しずくと落ちた彼女の遺書

境 仁論(せきゆ)

第1話

 雨と一緒に女の子が降ってきた。僕はただただその様子を眺め続け、結果として目の前で彼女は潰れた。風船の割れる音にも銃声にも似た音が響いた。黒い地面に散華した制服姿のモノを写真に撮り、僕は一人帰宅した。

 それが昨日の夜のこと。その日のぱらぱらとした雨は、夜が更けるまで降り続けていたらしい。


 翌日の高校はやはりざわついていた。昨日目撃した彼女はやはりこの高校の生徒だったのだ。教室中では抑えきれていない囁き声が充満していて、誰もが教室の一番後ろの窓際の席を覗き見ている。ちょうど、僕の隣の席だった。自席に腰かけると前からの視線が突き刺さってくる。これは自分に向けられたものではないと頭ではわかっていても、言いようのない罪悪感が仄かに胸中に溜まっていったのだった。

そして担任が教室に入り、その報せは伝えられた。


深木美絵ふかきみえ』と僕に接点は無い。普段から同級生と話すことがない僕と同様に、彼女も積極的に話すような子ではなかった。その点で言えば似た者同士と言えるかもしれないが、そんな二人が並んだところで会話が生まれるはずがない。僕たちは一度も話すことなく、授業以外で声を聞くことも無いまま別れたのだった。

 結局その日は皆自習だけをして、昼頃に放課後を迎えた。異様な空気感だった。近しい誰かが突然いなくなったという非現実的な生々しさと、その誰かがどんな人物だったのかをそもそも知らないという冗談のような現実が綯交ぜになり、教室中の小さな会話でさえもノイズになりきれず、フワフワと宙に浮き続けていた。ふと横を見てもそこには誰もいない。ぽかりと空いた穴を窓の景色が埋めている。その日に限って、雲一つない青空が広がっていたのだった。

 

 彼女の隣が自分だったということもあり先生から呼び出しを受けるかと思っていたが特に何もなく、僕は帰路についた。そして家に入っても誰もいない。ただ両親とも仕事で家を空けているだけだろう。恐らく連絡は行っているから早く帰ってくるだろうけれど、それでも夕方だろう。自室のベッドに寝転がり、スマホの写真フォルダを開いた。

 最新の記録は昨日の夜のままだ。決して夢では無く、その写真は確かに保存されていた。咄嗟に撮ったものだからフラッシュも焚いておらず、全体的に黒い画面にノイズが奔っている。それでも深木美絵という隣人の破けた制服と捲れた太もも。そしてコンクリートの地面に流れ続ける黒い液体は視認できたのだった。

 何も感じない。

 そこには確かに、明確な人間の最期が映されている。人が人でない形で崩れているその証を僕は確かに目にしている。しかし、何も思えない。

 残酷なモノを見て吐き気を催し、トイレに向かうも途中で嘔吐してしまう———そんな自分になれることを僅かに期待していたのかもしれない。信じられないものを見て心が揺さぶられる自分を待っていたのかもしれない。しかし結果として、僕は何も感じなかった。数分、数十分、一時間と眺めてみても、訪れるのは彼女が『深木美絵』であるという理解だけだった。

 疲れてスリープにすると天井を眺めた。

 空から雨と共に、深木美絵が落ちてきた瞬間を思い描く。

 映画の世界だったなら華麗に受け止めてみせたのだろうかと思った。しかしあの落下速度から考えて、巻き込まれて大けがをしてしまうのではないかとも思う。

 ただ言えるのは、僕は彼女が建物から飛び降りたその瞬間を目撃していたのだ。そのうえで何もせず、彼女が目前に落ちるのを黙って待っていたのだった。そうして深木美絵は、確かに霧散した。

 大振りの雨だったなら劇的な光景として脳髄に刻まれていたのだろうか。その場で腰を落とし、嗚咽できたのだろうか。今はただ、何も感じなかった自分が、よくわからない。


 ……ああ、そうだ。僕と彼女に接点は無いと言ったけれど、それは嘘だ。彼女の終わりに居合わせた。その記憶が、きっと僕と深木美絵を繋げている。頭の中でずっと、彼女の名前が深木美絵であるという知見が響いている。

 あの瞬間は名も知らぬ女子のままだった。しかし制服と崩れた顔にだけは身に覚えがあり、明日は騒ぎになるだろうと予想した。結果として教室中はその話題で持ち切りになり、そこで初めて、僕は『深木美絵』という名前を認識した。人と取り合うこともなければ当然、同級生の名前も覚えていない僕が初めて知った級友の名が、『深木美絵』だったのだ。

 だからもう無関係ではない。深木美絵は落下した瞬間に僕と接点を持ち、僕も深木美絵が見えたその瞬間に消えない記憶と写真が保存された。これが最初で最後の僕たちの交流だった。


