異世界
開いた視界に映ったのは見渡す限りの草原だった。
優は隣に驚きの表情を浮かべている雪音を見た。
「おかしいのです‥私は優を連れてくるつもりはなかったのです」
本来はリーナだけをここに連れて来るはずだったにもかかわらずなんらかの手違いで連れてきてしまった。
その原因には概ね検討がつくが雪音はそれを優に伝えるつもりはなかった。
「そうか‥それよりも‥大丈夫か?」
優は自身に起きたイレギュラーを無視してリーナに気遣いの言葉をかけた。
リーナは驚愕した表情を浮かべて辺りを見渡している。
「ここ‥アタシの村の近くよ」
先程まで居た場所から突然自身の生まれた故郷に帰還することができてリーナは驚愕していた。
雪音の力でこのような芸当が可能だとは思いもしなかったのだ。
「いくのです」
雪音は呆然としているリーナを無視して目的地へと優の手を引いて歩き出す。
リーナは慌ててその後を追う。
三人は無言で淡々と歩みを進める。
リーナは未だ驚愕から立ち直れていないため普段のような活気さは見られない。
優と雪音の二人は元から口数が少ない方なので沈黙を苦痛とは感じなかった。
その点においては二人の相性は最高で無言で肩を並べて歩くのはむしろ心地が良い時間であった。
しかしその時間も長くは続かなかった。
暫く歩いていると丘が見えた。
その頂上には大規模な村が見える。
「帰ってきたのね‥」
眦に涙を浮かべてリーナは呟いた。
その声音にはもう帰る事を諦めていた故郷に帰ることができたことによる万感の喜びが込められていた。
木の柵で覆われている村の入り口にたどり着いた三人は見張りの男に声をかけられた。
「おい‥お前‥リーナか?」
男は驚愕の表情を浮かべてリーナを見た。
頬が痩けて薄汚れた服を身につけている。
草臥れた風態のその男のことはリーナも見覚えがあった。
「エリックさん‥そうですアタシです。リーナです」
エリックという男は驚愕から一転喜色の表情を浮かべて言った。
「リゼちゃんはあんたをずっと待ってたよ。勿論会うだろ?ついてきてくれ」
優と雪音を警戒する素振りも見せずに先程よりも明るい雰囲気を漂わせて優達を先導するエリック。
案内された場所は村の中では比較的大きな建物だ。
「おーい!リゼちゃん!リーナが帰ってきたぞー!」
エリックの張り上げた声に反応して奥から一人の少女が走ってきた。
リーナと同じ輝く金髪碧眼が特徴的な容姿をしている。
その端正な顔立ちに反してエリックの服と同様粗末な服を身につけていた。
「ほ、本当にお姉ちゃんなの‥」
目の前の光景が信じられないリゼという少女はリーナは呆然とした表情で見ている。
そんなリゼを見てリーナは口を手で押さえて涙を流していた。
肩を震わせてその場に崩れ落ちた身体をリーナは受け止めた。
背中に手を回して抱きしめた。
二人は暫くの間涙を流して互いの身体を離さなかった。
長い間そうしていた二人だったがやがてリーナが優と雪音の方を見て頭を下げた。
「雪音‥またリゼに会わせてくれてありがとう。どうやってお礼をしていいかわからない」
雪音はリーナの言葉に無表情で淡々と応じた。
「礼をされるようなことは一切していないのでしょう。これからは妹と一緒にいてやるといいのです」
雪音としてはもうこの世界に残るリーナと関わることはないと思っていた。
故に恩を売ったつもりもなかった。
「雪音‥アタシあんたのこと勘違いしていたわ‥」
雪音の表面上だけは慈悲深い言葉にリーナは瞳を感動に潤ませた。
長い付き合いのある優は雪音の考えていることの予想は概ねついたが知らぬが仏だと思ったために口には出さなかった。
「姉さん‥此方の方々は?」
リゼは初めて優達の存在をようやく認識してリーナに尋ねた。
「あ‥えっと‥優はアタシの命の恩人よ。それでこうやってまたあなたと会うことができたのは雪音のおかげなの」
リーナの説明にリゼはおお慌てで優と雪音の頭を下げた。
「‥ありがとうございます。姉さんに再び会わせてくれて」
リゼの感謝の優は心が暖かくなるのを感じた。
「いいんだ。こちらこそ君のお姉さんはとても楽しい性格をしていてお陰で退屈しないで済んだよ」
優のリーナを気遣う言葉にリーナは自身の胸が高鳴るのを感じた。
リーナの瞳は激情を込めて優を見つめる。
リゼはそんな姉の様子を見て羨ましさを感じた。
姉は自身と比べて圧倒的な魅力を有している。
