【現実 四】

 私は、少年が人ならざるモノと問答し、己に疑問を抱きつつも風呂場から出ていくシーンで一旦区切りをつけると、眼前の朽ちた屋敷を見上げた。

 此処は例の焼身自殺を果たした小説家の生家である。

 年月が経ち、建物も風化して雨ざらしとなった家屋は、全体が焼け焦げており、屋根はおろか殆ど家の様相を呈していない。

 周囲は林で囲まれていて、民家は一つも見当たらなかった。念のため調査をして判明したことだが、この辺りに近隣住民は誰も住んでいない。十年前に起きた忌まわしい事件のせいなのか、どんどん住民は引っ越していき、新しく入ってくる人間も現れないまま、この地域は閑散としてしまった。

 此処は、人通りもなく、文字通りうち捨てられて忘れ去られた屋敷だった。

 表札がかけられていたと思われる場所に視線を移す。風化が激しく、掲げられた名字は読めなかった。

 私は着込んでいたコートを脱ぐと、ショルダーバッグの中に丸めて仕舞った。寒さにぶるりと震えるが、これからこの荒れ果てた屋敷を探索するから、なるべく服を汚したくはなかった。

 玄関らしき場所を具に観察する。空はからっとしていて雲一つ見当たらない晴れ模様であるのに、何故か少し濡れているのと、頭が痛くなるような異臭がしたのが気になった。

 それから私は伸び放題の枯れかけた雑草を掻き分けて庭に出ると、まず其処を念入りに調べた。しかし、不自然に盛り上がった土の跡もなければ、掘り返されたような跡もない。片っ端から穴を掘っていくことも一瞬考えたが、あれから年月がかなり経っていることに気がついて、その考えを断念する。

 建物に沿ってぐるぐると周囲を周る。やはり所々湿っていて、不快な臭いが鼻孔を刺激した。何となく嗅いだことのある臭いだったが、私はそれが一体何なのか、どうにも思い出せない。頭の奥底に眠る記憶の箱をちくちくと突かれているのが、私をさらに苛立たせる。

 結局元の場所に戻ってきた私は、庭から通じる屋内に土足で侵入することにした。玄関から入っても良かったのだが、建付けが悪くどんなに力を入れても開くことはなかったので、私は諦めて扉のない所から入ることにしたのである。

 最初に入った居室は、恐らく居間であった。全てが燃え尽きたか、或いは雨や風で崩れ去ったかで何も残っていなかったが、腐って柔らかくなった畳と部屋の間取りから想像するに、恐らく間違っていないだろう。

 雑草が生えており、光が入りにくい構造のためか、じっとりとした影が私を覆い尽くす。人が住んでいない上に、手入れも怠っているから当然なのだが、ネズミが地を這い虫が壁を伝っている。まるで地中の世界に迷い込んだかのようだ、と私は唇を吊り上げる。

 そして、私は暫く居間の至る所を探していたが、目当てのものは見つからなかったので、さっさと見切りをつけて廊下に出た。

 長い一本道のような廊下の床も腐っており、所々穴が空いている。歩くと軋んで、何となく斜めになったので、緩やかな坂を下っているような気持ちになった。途中、何度か私以外の足音の軋みが聞こえたような気がして振り返ってみるも、誰の姿もなかった。

 私は穴に足を取られないようにぴょんぴょんと因幡の白兎のように移動しながら、注意深く辺りを見回して、何か気になる所がないかどうか確認する。しかし、見つけられたのは見たこともないような気味の悪い虫だったり、チョロチョロと走り回るネズミだったり、あとは天井から抜け落ちた木材等で、ひたすら私の精神が削られるだけであった。

 すると、長い廊下の壁部分に、大きく空いた穴を発見した。私がそれを覗くと、それは穴ではなく、別の部屋に繋がる入口であることが分かった。

 其処は台所だった。

 台所も荒れ放題で、真っ黒に焦げた電化製品らしき物体と生い茂る雑草で埋もれていた。流し台は錆に覆われ、土と泥に塗れていた。

 私は伸び放題の草を掻き分けて、隅々まで確認をしてみたが、此処にも私が探しているものはない。

 砕けた壁に視線を送ると、ぽっかりと空いた穴――恐らく窓だった場所――から、外の景色を覗くことが出来た。

 枯木と茶色に染まった草以外、その風景には何もない。時折冷たく凍えるような風がびゅうと吹いて木々をがさがさと揺らした。私は亀のように首を引っ込めて、寒さを凌ぐ。

 そして、何ともなしに穴の外側の物悲しい風景を眺めながら、ふと、【四方四季の庭】について、思いを馳せた。

 四方四季の庭とは、異界に住まう神々の住居を表現するとともに、異界の時間の流れが人間の住む世界と明らかに異なることを表現した、「超時間装置」の名称であるとされる。海上楽土、海上浄土の話であり、古くは常世の国や根の国、そしてニライカナイとも通じる御伽草子「浦島太郎」や、山中異界譚で出てくる、春夏秋冬を廻ることができる部屋――庭が、まさしくそれである。四方四季の庭を見て回れば、その季節分時間が進み、元の世界に戻る頃には、途方もない時間が経っている。タイムマシンと喩えたのは興味深いと、私は思う。眼前に四方四季のタイムマシンがあれば、私は迷わず季節を逆順しただろう。

