好きだよ。だから──

 窓に映る明かりはなく、人の気配の一つすらない学校。

 その屋上の景色をフェンス越しにぼんやりと見下ろしながら、待ち人の到着に心をざわつかせる。

 運が良いのか悪いのか。空を仰げど月夜はなく、上を向いても分厚い雲が覆い尽くすのみ。

 確か今朝、天気予報のお姉さんが雪模様とか言っていたっけか。こういう何かある日ほど、予想というのは外れるのがお約束なはずなんだけどな。


「……寒いな」


 つい呟いてしまったが、返事をしてくれたのは原因の一つである冬の風だけ。

 持参した毛布を被り、ほんのちょっとだけ魔力を流して体を冷やさないよう、割と懸命に努力はしていたりはするのだが。

 それでも抗うのが至難なのだが冬の寒さというもの。こういうとき、影的な何かではなく炎熱系の能力を持っていればポッカポカで活動できるのだろうか。

 

「……いや、魔力尽きるから駄目か。うぅ寒い」


 一層の冷風が肌を刺したかと思えば、やがてひらひらと、塵粒ほどの雪粒が落ち始める。

 つれないなぁ。降るならせめてもう少しだけ、あの人が着いてからにしてほしかったのに。

 ま、お天道様がこちらの事情を推し量ったりはしないだろう。俺は高嶺の花や星以前に、空の雲一つすら掴めやしない程度の矮小な人間でしかないのだから、そもそもお空に認知すらされていないだろうからな。


 ……空に認知とか、何馬鹿なこと考えてんだか。

 待ち合わせ前で暇すぎたのか。それとも一向に落ち着かない心がしょうもない冗談で緩和しようとしているのか。……きっと両方だろう。俺としては、後者が九割だとは思うけど。

 ああでも、案外雲の上にでもいるなんて阿呆な考えも間違いではないのかも。だってこの世には魔法やら怪異やら異世界転移なんてものまで存在するんだしさ。


 一つ何かが纏まれば、次のどうでも良い妄想へと移るだけ。

 待てども待てども彼女は来ず。ひたすらそれを繰り返し、それでもひたすら待ち続ける。

 

 寒さは俺を蝕み、緊張が喉を焼き、胸の内を激しく暴れて俺に平穏を与えてくれやしない。

 イベント前のドキドキが大事なのだと、いつかどこかの誰が言っていた気がするが的外れだと思う。

 だってこんなにも苦しいのだ。辛いだけで、緊張の裏に高揚感など湧いてこないのだ。

 まあ、それはあくまで可能生を持っている人間が僅かながらに抱ける期待であって、俺のように玉砕するだけの迷惑者には関係のない話ってだけか。

 

「……姫宮ひめみやも、あいつもこんな気持ちだったのかな」


 そうして繰り返し思考していると、ふと良い性格をしていた親友のことを思い出してしまう。

 季節は違うが、あいつもこうやっていつ来るかも分からない恐怖と戦いながら待っていてくれたのだろうか。

 逆の立場になった今、ようやく理解出来てしまった罪の重さが胸を締め付けて離そうとしてくれない。

 まあこれが終わったら謝りに行けばいいか。土産話は少ないからドヤされそうだし、そもそもあいつが地獄にいるかは定かではないけどさ。



「──お待たせしました。待ちましたか?」



 刹那、何処からか響いた足音と共に美しく、それでいて気軽な声がこの場へと響く。

 冬の風にすら勝る涼やかで鋭い声。俺とは対照的に、少しもいつもと変わりない落ち着きのある音。

 ゆっくりとその足音の方へ、気配の漂う彼女へ体を向け──その姿に固まってしまう。

 そこにいたのは確かに高嶺たかねアリスだが、今までのとは比較にならないほど目を奪われてしまう。

 茶色のコートに白のニット、黒のスカートにブーツ。そしてそれを着こなし、この薄暗い屋上にさえ君臨する姿は、明かりがなくともその人ありと知らしめるほど。

 まるで都会の夜を親しい人を歩くかのような格好をした彼女を目の当たりにし、こんな場所へ呼び出したこと自体を恥じて申し訳思いながら、それでもその美しさに一層心が締め付けられる。


 ──嗚呼、ついに来てくれた。来てしまったんだね、高嶺たかねさん。


「……いいや別に? それにしても随分と早いね。まだ招待した時刻には届いてないぜ?」

「それは失敬。けれど貴方はいて、私は来た。それで良いじゃありませんか」


 彼女は楽しげに笑みを浮かべ、俺の側へと一歩ずつ近づいてくる。


「……ええっと、何か?」

「ああうん。綺麗だなって。……ごめん、それ以上は言えないや」


 あまりに何も思いつかなかったのでつい言葉を濁してしまう。

 俺の中を恋心を自覚したからだろうか。それとも今日という日の高嶺たかねさんがあまりに特別だからだろうか。

 今の彼女を形容するべき賞賛が、俺の脳みその中をどう漁ろうが見つかってくれない。いつもは考えずとも湧き出てくる陳腐な言葉が喉を通ってくれない。

 言葉すら不要であろう超越的な美。触れることすら人には許されないと、そんな神秘すら錯覚してしまうほど彼女は美しく、おしてどこまでも遠い存在だった。


「それで上野くん。こんな場所に私を招き、どのような御用で?」

「……その前にさ。少しだけ話をしようか、高嶺たかねさん」


 そう切り出した俺に高嶺たかねさんは、不思議そうに少し首を傾げてくる。

 そんな些細な挙動にすらまた魅了されながら、俺は言葉を待つ彼女へとゆっくりと口を開く。

 

