叩き付けられてしまえばも

 家に帰る気にならず、かといって電車に乗る気にもなれず。

 その場凌ぎで活気溢る夜の街を一人寂しく俯きながら、あてもなくゆらゆらと歩く。

 

 気持ちは一向に晴れない。人生の中で散々してきた誤魔化しも今は効果がない。

 胸を占めて離れないのは、別れ際に見てしまった高嶺たかねアリスのらしくないあの表情だ。

 

 まるで誤解だと思われるのが残念とでも、そう言いたげだった寂しげに揺れた翡翠の瞳。

 光の少ない暗がりの中、それでもはっきりと認識してしまった上気した頬。

 そして今なおぐるぐると反響し続ける、俺を惑わした最後の言葉。


 高嶺たかねさんの発言の意図が分からないのはこの際どうでも良い。

 どうせ考えても答えの出ない彼女の言葉の真意などより、俺が気にするべきは自らの心中。どれだけ振り払おうと努力してもこびり付く、この忌々しいもやもやの方。

 だがどれほど思考を回そうと、俺の欲しい答えが出てくることなど一向になく。

 無意識に動いた足はいつの間にか、この馴染みのある住宅街にまで辿り着いてしまっていた。


 スマホを取り出し光らせてみれば、時計が示したのは十七時十三分と絶好の帰り時。

 けれどやはり、どうにもそんな気持ちにはなれない。

 今のままでは夕食が喉を通ってくれそうにないし、もしかしたら悩みすぎて風呂で溺れてしまうかもしれない。

 ……いやまあ実際に溺れることはないだろうが、ともかく洗い流せるようなものではないけれど。

 

 だってこれは、この想いの正体自体は知っているのだ。

 俺がそれをただ認めたくないだけ。何としてでも直視したくないそれに名前を付け、面と向かって向き合うのがどうしようもなく怖いという話なだけだから。


「はあっ……」


 漏れ出すように出てくるため息には、果たしてどんな心情が込められているのか。

 呆れか、はたまた焦燥か。どちらにせよ、人様に覗かれれば恥ずかしいものには違いないのだろう。


 そんな風に自らを乏しめながら、懸命に気持ちを沈める努力を続けていた時だった。

 不意に発された懐からの微弱な振動が、この沈み込んだ思考を遮ってくる。

 何かと手を入れればそこで揺れているのは、中に入っていた少し温かいスマホであった。


「……由奈姉ゆなねえ?」

 

 お冠な母親かなと、疎ましげに取り出して画面を確認してみれば、そこには予想外な名前が。

 由奈姉ゆなねえからの電話とは珍しい。そういや最後に声聞いたのってこの前会ったときが最後だったっけか。

 出なくても問題はないだろうが、まあ気分を変えるのに丁度良いと通話ボタンに指を掛ける。


「もしも──」

『あ゛っ♡ すーくん出たぁ! もしも~し♡ 由奈ゆなお姉ちゃんだぞ~?』


 ……何だろう。今の一声で切りたくなってきたし、むしろ電話の先を斬りたくなってきたんだけど。

 