 勿論、私が今覗いている穴の外側は木枯らしの吹き荒ぶ枯れた木と草しかないものであった。しかし、もし穴――窓を覗く度に様々な異なる季節を目にしたならば、きっと其処は異界なのだろう、と考えても仕方のないことを想像する。

 私は窓から視線を逸らした。

 そして、私は台所から退出すると、またぼろぼろに崩れて斜めに傾いた廊下を歩き出す。段々と暗くなっていくので、ショルダーバッグから小型の懐中電灯を取り出して、下方に付いたボタンを押す。カチリと音をたてて、パッと円上に辺りを明るく照らしたので、更に奥へ進んでいく。

 また、私以外の軋む音が聞こえた。今度は振り返らなかった。

 途中、階段下の物置だった空間を見つけたので、塞いでいたがらくたや木材等を退かして、中に光を当てる。

 やはり、其処には何もなく、ネズミがタタタッと小走りに私の側を駆け抜けていっただけだった。

 私は立ち上がると、壁に空いた穴をいちいち調べていった。多くは風化したために自然と出来た穴だったが、中には居室に通じるものもあった。その内の一つである洋室は、残念ながら出入口が塞がれている上に、他の部屋よりも荒れ果てていて、とてもではないが入ることは出来なかった。 しかし、その居室には私が探しているモノはないように思った。

 私はどんどん進んでいく。歩く度にぎしぎしと床が軋み、そして耳をすませると微かに別の軋む音が、じっとりと私の後を追っている。私は気づかない振りをして、更に奥の方へ歩いていく。

 すると、今度は和室のある部屋を見つけた。足を踏み入れると、少しだけ靴が沈んだ。この部屋も草木がぎっしりと敷き詰められるようにして生えていた。そして、部屋の奥には、何代か前の型である古いテレビがぽつんと置かれている。

 私は一通り中を検めたあと、ショルダーバッグから工具を取り出して、腐った畳を一枚一枚剥いでいく。剥いだ場所を覗くと、ほの暗い闇以外は、何もない。ただ、やたらめったら足の多い虫と、ぎらぎらと小さな瞳を輝かせるネズミが、ぞわぞわと蠢いていたので、私は外した後に壁に立て掛けていた畳で慌てて蓋をした。

 それからまた少し進むと、風呂場らしき場所に行き当たった。ぐるりと見渡すと、欠けたタイルが粉々になって散らばり、焦げて溶けた湯船が薄汚れたまま鎮座している。雨が染み出したのか、湯船の中にゾッとするような気味の悪い色の水が溜まっていて、時々、辛うじてまだ壊れていない天井から漏れ出た何かの滴が、ぴちょん、と音を弾いている。

 此処ではない。此処には、何もない。

 私はそう確信すると、浴室だった空間を後にした。

 そして、壁伝いに歩いていくと、最初に侵入した部屋――居間らしき居室に戻ってきた。二階も見てみた方が良いだろうか、と考えるも、階段は途中で穴空きになっていて進めなかったことを思い出した。

 私は仕方なしに、もう一度、この部屋の中を探してみた。何故か、どの部屋よりも、私はこの居間が気になっていた。

 しかし、やはり目当てのものは見つからない。安堵半分、違和感半分で地べたを這っていた体を起こす。暗闇に紛れるような黒いタートルネックとスキニーパンツが、所々土で汚れていた。

 そして、私はふと、目の前に押入があることに気がついた。

 奇妙なほど、他の部分より綺麗に残っていた押入をまじまじと観察みつめたあと、私はハッと息を飲む。

「あっ」

 今までぼんやりと曖昧だった、私と私以外の他が、この瞬間にきっちりと分かたれたのが、理解わかった。私と、私以外の世界の区別がつき、私は主体を失って、客体を獲得した。

 私は、私と成り、同時に、私でなくなった。

 思い出した。思い出した。思い出した!

 そうだ、此処だ。私の探しているモノは、この屋敷の何処にもないならば、必ず此処にある筈だ。

 柄にもなく、ドクドクと緊張で高鳴る心臓を何とか押さえつけて、私は襖の取っ手に指を掛ける。

 そろそろと、静かに襖を横にずらす。それは障害物に引っ掛かることなく、滑らかな動作ですう、と音もなく開いた。

 押入は闇を塗り込めたように真っ暗で、黒をぎゅうぎゅうに詰め込んだように重苦しかった。

 何度か息を吸っては吐いた後、目をぎゅっと瞑った。そして、漸く覚悟を決めると、閉じていた瞼を押し上げて、私は懐中電灯を翳した。

 そして、そうっと頭を深淵のような暗闇に頭を入れて、私は押入の中を覗き込んだ。

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