その友達の名は

 赤黒い血を流し、欠片も馴染めていない田舎の街の道路で横たわりながら、薄れゆく意識の中で私は思う。

 

 結局あいつは来なかった。あの日、待ち合わせに来てくれなかった。

 

 夜という遅い時間が問題だったのか。

 あの日と同じ、学校のプールという場所が問題だったのか。

 それとも相手が高嶺たかねアリスではなく、私だったということが問題だったのか。


 今となってはわからない。正直どれでもいい。私の想像出来る理由でなく、本当に急用が入ってしまっただけかもしれない。けれど最早知ったところで、そこに意味なんてないのだから。

 私は彼にフラれた。日が変わっても誰一人いない水辺で王子様を待ち続けた私には、お伽噺のような幸福は訪れなかったのだ。その事実だけで、胸は張り裂けそうなくらいいっぱいだ。

 

 二兎を追う者は一兎をも得ず。そんな言葉も、今となってはまさしくその通りだと思う。

 あの日以来、あいつと連絡は取っていない。一度だけ、こちらから未練がましく連絡してみたが通じることはなく。それ以来、電話するのも躊躇うようになってしまった。


 何もなくなった私は半ばやけくそとなり。

 転校してあいつ以上の友達を、理解し合える深い関係の人を探したが見つからず。それどころか、彼に甘えて人への寄り添い方を忘れてしまった私が受け入れられることはなかった。

 そんな何一つ面白みのない、学校と冷えた安アパートを行き来する日々に嫌気が差した中三の夏。私はこうして呆気なく車に轢かれ、そこいらで潰される羽虫のように道路に転がっているのだ。


「う、うう……」

 

 既に喉は機能していない。言葉を発することも、まともな呼吸を行うこともままならない。

 私を轢いた車は既に逃げた。人の悲鳴も、私という肉塊に呼ぶ声も、最早ほとんど霞んでしまっている。

 死ぬ。私は死ぬ。このまま助けを呼ぶことも出来ず、最後の言葉を残すこともなく、こんなところで力尽きてしまうのだ。

 

 ……嫌だ。死にたくない。だってあいつに、私はまだ何も伝えられていない。

 一緒に手を繋ぎたかった。彼に泣きついて、自分の醜い心を全て晒してその上で受け入れてほしかった。遊びで手を出した女子達と違って、本気で互いを求め合いたかった。──好きと言って彼を困らせたかった。

 

「ぃや……。ぁだ……」


 最期にようやく、そこらにいる普通の少女のような願いを表へ出そうと足掻いてしまう。

 どんなに乞おうとも、叶うことのない無駄な願いだとわかっているのに。求めるだけ無意味な愚かな叫びだと、冷えて消えゆく理性は嫌と言うほど理解しているのに。


 叫んでしまう。願ってしまう。声にならない声で、誰にも届かぬ祈りを虚空へと。

 だがそれも数瞬され保たず。掠れ、堕ち、失い、染まるだけの暗闇に抗う手段はどこにもなく。

 次第に思考も意識も、思い出さえ消えていく。私という個が、空へと溶け出していく。


(会いたかった、なぁ。すす、ぅ……)

 

 自分の名前も存在も消えた最期の瞬間、無意識に誰かの名前を呼びながら彼女は息絶える。

 例え無意識であろうと初めて素直に想えたのに。最早、それが誰だったかすら忘れた後で。






 次の層へと続く階段は今までの半分程度の長さしかなく、降りるにそう時間は掛からなかった。

 

「ここが最下層かな。うん、なんかそんな気がする。合ってる高嶺たかねさん?」

「ええ。ここより下はありません。この扉の先が、貴方の到達すべき目的地ゴールです」


 俺の問いに高嶺たかねさんは静かに答えを返してくれる。

 今までのような扉はなく、濃霧の壁が境となった部屋。ここにあいつが、姫宮ひめみやがいるはずだ。


「ねえ高嶺たかねさん。お願いがあるんだけどさ」

「……何ですか? 先に行けとかそういうのは受け付けませんよ?」

「違うよ。流石の俺も、ここでふざけようなんて空気の読めない人間じゃないさ」


 訝しげに目を細めてきた高嶺たかねさんに、なるべく真面目に返事をする。

 おいおい、そんな評価じゃいい加減泣いちゃうぞぉ? 確かに声が甘ったるいハニーガールだし、真剣さは薄そうに感じちゃうかもだけどさぁ?


