第42話 信人

「ちーさま!」


 するとそれまで縫いぐるみの個体であったマロは霊力をまとうと、実際の犬の姿に変えた。

 リンはうさぎに変化し、カメ助を乗せて千景を助けようと舞台の下へと駆け出した。


「千景っ」


 まさか舞台から千景を放り捨てるとは思わなかった信人は、驚愕の声をあげると舞台の高欄の方へ踏み出す。


 しかしその背に、衝撃が走る。意識が逸れた信人の背中に、焔の振り上げた刃が深々と食い込んだ。


「ぐはっ……!」


 焔は刃を、刺した時と同じぐらいの勢いで引き抜き、鮮血が舞台上に舞い散った。

 信人は膝をついた。

 千景を助けに行かねばと思うのに。足が縫い留められたように動かない。


「安心しろ。俺だって千景が死なないこと前提に落としたまでだ」

 黎仁は落ち着いた足取りで、血染めの信人のもとへと向かう。


 仮にも孫である存在に手をかける鬼のような所業に、信人は信じられないものを見る目で黎仁を睨む。それと同時に彼は、心のどこかで黎仁が千景を手にかけるわけがないと考えていたことに気付く。


「あなたの……魂でなければいい……と思っていました」


 信人が千景の魂が黎仁のものであると勘付いたのは、千景が浄化の炎を発現させた時であった。といっても確証はなかった。調べるすべもなかったからだ。


 だが、もしこの予感が当たれば焔が再び、千景に接触をはかる可能性がある。そう危惧した彼は、表向きは体が弱いことを理由に千景の炎を封じて橘梨子に預け、橘家に養子に出した。


 橘家は古くから続く王に仕える家柄。嫡男はおらず、不都合はなかった。

 その上で、彼らを自分の身近に住まわせ、いつでも目の届く所に置いていた。

 焔が信人を見下ろす。


「どうする。見逃せばこの男は妖が死ぬまで、その魂は黄泉に彷徨うことになるぜ」

「そうだな……」

 黎仁は瞑目する。


「もしかして、惜しいと思ったか。信人は母親似だからな」

 黎仁は焔に鋭い視線をやる。


「いや、……ようやく楽になると思っただけだ」

 黎仁は、嘘のない言葉で返した。


 灼熱の痛みを感じながら、信人はその一言に微かに肩を震わせた。

 記憶に焼き付いて忘れられない光景がある。


 静かに眠る女性の傍らで、座っている黎仁の姿だ。その面差しは逆光になっていて、どんな表情を浮かべているのかわからない。

 后妃を立てることもなく、王の任についていた黎仁の本心は、生前ほとんど語られることはなかった。


 そんな互いの交わることはない感傷をかき消すように、焔は終わりを促す。


「黎仁。もういいだろ。さっさと世界を滅ぼして、黄泉も現世もお前を苦しめたものごと絶望の世界に染め上げようぜ」


「随分と簡単に言うな。破壊も死も際限がないのはお前もよくわかっているだろう。そして」

 黎仁は目をすがめた。


「お前だって俺を殺そうとしたこと、あっただろう」


「ああ、結局貴様が俺の名を付けて行動を縛ったから、出来なかったけどな」

「そうだ。そしてその効力は今も顕在だ」

 はっと黎仁は息を吐くように命じる。


「信人。お前を輪廻に戻すことにする。やれ、焔」

 焔は外套を翻した。


「どうせなら、息子の炎で送ってやるよ」

 そして焔は水の膜を出現させた。その内部には赤ではなく、銀の色を帯びていた。

 信人は、息を呑む。その炎の揺らめきで瞬時にわかった。


「それは……悠幸の力……!」


「ああ。また邪魔されちゃあ、かなわねえからな。さっきの戦いで后妃が使用していた膜を利用させてもらった。炎と水は本来、打ち消し合う存在だが、使いこなせば互いの長所を生かし合い、力を抑える利用価値の高いものになるからな」


 そして焔の目は残虐に光った。

「じゃあな、信人」

 信人は、せめて翁の身だけでも助かるように、術の行使のため手の平に血を浸した。


 焔の炎が体を信人の体を包む直前。

 全く別の銀色の炎が信人を中心に巻き起こり、結界のように攻撃から守った。

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