バラの庭

金子ふみよ

第1話

 そこに暮らしているのは一人の男でした。働き盛りのはずですが、顔色が悪く、体の動きも重そうでした。お医者にみてもらったり、町の薬屋で買ったりしましたが、具合が変わることはありませんでした。

 この日も町で一仕事してから少し早く帰らせてもらっていました。

 カーテンを開けると荒れた庭がありました。そこは以前はバラがたくさん咲いている庭でした。男は親から教わった通りにバラの庭に丹精を込めていましたが、仕事が忙しくなって、そのうえ「花を育てたって金にならないじゃないか」と誰かに言われて庭を手入れしないようになっていきました。そのせいで赤や黄、白といった色とりどりで鮮やかにかぐわしかった庭は雑草の育つ殺風景になってしましました。もうその景色に慣れてしまっていた男ですが、どうもせっつかれるようにこの日は庭に出ることにしました。冷たい風のせいか、屈んだ男は背の低い雑草を思わず撫でていました。

「こんなはずじゃなかったのにな」

 ぽつりと男はつぶやきました。その時です。

「ちょっとすいませんが」

 庭をのぞき込むようにして女性が一人申し訳なさそうに軽くお辞儀をしていました。男はむくりと立ち上がって、女性に一歩近づくと、

「何かご用ですか?」

 とぶっきらぼうに聞きました。

「はい、お茶の葉を売って歩いているのですが、いかがでしょうか?」

 女性はバスケットを掲げて、小さな包装がいくつか残っている中身を見せました。こんなふうにして売って歩く人は珍しくはありませんでしたが、声をかけられたのは初めてでした。

「お茶ねえ、特には要らないかなあ」

 男はそれ以上近寄りもせず、かえって背を見せようとしました。

「バラのお茶なんですよ。町にもそうそうあるものではありません」

 女性はなんだか嬉しそうに男に声をかけ続けました。

「バラ、ですか?」

 男は女性に振り返りました。素っ頓狂な顔つきになっていて、女性はそれを見てクスリと笑いました。

「ここにも以前バラが咲いていたので、なんだか変に思ったもんで」

 男は慌てて言い訳をして、女性に近づいて一袋買うことにしました。

「では、これはおまけです」

 女性が小袋の上に、男に渡したものは一つの苗でした。

「バラの苗です。どんな色が咲くかは分かりませんが」

 女性は一度お辞儀をしてから去って行きました。

 男は女性から買ったバラのお茶を飲むことにしました。淹れてみると、それはとてもみずみずしい香りがして、一口啜っただけで爽やかな、肩の力が抜けるような味でした。

 それから男はバラのお茶を毎日飲むようになりました。だんだんお茶の葉が少なくなってきたので、あの女性がまた売りに来ないか、待っていましたが一向に通ることはありませんでした。町に出かけた時、ちょっと尋ねてみましたが誰も知っている人はいませんでした。ところが、家を通りかかった一人の行商に聞いてみると、

「それなら山のふもとに住む女じゃないか? でも、気をつけなさった方がいい。あの女はなんだかあやしげな薬草ばっかり作ってて、魔女なんじゃないかって話しですよ」

 と言われました。男は確かめずにはいられなくなって、教えられた山のふもとに行ってみることにしました。そこには古ぼけた一軒家があって、訪ねてみましたが誰もいる様子はありませんでした。

 肌寒さが和らいできた頃、男はあの苗を植えてみることにしました。植えたのは庭です。雑草を抜いて、土をならして、苗を植え、水を上げました。

 もうお茶の葉はなくなっていましたが、男は庭を手入れし出したので、顔色も優れて気分も前向きになるようになっていました。

 とうとうその日になりました。バラが咲いたのでした。それは赤色でも白色でも黄色でもありませんでした。銀色に輝くバラが咲いたのでした。男はすっかり嬉しくなって、その美しいバラをあの女性に見せたいと強く思いました。男は銀色のバラが一日でも長く花を咲かせていられるように、町の花屋に工夫を聞いたり、庭をさらにいじったりしました。けれども、女はやはり通りませんでした。

 もう数年経ちました。男は仕事をしており、バラの庭に精を出すようになっていました。不思議なことにもう銀色のバラは咲かなくなってしまいましたが、庭は枯れていたのが嘘というくらいに、鮮やかになりました。色とりどりのバラの咲き誇る庭を見ながら男は、自分でバラのお茶の葉を作るようにもなっていました。男はそれを友人や町の人に配ったり、売ったとしてもお手頃なお値段にしたりしていました。男は自分が病だったということも忘れるくらいにすっかり変わっていました。やりたいことが次々と浮かんでくるのでした。それはいつもバラの庭のことでした。

バラの庭を見物に来る人も現れるようになりました。夏の頃なんて、来年見に来ると約束する人までいるくらいでした。秋が来ても男は庭の手入れをしないことはありませんでした。冬が過ぎ、もう雪は融けていました。まだ寒い風の中に春の匂いがちょっと感じられる、ある日のことでした。仕事が早く片付いて家に戻って来た男は庭の手入れを始めました。ほどなくして、

「ちょっとすいませんが」

 どこかで聞いたことのある女性の声が聞こえた気がしました。男は手を止めて立ち上がりましたが、あたりをキョロキョロ見ても誰一人いませんでした。男は誘われるように、あの時女性が立っていた場所まで近づきました。地面を見ると、一本のバラが落ちていました。それは男には銀色に輝いているように見えました。

 その年のことです。庭の中に、金色に光るバラが咲きました。

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バラの庭 金子ふみよ @fmy-knk_03_21

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