「悪いんだけど、こっから先は一人で行かせてくれない? 友達との感動の再会なんだ」

「……酷い人ですね。わざわざ助けに来た友達よりも、厄介事を押しつけてきた昔の女を優先するとは」


 高嶺たかねアリスにしてはえらく心のこもった棘持ちの視線と台詞セリフ

 そこらにいるデートをすっぽかされた女みたいな不満に少しだけ罪悪感を抱いてしまうも、今回ばかりは譲る気はないので、彼女の綺麗な翡翠の瞳を真っ直ぐに見つめ返す。


「……はあっ。冗談ですよ。確かに少しくらいは拗ねたくもなりますが、流石に本分は弁えてます。本気の貴方を前にして、そこまでの傍若無人にはなれませんよ」


 すぐに空気を弛緩させ、高嶺たかねさんは子供を慈しむみたいに俺へ優しく微笑んでくる。


「ですが気をつけてください。殻の世界シェルズの底というのはつまり、その人の根幹を為すもの。そして生者ではない場合、それらは死の恐怖と虚無が塗りつぶしてしまうのが通例です。つまり仮に本人であったとしても、冷静な対話が可能とは限らないのです。それでも?」

「そうなんだ。そりゃ怖いね。けどまっ、女を何年も待たせたんだからそれくらいは当然じゃない?」


 彼女は危険と暗に告げてくる。今までとは違い、ただでは済まないかもしれないぞと。

 けれどそれは、そんなことは俺の足を止まらせる理由にはならない。一度は守れなかった約束の失態を取り返す機会なんて、恐らく金輪際訪れないと誰よりも分かっているから。

 

 見つめ合うこと数秒。シリアスなにらめっこは、今度こそ高嶺たかねさんが折れるように目を逸らして終わりを迎える。


「でしたら、私のことは気にしないでください。念のためここにはいますが、迷宮ダンジョンの崩壊を察知したら勝手に退去しますから」

「うん、わかった。……ありがとう高嶺たかねさん。今度なんか奢るから! じゃ、行ってくるね!」


 ありがとうと軽く手を振ってから彼女に背を向け、勢いよく濃霧へと飛び込む。

 突き抜ける刹那、体を包む奇妙な感覚。こそばゆい変化の気配を感じ取りながらも、それを欠片も気にせず霧を抜け、あいつがいるはずの部屋へと侵入した。


「何もなし。……おっ? 男に戻ってらぁ」


 出した声の変化で気付いた俺は、懐かしきマイボディを軽く動かして慣らしていく。

 なるほど、道理で視線が少し高くなったわけだ。あの柔らかお胸はちょっと惜しいけど、あいつに会うならいつもの俺でいたかったし、長旅から戻った相棒をおかえりと労ってやるとしよう。


「さて。……あれが、最後の試練ってやつね」


 自分のことなどそこそこに、この部屋で唯一目に入ったあれが何かを考える。

 部屋の中央に佇むのは、黒い靄で覆われた真っ白で顔のないヒトガタ。

 服は黒い靄に呑まれてはっきりしないが、それでもあんな特徴的な容姿をしていたら見覚えだって当然ある。だって俺はその思い当たりの人物に、この迷宮ダンジョンへと招かれたのだから。


「よっ、久しぶり。元気してた?」


 本人ではないはずのお化けさんに、それでも出来るだけ気軽に、昔みたいに声を掛けてみる。

 声に応えたのか、ゆっくりと、錆び付いた機械のように首を曲げてこちらを向いてくるヒトガタ。

 あの黒い靄から感じるのは退魔師達や高嶺たかねさんに近いものではなく、むしろ屍鬼かばねおにや黒スライムに近しいおどろおどろしい負方向の力。

 多分だが、あれが高嶺たかねさんが言っていたあいつの根幹だろう。あんなものが姫宮ひめみやを侵しているってことは、あいつはやっぱり……いや、今はそんなことはどうでもいいか。


「返事くらいしてよ。いくら電話テルしたって言ってもさ? 久しぶりの再会だぜ?」


 言葉は返ってこない。物言わぬ墓の前で語りかけるように、手応え一つ感じやしない。

 明らかに普通じゃない。正気であれば、あんなものは取り憑いていないはずだ。

 けれども言葉を止める気なんか毛頭ない。たかだか相手の返事の有無程度で、言葉を止めて良いわけがない。

 

『……Who am I? 』

 

 電話で聞いたのと寸分違わぬ、人でなしの無機質極まりない言葉が耳まで届く。

 その声も、姿も、仕草も。何もかもがあいつと似ても似つかなくても。

 それでも、記憶の中のいるあいつの面影は確かにある。あいつは確かに、そこにいる。


 霊体だから何だというのだ。

 言葉がないからどうだというのだ。

 死んでるかもしれないから何だってんだ。

 

 例えあれに命などなく、あいつであった者の成れの果てだったとしても。

 例えあれに意志などなく、同じ声帯を持つだけの物言わぬ人形だったのだとしても。


 あれは俺の親友だ。もう二度と会えないと思っていた、自分でそうしてしまっていた友なのだ。

 ならばやるべきことなんて、たった一つに決まっているだろう? どんなに歪な形で迫ってこようと、受け止めてやるのが親友ってものだろう?


