時の織り神は そこ にいる

かみはら

-女神に選ばれた娘-

第1話 前世が現代人なので

 ――待って、と彼女は叫んだ。

 

 叫んだつもりだが、実際は震えていたから声にできたかはわからない。混乱する脳はいま目の前にある出来事をうまく処理できないせいだ。従って脳から身体への伝達も曖昧で、本来ならば傷口を塞ぐべきはずの行動もとれない。

 

 小さな腕の中には成人女性の身体がある。



 その人間は腹を鋭利な刃物で貫かれたあとだった。命の水が地面に垂れ流し、息は絶え絶え。もはや助かる見込みのない致命傷に、目から光が失せていく。

 それを見て、アレッシアは叫ぶ。


「あああああ! 待って、待って待って待ってお願い!」


 わからない。なにもかもわからない。

 錯乱する精神を落ち着けなければならないとはわかっているが、いざ死に行くその人を前にして、どうして取り乱さずにいられようか。

 手を掴む――せめて体温を繋ぎ止めるために。

 声をかける――届かぬと知っていても、疑問をぶつけるために。

 他でもない"前の自分"が死の淵に落ちようとする間際、アレッシアの脳裏にある記憶が蘇る。

 

 たしかまえの私が死ぬときも、アレッシアいまの私に手を握ってもらっていたのではなかったか、と。






 一部一章 後継者たち


 




 アレッシアの朝は友達のエレンシアに起こしてもらうことから始まる。

 朝が弱いのではない。ただの住処は神殿が管理する孤児院だから、朝の礼拝が欠かせないために、陽が昇った途端に起きる必要があるためだ。

 彼女の身体を揺さぶるのは友人のエレンシアか。

 鈴の音を転がすような、軽やかで細い声音が耳朶を打った。


「アレッシア、もう起きないと遅れてしまうわ。この間も神官長様に叱られたばかりではないの。早く起きて」

「……あと、ちょっとだけ」

「また雑草抜きをやりたいの?」

「それはやだ。この間、手がかぶれてしまったもの」

「なら起きるの。手伝ってあげるから、この布で顔を拭いて」


 渋々身を起こすアレッシアは十代前半頃。薄い青銀の髪と黒い瞳を持つ愛らしい少女だという自負がある。将来は見目麗しい美女になると想像に難くないが、この容姿が役に立った試しはない。

 目をはっきり開けていられず、目元に皺を寄せながら力なく瞬きを繰り返す。

 アレッシアが受け取った濡れタオルで顔を拭く間に、エレンシアが用意していた櫛で髪を梳く。腰まで届く髪をひと櫛ごとに丁寧に、しかし手早く梳き終わると、花から抽出した油を手に塗り込み寝癖を直しはじめる。アレッシアに任せると梳くだけで終わらせるから、自然に手を加えるようになったのだった。


「着替えは?」

「ちゃんと準備してる。こてを当てて、いわれたとおりしわも綺麗に取った」


 指さした先には丁寧に折りたたまれた衣類が置いてある。エレンシアと同じ意匠のものだが、それをみてエレンシアは安堵した。


「ああ、よかった。夜は確認にいけなかったから、こてかけていなかったらって不安だったの」

「さすがに三度も間違えば覚えるもの。またしわひとつでお説教はこりごり」

「みんなお祈りを大事にしてるのだから、そんなことをいったらだめ。さぁ、着替えていこう。いま行けば間に合うから」


 着替えといってもゆるゆるの白い衣装を頭から被り、腰元を布で結ぶだけだ。首に透かしの入った布を巻き、揃いの銀細工でパチンと留める。着替えを済ませるとエレンシアに手を引かれて部屋を出る。

 他の子達はとっくに祈りの間に向かったのか、吹き抜けの廊下を走るのはふたりだけだ。

 しっかりとした重厚感がある建物は、白亜の柱が狭い間隔で並んで屋根を支えている。隙間から覗くのは見事に晴れ渡った青空と手入れされた青芝生が広がり、ところどころ小さな花が芽生えて彩りを与え、野の風が吹けば草木がお辞儀をした。自然との調和が成されており、風光明媚とはまさにこのこと。

 親のいないアレッシアが生まれ育ったはずの孤児院で、本来なら慣れ親しんだ光景のはずだが、残念ながら皆ほど親しみは持っていない。どちらかと言えばはじめてここに足を踏み入れた人のように、その風景に目を奪われる場合が多いからだ。

 そのせいで集中力が欠けているとよく叱られる。

 廊下を抜け、建物の中庭を通り過ぎた。どこよりも手入れされた祭祀施設は神殿の中でも小型だが、それでも数十人は受け入れてくれる広さだ。

 アレッシアの手を引きながら走るエレンシアの黒髪がうねりなびく様は不思議な魅力があった。


「今日は間に合うね、起こしてくれてありがとう!」

「ううん、私が好きでやってることだからいいんだよ」


 扉に手を掛けたときだった。

 首のストールが引っ張られ、ぐぇ、とヒキガエルを潰したような声が漏れる。


「アレッシア!?」


 目を白黒させていると、衣装の首根っこを掴まれ持ち上げられる。子供とはいえそれなりの重さを片手で持ち上げるのは、褐色の肌をした、十代半ばの少年だ。上半身は心臓を守るための胸当てを身につけているがほとんど半裸で、下はゆるっとした巻きズボンを履いている。

 茶褐色の瞳が無感動にふたりを見渡した。

 

