よく知っている人

むきむきあかちゃん

よく知っている人

 私はいつものようにそのカフェの、窓際の三列目のボックス席に座った。

 私は座って、本を読みながらホットブラックコーヒーを飲む。

 小さな窓を覗くと、店の前のテラス席には、よく知っている人が座っている。

 その人は長い黒髪で、いつもモカラテを飲んでいる。

 黒い無地のワンピースに、黒いチョーカーを着けている。

 ときどきその人と私の目が合うと、その人は淡赤の唇の端を上品にあげて微笑みかけてくる。

 私も会釈を返す。

 いつも私が店を出る前に、その人は店を出てしまう。

 一度目が合い、ふと本に視線を戻し、また窓を覗くとすでにその人はいないのだ。

 そして私も店を出るころには、その人の顔をもう思い出せない。

 それどころかその人のことすらすっかり忘れて、私は上機嫌で家へ帰るのだ。

 だがこうやってまた店に戻ると、この、前も会ったよく知っている人を思い出せる。

 私は最近、あることに気がついた。

 はじめてこの人に会ったとき、この人はいちばん歩道に近い席に座っていた。

 二回目ははじめより少し手前に座っていた。

 三回目もさらに手前に座っていた。

 五回目くらいにはもう歩道と窓のちょうど中間辺りに座っていた。

 段々と窓の方へ近づいてきていたのだ。

 もう何回会ったか分からない今日、この人は窓にいちばん近い席に座っている。

 私が手を振れば気づくであろうほどの距離だ。

 そうやって窓を覗いていると、その人と目が合った。

 いつもと同じくその人は微笑んだ。

 黒いワンピースにチョーカーであることにも変わりはない、

 だが、その人が今日は何も飲んでいないことに気がついた。

 その人は私から目を離さない。

 目を離さないまま、ゆっくりと立ち上がった。

 立ち上がり、店のドアの方へ歩いて行く。

 窓からその人の姿が消え、閉まっていたドアのベルが、小さな音で鳴った。

 店に入ったその人は、私の方へ近寄ってきた。

 長い黒髪、淡赤の唇。

 真黒い目が私を捉え続けている。

 そのまま私の席の前まで来ると、私の隣に座った。

「よく会いますね」

 その人は言った。

「ええ、あなたはいつもモカラテを飲んでいますね」

 私は答えた。

「———あなたはブラックコーヒーを」

 その人は嬉しそうに言った。

「そうですよ」

 私は言って続けた。

「あなたはこの近くに住んでいるんですか」

「あら、何を言ってるの」

 その人は目を丸くした。

「よく会うじゃない」

「よく会う?」

 私は尋ね返した。

「この店以外で?」

 そんな覚えはなかった。

「そうよ」その人はうなずいた。

「バスでも、ケーキ屋さんでも。ランドリーでも会うじゃない。いつも会釈してくれるじゃない」

「ええ」

 私は混乱した。

「そうでしたかな」

 全くもって記憶がなかった。

 この人が、私の言葉で気分を害さないか心配だった。

「あら覚えてないの」

 その人は顔をくしゃくしゃに歪めて笑った。

「やっぱり覚えてないの。ふふ。ふふ」

 その人の目には涙が浮かんでいた。

「あなたも忘れちゃうのね。あはははは。悲しいかな、忘れちゃうのね」

 その人は涙を拭うと、また私に視線を戻した。

「私たち、よく知り合ってるのよ」

 その人は私を見つめながら、顔を近づけてきた。

 私の肩に、その人と手が置かれた。

「それにこれからもよく知り合うのよ」

 その人の吐息が鼻にかかった。

 甘いピーチの香りだった。

「あなたは忘れちゃうかもしれないけど」

 肩から手が離れた。

「それじゃあ、また」

 その人は歩いて店を出ていった。

「待ってください」

 私はその人のあとを追った。

 ガラス製のドアから、歩道を歩くその人が見えた。

 私はドアを開け、店を出た。 

「待って———」

 

———ちょっと待て。

 待って、とは?

 はて、私は何を追っていたのだろう。

 何も追うものは無いはずだ。

 まだ勘定も済ませていないはずだ。


 席に戻ると、冷めたブラックコーヒーが全く飲まれないまま置いてあった。

 そういえばまだ一口も飲んでいなかった。

 私は本を開くと、コーヒーカップに口をつけた。

 冷めていても美味しいコーヒーだ。


 ふと、窓を覗いた。

 だれも座っている人はいない。

 本に視線を戻した。

 なんだっけ。

 おかしなこともあるものだ。

 

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よく知っている人 むきむきあかちゃん @mukimukiakachan

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