「高校に入ってからもう一年経つね。どう? 今年は楽しかった?」

「……ええ。私にとっては数年で、辛いことだらけでしたが、それでもこちらに帰ってからは楽しいことがたくさんありました」

「……そっか。なら良かったね」


 俺の問いに対し、意外にも躊躇いなくそう答えてくれる高嶺たかねさん。

 そんな彼女を力なく笑い、それから視線を外し、再び白い塵の降り落ちる下を眺める。

 

「料理部、夏休み、文化祭。……そうだね、確かにいろいろあった。俺にとって、この一年は人生で濃密で刺激まみれなものだった。……良くも悪くもだけどね」


 振り返ってみれば、本当に色々なことがあった。

 痛くて辛くて悲しくて、けれどもとっても楽しくて。その中心には必ず君の存在があった。

 君がいたから楽しかった。君がいたから大変だった。

 今抱くこの過去を目の前の君に伝えることはないけれど、それでもそれだけは変えようのない真実だ。

 

「小中と同じ学校だったけれど、まともに君と話せたのは初めてだったね。頑張って隠していたけれど、実は初めて隣になったとき、とっても嬉しくて挨拶一つすら必死だったんだよ?」

「……そう、でしたか。気付きませんでしたよ、そんなこと」

「……だろうね。俺だって、知られたくなかったからさ」


 一瞬だけ残念に思ってしまうも、すぐに立ち直って言葉を続ける。

 知っていましたと、彼女にそう言ってもらいたかった自分の浅ましさを心の底から恥じながら。


「楽しかった、本当に楽しかったなぁ……。まさか遠かった君と、こんな風に話せるようになろうとは」

「……一応、小学校の時は何度か話したでしょうに」

「そうだね。図書室や裏庭で何回か、中学校では一度二度。……でもそれだけだよ。俺にとって君は、やっぱりどうしようもなく遠かった」


 両手はフェンスを掴み、ぎゅっと力を込めて音を立てる。

 高嶺の花たる高嶺たかねアリス。学校中の誰もが憧れた才色兼備の美少女。

 そんな君と話せたあの数度がどれほど幸運だったのか。その価値に気づけたのは、もう手も声も届かなくなったときだったからさ。


「同じクラスになれば、話す機会さえあれば少しは近づけると思っていた。……けどね高嶺たかねさん? 俺にとっての君はやっぱり特別で、近くなったからこそ遠く感じてしまったんだ」


 まったく、思い上がりも良いところだよ。

 君のことを知っているようでまったく知らなかったから、そんな虚しい期待をしてしまったんだ。

 本当の君は俺が思っている何倍も魅力に溢れていて、その何百倍も俺がちっぽけな存在で。

 その事実をひたすらに思い知らされて、けれど君への想いだけが誤魔化しきれなくなって。だから今、こうして俺はここに立っているんだ。


「どれだけ追いかけようと届かない。それどころか、少しでも知ればもっと遠ざかる。俺には到底届かないと」

上野うえの、くん……?」


 口を閉じてフェンスから手を放し、ゆらりゆらりと歩く俺に高嶺たかねさんは困惑を露わにする。

 やがて彼女の目の前──一歩で踏み込める距離で止まり、大きく息を吸って覚悟を決める。

 

 これからやるのは間違いなく彼女の信頼に背くことだ。

 今まで築いた友好を無碍にし、この一年の全部を台無しにすると俺でも分かる愚行でしかない。

 けれどそれでも。俺にはもう耐えられそうにない。

 このままうだうだと一生を送るより、ここで全てを捨ててでも望みを果たしたい。この人に、忘れられたくないんだ。


「だからごめんね高嶺たかねさん。今からやるのは、最低最悪の自己満足だ」

「な──」


 彼女の言葉が返ってくる前に、裾に忍ばせていた金槌を出して思いっきり振り抜いた。

 地を踏みしめ、全部をぶつけた真っ直ぐな不意打ち。

 けれど振るった腕に手応えはなく。固くもなく柔らかくもない、不確かな感触に金槌がへし折れる。


「な、何を……」

「うん、やっぱり駄目だ。どれだけ不意だろうと君には届かない。意識以前の状態にすら歯が立たないや」


 持ち手を捨てて後ろへ跳ぶと、目を大きく見開き、言葉を失う高嶺たかねさんが目に入る。

 友達だと思っていた知人が話の途中で急に殴りかかってきたら、流石の君もそんな顔をするんだね。

 

「何故、上野うえのくん……!?」

「さて、それじゃあ始めよう。これ以上の待ったはなしだ。……好きだよ高嶺たかねさん。だから俺のために死んでくれ」


 影から日本の金槌を取り出し、力を込めて地面を叩き付ける。

 ひび割れて崩壊していく屋上。それが俺が今から挑む、最後で無価値な戦いの幕開けだった。

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