 蠢く黒い靄は、白いヒトガタを覆い尽くし、膨れあがるように形を為していく。

 車輪タイヤの付いた、五メートル程度の大きな四角。日常で輝く現代文明の必需利器へと。

 

 その変化に対抗するよう、全身全霊で魔力を躍動させ、足下を影で固定する。

 回避はいらない。反撃もいらない。親友に向ける拳や金槌なんて、そんなものはどこにもない。

 これは向かい合うための戦い。あの日約束を破ってしまった、俺が果たすべきけじめだ。


「……起きろよ親友。あの日果たせなかった約束の続きを、今ここで始めようぜ?」


 どこにあるかもわからないエンジンを吹かし、耳を劈く勢いでクラクションを鳴らし続ける暴走車。

 そんな野蛮な相手を掌で誘う。あの日取れなかった手を、再度伸ばしてもらうために。遅れてくるところまでお伽噺の王子様の真似事だと、自分自身を嘲りながら構える。


 

「さあ来い親友ッ!! 姫宮雫ひめみやしずくッ!!」


 

 私は誰と問いてくる友に掛ける言葉は、最早これ以外になく。

 俺が友の名を叫ぶのと、靄の車がこちら目掛けて突進してきたのは、まったく同時だった。


「ぬっ、ぐッ、っそがァァァァ!!!!」


 全身に掛かる衝撃と重圧。腕を広げ、足の指を地を握りしめ、それらを必死こいて耐え続ける。

 一瞬でも魔力を途切れさせれば、瞬く間に体はひしゃげて平面に成り下がる。例えレベル50のステータスがあっても、その運命は曲げられないと実感できる真っ直ぐすぎる突進。

 

 だがそれがどうした。たかだかそんな苦痛と命の危機程度で、今の俺が退くわけなかろうに。

 これは殺し合いじゃなくて我慢比べ。俺があいつを諦めるか、あいつが俺を許してくれるか。詰まるところ、それだけの話だ。

 一度約束をすっぽかした俺に出来ることなど、それこそ彼女に許してもらえるまで謝り続けることだけ。

 けれどどれだけ愛想尽かされようが、自分勝手な我が儘だろうがこればかりは譲れない。俺があいつの、姫宮雫ひめみやしずくの親友に戻るために、俺は愚直に耐え続けるだけだ。


 少しずつだが霧散していく靄。だが減る一方、反比例するかのように勢いは増してくる。

 足の固定ごと引き千切られそうになるも、更に魔力を回して固定を強めて強引に拮抗する。


「グググッ、グゥ──!! あァ覚えてるさッ!! 何度でも、いくらでも呼んでやるさァ!! なァ姫宮ひめみやッ!!」


 首を絞め、喉を掻き毟ったみたいな掠れた声しか出せてなくとも、ただただ叫んで呼びかける。

 聞こえていないのならいくらでも呼んでやる。聞く気がないならいつまででも居座ってやる。

 

 忘れたのかよ姫宮ひめみや? 忘れちまったのかよ、親友? 

 確かに俺は飽きっぽい男だけど。お前との約束一つ守れなかった、どうしようもない愚図だけどさ。

 それ以上に大切だったんだぜ? 次に電話したとき、本当に絶交って言われるのが嫌で電話できなかったくらいにはさ?


「だから起きろよ寝坊助ッ!! 姫宮ひめみやァ!!」


 果たしてどれくらいこうしていたのだろう。十秒か、それ以上か、或いはそれ以下か。

 永遠に近い体験時間。急速な魔力の消失感に囚われながら、何度も何度もその名を声に出した。

 

 そしてついに靄は車の形を失い、ヒトガタから離れて空へと溶けていく。

 ふわりと軽くなる圧。だがそれと同時に魔力が尽き、足の固定が剝がれてそのまま地面に倒れ込んでしまう。

 

 嗚呼くそっ。体もそうだが、それ以上に頭痛えし吐き気もしやがる……。

 

 意識の薄れに抗う術はなく。暗闇の手に引き寄せられるがまま、そのまま微睡みへと堕ちていく。誰かに見られていると、何故かそんな視線を感じながら。

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