 両親が慌てたように階段を上がってくる。僕は平気な風を装い、夕飯を喉に通した。


 少し経ち、葬式が行われた。当然クラス全員が参加。交流のない生徒の冥福を祈り続ける。退屈な様子の生徒もいた。学校休めてラッキー、と考えていそうな生徒もいた。誰一人としてまともに彼女と向き合った同級生はいなかっただろう。こんな様子なら身内だけでやればよかったのに、担任と深木美絵の両親が半ば強引に引っ張ってきたのだ。当然生徒たちの浮ついた様子は彼らにはバレていなかった。深木夫妻は大げさな泣き顔を見せながらお礼を伝えてきた。美絵は、彼らには愛されていたようだった。


 葬式の後はもう下校するということになった。最後のお別れの艇を為していなかったあの式を受けて、果たして彼女はどう思っているのだろうと想像しながら、あの場所に戻ってきた。

 深木美絵が落ちた場所である。目の前には高層マンション。式が妙に盛大だったところから想像ついていたが、彼女の家は太いらしい。彼女はどの階から身を乗り出したのだったか。数える気も起きない。道の端には数本の花束。自分の終わった場所に手向けを置かれるのは果たして気持ちのいいものなのだろうか。むしろ自分がもうこの世にいないという事実を浮き彫りにされて、この世への執着を強めてしまうんじゃないかとも思った。

 彼女を本当に理解していたのは誰だったのだろう。きっと生徒の中にはいない。担任もそうだ。彼女の親は、確かに愛はあったのだろうが、それなら美絵は身体を落としたりはしない。その心の内にあったわかだまりを、彼女は誰にも明かさないまま消していったのだ。きっと、そうだ。写真の中の彼女の姿を思い返し、その内情をふと知りたいと思った。


 教師と両親に深木という家について尋ねた。両親はどちらも全国を回る営業マンで収入も良かったらしい。何不自由ない生活が約束されていたのは間違いなかった。しかし転勤も多く、一つの場所に居を据えることはなかったらしい。出張も多く、彼女が一人でいる時間も長かったのかもしれない。その上、美絵は転校を余儀なくされていった。優秀な人間なら、数日で数十人を超える友人を得る術を身に着けていたのかもしれないが、彼女はそうではなかったのだろう。人と話すことに抵抗がある、とまでは言わないが、十分なほどに発達してはいなかったみたいだ。恐らく、この調子では両親ともまともなコミュニケーションを取れていなかったのではないか? きっと良い教育は受けていたのだろう。成績も決して悪いわけではなかったと後から調べているうちに気づいたのだ。ただ、受けていただけ。甘受していただけ。両親は「良い」教育だけを投資する。そこに安心しきり家を空ける。美絵は、そうして会話する方法を身に着けられなかった。しかしそんな状態の娘に気づかない両親は、彼女を子供のまま溺愛したのだろう。葬式のあの泣き顔が、それを示しているように思える。

 僕が思うに、美絵は両親と、一人の他人として会話したことがなかったのではないだろうか。


 ある日の放課後の教室。誰もいなくなった教室の端の机に花瓶が置かれている。白い花が、捧げられている。その花びらに触れると指先がひたりと濡れた。担任が水を替えたのだろう。


 僕は、彼女の席に座った。


 頬杖をついて夕陽を見てみる。彼女も人がいなくなった後は、こんな風に黄昏ていたのだろうか。花の茎をつまみ、中の水をかき混ぜながら深木美絵になり切ってみる。

 彼女は、周りをどう生きていた? 彼女は周りをどう見ていた? 彼女は隣の席に座る彼を、どう思っていた?

 きっと、気にも留めなかっただろう。きっと、モブでしかなかっただろう。この人に見つかることのない特等席で、彼女は自分の世界に沈み続けていたのだろう。ふと、羨ましいと感じる。事実無根の想像でしかない彼女の生き方に、どこにも行かない思いを馳せる。その机の中心にスマートフォンを置き、あの写真を開いた。

 

 あんなコンクリートの上で安らかに眠れるはずがない。あんな白い棺桶の中で旅立てるはずがない。誰もいない自室で、憩えるはずがない。

 この場所が、この夕陽が、君の安息地なんだろう、深木美絵。

 それなら彼女の墓地はここが相応しい。この花瓶は墓標だ。この夕陽は部屋の電灯だ。深木美絵の安らかな姿は、ここに置かれているべきだ。

 そうやって、想像は妄想に格を上げ、知らぬ間に彼女を神聖視している自分がいたのだった。

 すると突然教室の扉が開く。はっとしてそこを見ると、体育着に着替えた男子が突っ立って自分を見ていた。少し訝し気な顔を浮かべるも中に入り、何も言わずに制服に着替えた。

 きっと、ヤバい奴だと思っているのだろうな。

 着替え終わった彼は、自分の元に近づいた。

 何を聞くのかと思っていると、信じられないことに、好きだったのかと聞いてきた。そんなはずはない。僕は彼女の没後に彼女に出会ったのだから。首を横に振った自分を見て彼は、軽蔑するような眼差しをもって僕を短く罵倒した。


