第3話 マキネと呼んで下さい

 誰にも見つからないよう警戒しながらアパートの廊下を歩く。監視カメラもあるけど、彼女はフードを深く被っているし、遠くからではその正体までは分からないはずだ。


 焦る手を押さえて鍵をドアに刺す。ドアを開け、彼女を中へと招き入れてすぐに鍵とチェーンをかけた。


 真っ暗な部屋に入ると、彼女の光が青くなる。部屋の中が青い光に照らされ、なんだか幻想的な感じがする。


[真っ暗なのが普通なのでしょうか?]


「ごめん。すぐ電気をつけるよ」


 手探りでスイッチを探して真っ暗な部屋の電気をつける。


「散らかっててごめん。適当にくつろいでよ」


 勧めてはみたものの、彼女はどうしていいか分からないようで部屋の中で立ち尽くしていた。


「あ、そこのクッション……というか柔らかい所に座っていいよ」


 そこまで言うと、やっと彼女は腰を下ろした。


[不思議な感触です。これが柔らかいというのですね。貴方の手と同じような感じがします]


 俺の手と同じか。存在だけじゃなくて言動まで不思議な人だな。人か分からないけど。


「そう言えば名前を聞いてなかったよね。君の名前は?」


[名前?]


 彼女は首を傾げるような仕草をした。顔の色も白になる。本当に分からないのか?


「なんて呼べばいいかを教えてほしいんだ。俺の名前は檜木裕太ひのきゆうた。裕太って呼んでくれればいいよ」


[ユータ]


「うん」


[ユータ]


「そうだよ」


 彼女は何回も俺の名前を呼んだ。なんだか子供に概念を教えているみたいだ。しかもずっと飲み込みが早い。なんだか面白い。


[ユータ……ですね。名前の意味は理解しました]


「それで、君の名前は分かる?」


[キミ]


「それは名前じゃないよ。二人称」


[難しいですね……]


 彼女は思い出すように頭を押さえた。しかし、いつまで経っても思い出す様子は見当たらない。ついには諦めたようで、こちらへと顔を向けた。


[分からないです……『キミ』以外で人に呼ばれるということが無かったので]


「そっか。名前が無いっていうのも不便だな」


[ではユータが付けてください。私の名前を]


 彼女の光がピンク色に明滅する。名前か……なんだか責任重大だな。どんな名前を付けたらいいんだ? 和名? それともカタカナの方がいいのか?


 うーん……。


 じっと彼女の顔を見ていたら、両サイドの触手がピコピコ動き、顔の光がうっすらピンクに明滅する。ピンクってどういう意味があるんだろう? 


 彼女の顔を良く見てみる。


[私の顔は変ですか?]


「いや、怒らないで欲しいんだけど、クリオネに似てるなと思って」


[クリオネ?]


 首を傾げる彼女を横目にスマホを開いてクリオネを検索する。


 クリオネ。学名「クリオネ・リマキナ」か。学名なんて初めて見た。


 ……。


「コレがクリオネ。適当で申し訳ないけど、マキネとかどう?」


[マキネ?]


「君がどことなくクリオネに似てるから。クリオネの学名をモジってマキネ」


[本当ですね。私に似ています]


 彼女はジッと画面を見つめた。


 マキネだったら日本人の名前にも聞こえるような気がする。恐らく。多分、ギリギリ……考えるほど自信が無くなって来た。


[マキネですかマキネ、マキネ……]


 彼女は噛み締めるように呟きながら、その光をチカチカ光らせる。その色は明滅するたびに変化する。黄色だったりピンクだったり。でも、なぜか部屋の中に入って来た時の青色には発光しなかった。


[はい。気に入りました。マキネと呼んで下さい]


 彼女の触手がピコピコ動く。喜んでくれたなら良かった。


[ユータ]


「どうした?」


[私は、明日になったら出て行った方が良いですか?]


「マキネは行くあてあるの?」


[ありません]


「ならあてができるまで、ここにいて良いよ」


 マキネの光が黄色く光る。公園の時と同じようにまた手を差し出して来た。


[言葉でこの気持ちを伝える時は、何と言えば良いのでしょう?]



「お礼ってこと? ありがとう、かな」


[ありがとうかな。ユータ]


 マキネの言葉に思わず吹き出してしまう。


 マキネはサイドの触手をクルクル動かして、混乱している様子だった。俺が何を笑っているか分からないという風に。ちゃんと教えてあげないとな。


 ……。


 不思議だ。



 「ここにいて良い」自分の口からそんな言葉が出るとは思わなかった。



 ずっと他人のことを拒否していたのに、女性とは意識的に距離を置いてきたのに、彼女のことはなぜこんなにすんなり受け入れられるのだろう?


 30になって、もう何でも知った気になっていたけど、まだよく分からないことだらけなんだな。



 自分のことでも。

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