらりとした黒髪。優美な顔立ち。涼やかな水色のワンピースを着こなし、二本あるヘアピンの内、ひとつは星の装飾がついていた。


「水原ミサキです、よろしくお願いします」


 すうっと耳の奥に入り込んでくる声だった。大人と子供たちとが一同に集まっている中、半ばぼんやりと、彼女の姿に見とれていた。


 それから半年後——


 施設での生活に慣れてきたミサキは、空き時間にトイレ掃除などを進んでやっていた。大人に怒られている子供との間に割って入って、仲裁ちゅうさいを務めることもあった。泣いている子供をあやしている姿は優しさと温かさに満ちていて、母親がいるとしたらこんな感じなのだろうかと、不思議な感触を得た。


 ある日の夜、就寝前のことだ。


「ねぇ、マサトくん。知ってる?」

「なんのことだ?」

「〈星見の庭〉の噂」


 囁くように、ミサキは言った。ひとつ部屋に子供が集まって——いや、押し込められている空間の中だったから、自然と小声になる。


「ああ、知ってるよ。祈ればどんな願い事でも叶うんだろ?」

「興味ない?」

「ないね。そんなので叶うのなら、誰も苦労しないさ」

「でも、わたしは興味あるな。……行ってみない?」

「はぁ?」


 思わず、さっと手で口を塞いだ。くるっと見回したが、今ので起きた子供はいないようだ。


 安堵しつつ、「本気かよ?」


「ここの近くに教会があるんでしょ? もしかしたらそこかもしれないじゃない。それにこの時間帯、大人は眠っているかサボっているかのどっちか。万が一警備員さんに見つかっても、トイレだって言えばいいし」

「けっこう見ているな、お前……」

「半年も暮らしてればそりゃあね。で? 行くの? 行かないの?」


 言いつつ、すでにミサキは体を起こしていた。得意げな笑みを浮かべて手を差し出してくる。その手を素直に握り返すのはなんだか腹立たしく、恥ずかしく、見透かされたような気持ちになる。


 マサトは膝に手をつけて立ち上がった。ミサキは「ふぅん」と言わんばかりに目を細めて、自分の手を引っ込める。


「懐中電灯はあるのかよ? 暗いんだぞ」

「こんなこともあろうかと」


 じゃん、と布団の中から二本の懐中電灯を取り出してみせた。用意周到というのは簡単だが、それは一体どこで調達してきたのだという話になる。まさか、大人たちが小遣いを握らせてくれたわけではないだろうし。


「備品の管理、いい加減なんだよねぇ。おかげで色々助かってるけど」

「……そういえば、いつの間にか物が減ってるって話を聞いたような」

「じゃ、行こっか」

「聞けよ、人の話」


 雑魚寝している子供たちの隙間に足をつけ、おそるおそる部屋から出る。見回りに出ている大人がいることを考えると、息が詰まりそうになる。部屋から出るだけでもこっぴどく叱られるし、ましてや外に出れば——


「こっち、こっち」


 ミサキが手招きして、その通りに従う。自分の行く先に障害など何もないと確信している足取りだった。半年という時間は、彼女がこの施設の全てを知るのには十分すぎたのかもしれない。


「玄関から出るのか?」

「ブザーがあるからダメー。遠回りになるけど、裏口から出るの」


 ミサキの行くままについていって――途中、誰かと出くわすことは一度もなかった。裏口にはコンクリートの塀があるのだが、飛び越えようと思えばできなくもない。


「じゃ、マサトくん先に行って」

「はぁ?」

「じゃないと、わたしを引き上げられないでしょ?」

「……お前、そのために俺を呼んだのか」

「それだけじゃないんだけどね」

「はぁ?」

「いいからいいから。ほら、早く行かないと見つかっちゃうよ」


 まったく、と軽く呟き——マサトは塀に向かって走って跳び、縁に手をかけた。足をつけ、ぐいっと体を起こし、塀の上に立つ。「おー」とミサキがぱちぱちと拍手していて、マサトはなんだか気恥ずかしくなった。


「じゃ、今度はわたしの番だね。マサトくん、よろしくー」


 ミサキは歩み寄り、両手を天高く伸ばした。マサトは彼女を引き上げる格好になったのだが、当然それは彼女の華奢きゃしゃな手を握ることであり――我知らず、顔がこわばっていた。


「よっし」


 ミサキは塀の上に上がり、ふわっと外側に降り立った。ふと、怪訝そうに「マサトくん?」と振り返る。硬直していたことに気づき、慌てたようにすぐに塀から降りた。


「どうしたの?」

「……なんでもない」


 片手を後ろに回し、マサトは彼女の顔を直視しないよう、やや顔を背けていた。ミサキはくすくすと、小さく喉を鳴らしている。


「なんだよ」

「なんでもなーい。じゃ、教会に行こっか」

「場所、わかるのか?」

「ルートは頭の中に叩き込んでるから」


 マサトは呆れ混じりに嘆息した。

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