 帰宅していると、偶然、深木美絵の母に出くわしてしまった。丁寧に生徒の名前を全て覚えているらしく、見つけるとすぐに握手を求めてきた。生前はありがとうと抜かす母親を見て、理解者然としている無知の人という印象が強まり、憐れに思えてくる。何度も何度もお礼をする女性に、僕は問いかけてしまった。彼女は、どんな人だったのか、と。

 きょとんとした顔をした彼女は、すぐに返答をしてこない。僕は何度も聞く。

 何度も家を空けていたのではないか。まともに会話もしていないんじゃないか。

 彼女が身を投げ出した原因はそこにもあるんじゃないか、と。

 そこまで言うと、やはり彼女は激怒した。そんなはずない、美絵はいい子だったし何度も支えた、と。しかしどんな風にいい子だったのかと聞くと、女性は詰まった。言うことを何でも聞いてくれる以外に思いつかなかったらしい。僕は、嬉しかった。女性が予想通りの女性で、嬉しかったのだ。しかし。

 それでもたくさんお金をかけた、いっぱい習い事をさせてきた、と正当化するその様子を見て、不快に思ってしまった。

 金で経験は買える。それなら自分たちの愛情を与える仕事などする必要は無いと決めつけた両親に苛立った。僕はそういうところではないかと一蹴し、女性と別れていった。

 

 しかし、彼女と話しているその間。

 この腹の内に。

 深木美絵に対する、失望とも言えるような羨望が生まれていた。


 写真を見ながら思う。

 仄かに自分は、美絵と似た人間だと思い込んでいたのではないか。これをきっかけに、何か、平坦な軸を進む自分を変えられることを期待していたのではないか。

 これは予想ではなく、確かな真実だった。僕と見知らぬ隣人の境遇を重ね合わせ、勝手に都合よく自分しか理解できない悲劇のヒロイン像を作り上げていたのだ。

 それは僕自身の両親と共に夕飯を食べていた時に痛感した。両親は確かに忙しいけれど、夜には帰ってくるし一緒に食事をとってくれる。お金はないけれど、それには代えられない思い出を作ろうと多くの経験をさせてもらえたと思う。

 しかし深木美絵は。確かに、両親と話すことは少なかったかもしれない。しかしその分金を積まれ、僕以上の経験を得ていたのだ。その上でわざわざ、あの雨の夜に飛び込んだ覚悟を決めた……いや、覚悟ではなく、そんな我がままを見せようとしたのは。

 ただただ贅沢で、自己主張の強い子どものように思えてきたのだ。

 確かに、親とのコミュニケーション不足が彼女の対人関係の無さを悪化させたのかもしれない。だがそれにしても。

 あの落下は、声に出ない彼女の、最初で最後の自己主張だったのではないか。

 ———私を見て。

とでも言いたかったのではないだろうか。

 つまりは、深木美絵には勇気が無かったのだ。自分から誰かに認められようと動くことなく、常に受動的に誰かに認めてもらいたかった。何もしなくても、誰かにすごいと言われてみたかった。両親以外の誰かに、気軽に話しかけてもらいたかった。そんな風に思っていたんじゃないのか。いつだって金にものを言わせて育てられたデータのような彼女は、もっと愛を受容したいがために奇行に走ったのではないか。そんな彼女と僕に似通った点なんてあるはずがない。

 そう考えると、腹の内によくないものが剝き上がってくる。それなら僕は確かに、彼女の術中にハマった。彼女の我がままを見届けた僕は確かに、深木美絵という存在に心を向けている。

 全て自分のせいだなんて思わず、環境が私にそうさせたのです。それを思い知ってくださいねとでも言いたげな落下が僕を魅了したのだ。

 ただ、結果として彼女の案は失敗してさえいる。だって他の人間はもう、君の終わりには目を向けず今日も部活動に勤しんでいるのだから。君が心動かしたのは、僕だけなんだぞ。


 でもこれは、全て僕の妄想。

 本当の所なんて、僕でさえもわかりはしない。

 誰にも、わかりはしない。


 そうして翌日の放課後。僕はあの花瓶を手に取った。我がままお嬢様にこんな大層な愛は余分だと言いたいがために、窓を開けた。そのまま投げ捨ててやろうと思ったが、直前で止めてしまった。

 結局美絵に支配されている。そして、そんな無粋な真似をして誰かに通報されたい自分がいる。

 ああ、似ている。

 馬鹿なことをして、誰かに興味を持たれたい僕たちは、やっぱり似ていた。

 なんて無様。なんて、愚直。

 せめてあの日の夜が大振りで、外に出ようなんて思わなければよかったのに。

 僕は花瓶の水を全て捨て、花びらをぐしゃりと潰して静かに窓の外へ落とした。ここは二階。落ちても生きるし、そこには誰もいない。

 しかしすぐ後ろで、誰かがドアを開ける音が聞こえたのだった。

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