『もしも~し? 聞こえてる~? お返事くれないと寂しいゾ~?』

「……酔ってんの?」

『酔ってまーす♡ 今ね~飲み会中なの~。先輩の奢りででっかな舟盛り食べてるんだよ~?』


 こちらのナーバスな心境などお構いなしに、ふわふわな口調で自慢げに話してくる由奈姉ゆなねえ

 確かに由奈姉の後ろからは、電話越しだというのに喧しい喧騒がわんさか聞こえてくる。忘年会が盛んな時期でもあるわけだし、言葉の通り呑んで出来上がったいるのだろう。

 ……それにしてもいいなぁ、舟盛りかぁ。スーパーの刺身ですら高いと思う学生メンタルな俺とは別世界みたいな話だなぁ。


「あー、今北海道だっけ? 海鮮美味しいよね。仕事は終わったの?」

『終わった~。もう疲れたの~。あの土竜のせいで散々な年の瀬だよ~。慰めて~』

「はいはい。よしよーし。由奈姉ゆなねえはえらいねー。凄いねー」

『えへへ~。ぐぇへへへ♡』


 しみじみと伝わってくる疲労にとりあえず労いの言葉を掛けると、由奈姉ゆなねえの声が女性が異性に発してはいけなさそうなくらいぐちょぐちょに蕩けていく。

 相当ストレスが溜まっていたのだろう。酒がなかった昔はもう少しましだったが、それでも限界が来るといつもの十倍増しにべたべたしてきたからな。


『先輩が酷いんだよ~? 爆散して散らばったちび共一人でやれって押しつけてくるし~、ふう様も手伝ってくれないんだ~。……あ~、これ機密だった~』

「……酔ってるなら切ろうか? 職場の人を放置は出来ないでしょ?」

『平気平気~。あんな薄情者達すーくんの足の小指以下の価値しかないんだか……うるせえぞクソ槍先輩ッ!! 今愛しのすーくんと話してんだからあっちでナルさんとでも乳繰り合ってろゴラァ!!!』


 甘え声だった由奈姉ゆなねえが一転して豹変し、直後に音割れするほどの轟音が耳を貫いてくる。

 ……それにしてもガチャンガチャンうっせえ。そこで瓶でも投げ合ってるのか?

 しかし由奈姉、職場でもあんな調子で嫌われたりしないのかなぁ。弟分としてはちょっぴり心配だわ。


『……お待たせすーくん♡ あのクソ先輩は押しつけてきたからもっとお話しよ~?』

「あ、はい。……由奈姉ゆなねえ、職場ではもう少し慎ましくしなよ?」

『え~?』


 ……ま、飲んだくれに何を言っても仕方ない。由奈姉ゆなねえだっていい大人なんだしな。

 相変わらずの由奈姉ゆなねえに首を振りながら歩いていると、丁度良い公園に辿り着いたのでそこのベンチへ軽く腰を下ろして会話を続けていく。

 

『それでねそれでね~? 和葉かずはさんにも孝弘たかひろさんにも会いたくてお仕事岩盤たんだけど~何か活性化している怪異が多くて駄目そうなの~。生すーくんにはすはすしたいよ~』

「そうなんだー。それは大変だねー。凄いねー」


 変わらず愚痴って褒めてを繰り返すだけの通話。

 多少酔ってはいるがいつも通りで、正直安心感すらある会話に心が安らぐのを実感する。

 それにしても、酔っ払いというのはどうしてこう同じことばかり話すのだろうか。俺も酒を飲めたら分かるのかな。……駄目だ、早々に酔い潰れてるイメージしか湧かないや。


『……ねえすーくん。何か悩みでもあるの?』

「え」

 

 外にいるのも寒いし、そろそろ夕食食べたくなってきたので切り上げたいなと思っていた時だった。

 突如由奈姉ゆなねえは、まるで見透かしているかのようにはっきりと問うてくる。

 

 ……やれやれ、やっぱり鋭いね。何だかんだで俺の隠し事を見抜いてくる。昔と変わんないや。

 けどまあ、他の人と違って他に相談できる人もいないし、相手が他ならぬ由奈姉ゆなねえならここらでいっそ吐き出してもいいね。酔っ払いなら後で忘れてくれるかもしれないしさ。


「……実はさ。今悩んでることがあるんだ。聞いてもらってもいいかな?」

『どうぞどうぞ! 私はお姉ちゃんだからね! お悩みなんてどんとこーい!』


 先ほどまでの三割増しで声を弾ませる由奈姉ゆなねえ

 頼られることはそんなに嬉しかったのだろうか。……いや、ただ単に酒の肴にしたいだけかもな。

 まあそれでも、その軽さがどうにも心地好く自然に話せてしまう。

 この三日で起きた出来事。高嶺たかねアリスに揺れ動かされる心。そしてこの胸のもやもやも。

 

「──ってなわけ。だから今猛烈に悩んでるんだ……って、由奈姉ゆなねえ?」


 恥ずかしげもなく全てを語り終え、それから一呼吸置いたのだが。

 聞き手である由奈姉ゆなねえは言葉を発してくれず、ただ無言の間が暗闇の公園内を包み込んでしまう。


「あ、あの由奈姉ゆなねえ……? せめて鼻で笑うくらいの反応は欲しいかなぁって……」

『……っ、ううっ。うううっ……』


 酔っ払いの姉さんにお返事欲しいと尋ねたら、返ってきたのは鼻を啜る音と呻き声の二つだけ。

 何だ急に……もしかして泣いてたりする? このしょうもない話のどこに涙腺を刺激するポイントがあった……?


