地方移住者は都会に帰る夢を見るか?

稔基 吉央(としもと よしお)

地方移住者は都会に帰る夢を見るか?

 目の前の男はひどく疲れ切った表情をしており、目元にびっしりと浮かぶ隈が痛々しかった。私が話を促しても、男は下を向くばかりで口を開かない。事ここに至っても、話すか話すまいかを逡巡している様子だった。私が壁に掛けてある時計をちらと確認する動作を見せると、ようやく男は弱弱しいながらもぽつりぽつりと言葉を紡ぎだした。男の声音はどこか許しを請うているようにも聞こえ、私はまるで懺悔のようだなと思った。


 男は今年の春先に、転職を機に地元東京から地方へと移住したらしい。根っからの都会っ子が東京の騒がしさに疲れて地方へ移住とは、何ともありそうな話だ。男は、初めは田舎暮らしの都会との勝手の違いに翻弄されっぱなしだったが、ひと月もすればすっかり環境にも慣れたようで、地域住民との交流も盛んに行うようになっていた。

 ところが、そんな折に男を悩ませる問題が発生した。梅雨の時期に入って以来、昼夜問わず聴こえてくるある音の所為で、男の理想としていた田舎生活はすっかりと耐えがたいものへと変貌してしまったのだ。その音とは、カエルの鳴き声だった。

 数メートルの距離にある隣家の池から聞こえてくる何十匹ものカエルの合唱は、仕事の関係で家に居ることの多い男にとって、早朝から深夜まで絶えず鳴りやむことのないアラームのようであったという。初めのうちは「これも田舎暮らしの醍醐味だ」と自分に言い聞かせ、我慢していたものの、当然、そんな環境で満足に眠れるはずもなく、男の目の下の隈は日に日に濃くなっていった。

 耐えかねた男は隣家の家主と話をすることにした。話といっても、その地域の新参者であった男はなるべく事を大きくしないように手紙でのやり取りを選んだ。手紙を投函してから何の返事もないまま数日が過ぎたある日、男は道で老人に話しかけられた。最初は「もうここでの暮らしは慣れたか」などといった世間話だったが、いつしか「都会じゃどうだったか知らないが、カエルの声なんてのはここらじゃ日常だ」、「郷に入っては郷に従うができないのなら、お前に田舎暮らしは向いてない。我慢できないなら引っ越せ」ということを一方的に言われていた。その人は地区の自治会長だった。

 このころには慢性的な睡眠不足からくる頭痛や吐き気は抑えがたいものになっており、市販薬などあってないようなものだった。そんな状態で仕事など手に付くはずもなく、男の精神はいよいよ磨り減っていくばかりだった。家に居ても仕事は進まず、外に出ても住民から冷ややかな目を浴びせられる。聞こえてくるのは、雨が屋根を叩く音とカエルの鳴く声ばかり。男は限界だった。

 男は隣家の家主が家を空けた時を見計らって、敷地内に侵入した。そしてふらふらと池の側まで行くと、そこでいつもの声でアマガエルが鳴いているのを見つけた。男は初め、捕まえたカエルをどこか別の遠い場所に放そうと考えていた。そんなことをして根本的な解決になるとは思えないが、男はとにかく疲弊していた。ところが、アマガエルの姿を見た途端、男は心底腹を立てた。自分はこんなにも小さな生き物ごときに苦しめられていたのかと。男は網でアマガエルを捕まえると、ポリ袋の中に次から次へと入れていった。そして、男は池からカエルの鳴き声が聞こえなくなったのを確認してから、不快にうごめく忌々しい袋の口を閉じた。


「カエルの鳴き声はよく『ケロケロ』って表現されますがね、そんなにかわいいものじゃない。僕にはひどく耳障りなノイズにしか聞こえませんでしたよ」

 男は堰を切ったようにそこまで話すと、重々しい溜息を吐いた。

 そこまで聞いて、私は男にひとつ質問をした。

「なるほど、あなたのされたことは決して褒められたものではないかもしれません。ですが、睡眠の障害は一応取り除かれたように思えます。まだ何か悩みがおありで?」

 私はそう言って、目の前の患者に来院の目的を尋ねる。手元の問診票には「睡眠障害」としか書かれていなかった。

 男は再度、言いにくそうにしながらも、隈の目立つ顔にひどく切実そうな表情を浮かべて話し始めた。

「……実はそれ以来、毎晩のように悪夢を見るんです。その悪夢が怖くて眠れないんです」

「その悪夢とは?」

「カエルの悪夢です」

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地方移住者は都会に帰る夢を見るか? 稔基 吉央(としもと よしお) @yoshio_itakedaka

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