ナチュラリスト、現代文明に触れる

荒矢田妄

ナチュラリスト、現代文明に触れる

 生い茂る緑、自然のままに曲がりくねる小川、砂利がむき出しの道。

 東京という地名を聞いたらまずイメージされないであろう景色が広がる地で、男は暮らしていた。


 男はこの辺り一帯でも変わり者と称される存在だった。

 電気アレルギーとでも言おうか、およそ現代文明がもたらした機器とはほとんど接点を持たずに暮らす彼の生活は、一世紀時が巻き戻ったかのような空気をまとっている。


 照明の光は目が痛くなると主張する男は、日の出と共に目覚め、日の入りと共に床に就く。日中が短くなる冬季はランタンや蠟燭に火を灯して夕闇をしのいだ。

 水道水は鉄の味がするから好かんと井戸水を汲み、人工の匂いは鼻が詰まると、花や薬草をすり潰したもので洗濯をする。洗濯板は彼が木を削って作成したお手製のものだ。

 当然、通信機器の類は持っていない。


 浮世離れした男ではあるが偏屈ではなく、周辺の地形や自然には誰よりも詳しかったため、近隣住民からは何かと頼りにされていた。特に子供達にとっては野外での遊びや炊事を教えてくれる彼は先生のような存在だった。


 自然のままに気の向くままに生きる彼だったが、このように地域社会から距離を取ろうとはしていなかった。それ故に気を使っていることもある。


 彼は用を足す際、青空の元で行う。


 彼の家には当たり前のように水洗便所は設けられていない。汲み取り式の、いわゆるボットン便所建設を考えたこともあったが、何とか貯められたとしても汲み取りができない。

 バキュームカーなんて今日日中々お目にかかれるものではないし、そもそも彼の家がある場所へはまともな道など続いていないのでそもそも乗り入れられないのだ。


 困った彼は、便所の場所を外に求めた。

 誰にも見られない、臭いが近隣住民の迷惑になることもない、そんな秘密のスポットに男のレストルームはあった。ここなら気兼ねなく用を足せるし、自分の身体から出たものを発行させて肥料にもできる。一石二鳥だ。


 悪天候の時や腹を下している時は大いに不便を感じることがあったが、それでも男にとってはこれが自分にとってベストな形だと思ったのだ。


 そんな憩いの場が、ある日突然奪われてしまう。

 狂ったような暴風雨が三日三晩続いた結果、男のオアシスは見る影もなく荒れ果ててしまったのだ。


 男はほとほと困り果てた。

 この数日はなんとか家の中で済ませたが、ずっと使える手ではない。だが、トイレはこの有様だ。


 しかし、所かまわず用を足して回る男ではない。男は自然の中に生きてはいたが、あくまでも動物ではなく人間だったのだ。


 男は意を決して、近隣の公共施設に足を踏み入れた。慣れない照明の光が目を焼く。人工的な白さが眩しい。


 そして、男はついに現代文明との邂逅を果たす。


 なるほどこれが便器か。使い方くらいは分かる。ここに座れば良いのだろう? 紙は……これか。普段使っている葉よりも数段柔らかい。こんなのでしっかり拭ききれるのだろうか?


 四方を区切られた狭い空間。男が日常でほとんど味わうことのない経験に居心地の悪さを感じながらも、目的を達することができた。


 さて、確か何かをして水を流すはずだが……分からん。どれだ? これか? と男は適当にぽちっとボタンを押してみる。

 何も起こらない……? そう思ったのも束の間。


「おっ、おっほっ……!!?」


 今だかつて味わったことのない感覚が、男の尻を撫でた。

 驚いて思わず飛び上がってしまいそうになったが……いや待て。この感覚……。


 気持ち……いいぞ?


 暖かすぎず冷たすぎず、肌を撫でるような柔らかさが尻にあたる。得も言われぬ不思議な快感。それが男の尻から入り込んで、ゆっくりと頭の方へと昇っていく。


 男の心と体は、かつてない幸福で満たされていた。


 それからと言うものの、男は用を足すときは必ずそこのトイレを利用するようになった。


 これまでと変わらない生活をしつつも、用を足すときだけ街へ姿を見せる男に、周囲の人はすぐに気が付いた。


 どうしたんだい最近、トイレ壊れっちゃったのかいと声をかけられた男は、ゆっくりと一言だけ、「ここの便所には……神が住んでいる」と答えた。


 やがて人々は、男が何を求めてトイレにやって来ているのかを知った。

 地域の中でその場所はGWゴッド・ウォシュレットと呼ばれるようになった。

 

 

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ナチュラリスト、現代文明に触れる 荒矢田妄 @arayadamou

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