『お姉ちゃん嬉しいよぉ……。まさかあの、あの! すーくんに恋バナ振ってもらえる日が来るとは思わなかったよぉ……!!』

「こ、恋バナ?」

『え゛っ、違うの? どこからどう聞いても私になかった甘酸っぱい桃色の青春劇だよ?』


 これで電話越しではなく、隣に由奈姉ゆなねえがいたらあざとく首でも傾げているんだろうなと、そう思わざるを得ないほどきょとんとした声。

 だが予想だにしないほどいきなり、そしてあまりにもはっきりと言われてしまい、思わず面食らってしまってぽかんと口を開けてしまう自分がいた。


『お姉ちゃんとっても嬉しい。すーくんはお姉ちゃんによく似ちゃって不器用だから春なんて訪れないと思ってたからさ』

「……似てるかぁ?」

『似ーたーの!! もうっ、すーくんったら魂の姉に対してツンデレなんだから~! ……ひっく』


 酔ってんだか酔ってないんだかようわからん感じでぐずり出す由奈姉ゆなねえ

 流石に酔ってると信じたい。大の大人が酒の場でバブバブし出すのは絵面が犯罪的すぎて逆に需要がありそうだし、これから締める苦労人的な立場の人が可愛そうだ。

 ……それにしても、俺ってこの人に似た部分あんのかな? まあ確かに、ちょっぴり田舎で生き残るためのチンピラメンタルは貰った気がしなくはないけどさ。


「……これが恋かは知らないけど、由奈姉ゆなねえが言うならきっとそうなんだろうね」

『そうなのです! ……ひっく、あーあ。お姉ちゃんが三十になっても売れ残ってたらすーくんにもらってもらおうと思ってたのになー。すーくんもいよいよ青春炸裂ボーイかぁ』

「……そういえばさ、由奈姉ゆなねえはそういう話って聞いたことないね。何かないの?」

『ないれすね~。というか聞いてよすーくんっ! うちのクソ職場、今冷戦な三角関係で任務中以外碌な空気じゃないんだよ~! しょーじきすーくんのお膝が恋しいよ~!! ごくっ』


 収まった愚痴を再度ぶちまけながら、ごくりごくりと何かを流し込む音が聞こえてくる。

 ……さては由奈姉ゆなねえ、今なお進行形で酒飲んで酔いに呑まれながら話してやがるな?


『ひっく。なんらむかついてきましたのであの馬鹿共に一発ぶち当ててくるね。……おらっ、公衆の面前でキスなんて見せつけてんじゃねえぞこの盛りきったカス共がァ!!!』

由奈姉ゆなねえ? おーい、由奈姉ー?」


 由奈姉ゆなねえからの返事はなく、何かがぶつかる音がしたと思えば後は騒音が木霊するのみ。

 ガチャンガチャンと、まるで乱闘でも始まったみたいに響いて止まないいろんな音。

 なにかすっごい音が聞こえる。これが大人の飲み会かぁ。社会に生きるって大変なんだなぁ。


「……良いお年を。今度からうちで飲むお酒、母上に減らしてもらおっと」


 その一切を聞かなかったことにし、そっと電話を切ってから大きく息を吐く。

 ま、いろいろ余計な情報ばっかりだったけど、それでも欲しかった肝心の答えは提示してくれた。

 

「恋、か。恋かぁ……」


 叩き付けられた答え。それは俺が何度も目を背け、諦め続けてきた身勝手な想い。

 認めてしまえば楽にはなる。形容しがたい心のもやは晴れ、代わりにどうしようもないほどの無力感が身を侵してきてしまう。

 それはかつて捨てた想いの名。決して届くことのないと、かつて同じ人に抱き捨てたはずの執着。


 ──自覚してしまったのならば、今一度己に問わねばならない。

 果たして俺は今度も、この熱く重苦しいだけの想いを捨てきれるのだろうかと。

 分不相応で実ることのない、関わった誰もが笑顔になることのない己が欲求を放棄し、再び日常にてあの高嶺の花と日常を送れるかと。

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