「帯の結び方がなっていない、やり直せ落ちこぼれ」

「カリトン様」

「エレンシア、お前は問題ない。このまま扉を潜り祈りに参加するがいい。この落ちこぼれは服装の乱れを直させてから行かせよう」

「ですが、もうお祈りが始まってしまいます。それに帯を直すくらいすぐですから、私も待たせてください」

「お前はアレッシアと違い、最前列で神官様と祈りを捧げる役目がある。落ちこぼれに付き合ってお前の品行まで乱す必要はない」

「でも……」

「早く行け。神殿戦士の手を煩わせるな」


 少年が強く言えばエレンシアは逆らえない。アレッシアが「行って」と目線を送ると、申し訳なさそうに頭を下げて中に入っていく。

 地面に落とされたアレッシアは睨めつける少年を前にして帯を緩める。固く結んでしまったからなかなか解けなかった。


「早くしろ。もうじき祈りが始まってしまう」

「カリトン様が私を止めなければとっくに入っていました」

「言い訳をするな。市民、戦士と問わず服装の乱れは気持ちの乱れ。そのような者を神聖な祈りの間に通したとあっては神殿付きの名に恥じる」

「厳しいんだから……」

「厳しいなどあるものか。お前は神官様に育てていただいている身、本来ならば愚痴を漏らす方が不敬だというのに……記憶喪失でなければこんなことは許されないぞ」

「早く前の自分を取り戻したいところではあるんですけど……」

「戻したい、ではなく戻せ。誰よりも優れた者だったはずのお前が、いまや落ちこぼれなど笑い話にもならん。二百年ここの番をしているが、お前みたいな例は初めてだ」


 帯を直せばカリトンは扉を通過させてくれる。中はちょうど皆が席に着き、施設の長である神官長の話が始まったところだ。そろそろと入室してきた少女に目を留めたが、わずかに目元を緩めただけで話は止めない。アレッシアは胸をなで下ろして最後尾の席に座った。

 老年なのに神官長の声はよく通る。

 この声を神の御業を使わずとも声が響き、皆がありがたがって拝聴するらしい。

 周囲に習いアレッシアも胸の前で両手を合わせたが、俯きがちな目はそっと周囲を探っている。目線の先にいるのは自分と同年代の少女達だ。

 それぞれ容姿は違えど、年齢は共通して十歳を少し過ぎたばかり。アレッシア含め、みな発育が良いとは言えず、身長は高くない。この中に男の子はおらず、男性といえば神官達か、カリトンのように神殿付きの戦士だけになる。

 ここにいる少女達はみな、この神殿併設の孤児院で育てられた子供達だ。一部の神官や戦士と違い、神の恩恵は与えられていないただの人間でしかない。

 ――神様かぁ。

 アレッシアは内心でひとりごちる。

 そう、神だ。

 なんとこの世界には神が実在する。会ったことはないけれど、主神の元に様々な神が集い、神自身が自らの都市を作って人間や世界を管理しているらしい。

 アレッシアが住まうのはその神の一柱、運命の女神が管理する都市で正式名称は『ロイーダラーナ』になる。

 神官長の声が高らかに響き、深々と頭を垂れて背を丸めた。


「我らが主を信じ奉りなさい。宿命の導き手たる運命の女神は我らの使命を尊び見守っておられるのだから」


 ここからが長丁場で、一刻以上にも渡る無言の祈りが開始される。笑ったり喋ったりは厳禁で、上体を起こそうものならお叱りをうける……のではなく、体調が悪いのかと過剰に心配される。最初にやらかしたので間違いない。

 この祈りの時間が苦痛であり、同時に最大の疑問である。

 どうして孤児院の皆は神を熱心に信奉するのだろう。

 神官達は実際神に拝謁しているそうだが、肝心の神に会ったことのないアレッシアには疑問であり、この信仰心のなさが落ちこぼれになってしまった原因になる。

 カリトンも述べたが、有り体に言えばアレッシアは記憶喪失だ。記憶喪失ということになっている。ある日の祈りの時間に気を失い、目が覚めたときには『こう』だった。声は発することができるが、生まれたての雛のように無知で世界のあるべき常識を知らない。孤児院の仲間や育ててくれた神官達の名前と顔を覚えていない。孤児院での過ごし方、時間割、瞑想の仕方もなにもかも忘れていた。


「神ってなんですか?」


 復帰した翌日にこう問えば、周囲の時間が凍り付いたのをはっきりと覚えている。

 否、名詞としては知っている。だがまるで本物が実在するかのように振る舞うから尋ねたら、神官長の笑顔が固まった。

 神殿戦士カリトンは呆然と口を開き、ある神官は恐慌状態に陥った。「アレッシアが壊れてしまった!」の叫びはいまでも記憶している。

 以来、アレッシアは記憶喪失の体を装った。その方が都合がいい。信奉を忘れない姿勢でいれば、無知蒙昧な振る舞いも記憶喪失が免罪符となって守ってくれる。神への敬愛さえ忘れなければ皆、優しすぎるくらい良い人達なのだから。

 でも、とアレッシアは思い、拳に力を込める。

 どれだけミスをしても最後には許してくれる皆に申し訳ない点があるとすれば、神様をそこまで好きになれそうにないことだ。

 なにせアレッシアは多分――その、よりによって肝心の「運命の女神様」によって命を絶たれてしまった。

 そして気が付いたら「アレッシア」だっただけで、たぶん、前身は一般的な地球人女性だったのだから、信奉心など染みついているはずがないのである。

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