みずみずしく張りのある肌に艶やか髪質の輝く金髪。
豊満な身体つきは女性的な魅力に溢れていた。
このような男性の理想を体現した女は村の男達にも人気が出るだろう。
リゼは姉が惚れているだろう男を見た。
村の男達とは比べ物にならない程に上等な服を身につけている上に言葉遣いも何処か品のようなものを感じた。
おそらくは貴族か富豪の息子であることが予想できた。
「そうですか‥本当にありがとうございました。あ‥でも‥お礼をすることが‥」
リゼは深い罪悪感を感じながらも言った。
この寒村では食い繋いでいくことがやっとの状態であるため礼をできるような財産は有していなかった。
リゼは姉であるリーナが居なくなってからは孤児院に引き取られて生活をしている。
故に保護者であるシスターにこのことを伝えて一緒に頭を下げてもらえるように頼み込むことしかできなかった。
「いや‥お礼は良いよ‥でも‥ちょっと質問してもいいかな?」
優はリゼの身体があまりにも痩せ細っていることが気がかりであった。
故にそのことを尋ねることにした。
「はい‥何でも聞いてください」
リゼはどのようなことを聞かれるのかと疑問に思った。
しかし、警戒心は抱かなかった。
優を見ていると不思議と心が安らぐ気がした。
リゼは聞かれたことに関してはなんでも正直に答えるつもりであった。
「その君は‥こう言ってはなんだけど‥その随分と痩せているね」
言葉を途切れさせて遠慮をしながら問いかけてくる質問は予想外の言葉であった。
リゼは返答に困ってリーナを見た。
リーナはリゼの縋るような眼差しを受けて得心したように頷いて言った。
「この村はその‥貧乏だから満足に食べ物もお腹いっぱい食べられないのよ」
目を伏せて言ったリーナは悲痛に表情を歪めていた。
優はその言葉を聞くと顔面を蒼白にしてリゼを見た。
リゼの歳は未だ成人してはいないだろうことが窺える。
あまりにも痩せ細った痩躯は見ていてとても痛々しい印象を受ける。
優は雪音に縋るような表情向けた。
雪音は緩慢に頭を左右に振った。
無情だが貧困など何処にでもある。
それを助けるなど余程の権力者か金持ちでも無い限り不可能だ。
優にはそのどちらもが不足していた。
雪音の反応を受けて優は力なく項垂れた。
「そうか‥質問に答えてくれてありがとう」
一言そう答えるだけで精一杯だった優は一気に精神的な疲労が自身に襲いかかってくるのを感じた。
「あの‥大丈夫ですか‥」
そんな優にリゼは歩み寄って手をとった。
リゼの手はまるで骨のように細く不健康だった。
優は悔しさと悲しみから泣きそうになる表情を押し殺して言った。
「大丈夫だ。じゃあ‥リーナはこれで僕達は行くよ‥」
これはおそらく今生の別れになる事を優は理解していた。
未練を残さないために早足で雪音の手を引いて孤児院のを出ようと扉を開く。
しかし、リーナはが優のことを背中から抱きしめた。
リーナはこれで優にもう会えなくなるなど嫌だった。
だから離さないようにお腹に腕を回して強く抱きしめる。
隣では僅かに雪音が顔を顰める。
リーナに引き止められると優にどのような影響を与えるかわからなかった。
雪音は最悪実力行使も厭わないことを心中で決定した。
「優‥行かないで‥ここでアタシ達と一緒に暮らしましょう」
リーナの縋るような必死な表情の優の心が揺れる。
雪音は優の心の機微を察知して既に優の家への帰還の準備を整えていた。
「でも‥ここにそんな余裕はないだろう?よそ者の俺たちは帰らないと‥」
リーナは悲痛に表情を歪めた。
事実この村では優を受け入れるだけの蓄えがない。
リーナは目を閉じて熟考した。
何か手はあるはずだ。
優と一緒に暮らすための方法が。
そして最上とも思える案をリーナは閃いたのだった。
「じゃあ雪音の力で魔物を討伐してもらいましょう!名案じゃない!」
リーナは興奮から声を大きく言い放つ。
その言葉に優は雪音を横目で見た。
雪音は変わらず無表情であるが雰囲気から苛立っているのが伺えた。
不味いと考えた時には遅かった。
室内が眩しく感じるほどに発光を始める。
「うッ」
その目を開けることすらできない光量にその場でに居る雪音以外の者達は呻き声を上げた。
次第に空間が光によって完全に包まれた。
そして気がついた時には優と雪音は元いた和室の六畳一間に立っていた。
優は責めるような眼差しで雪音を見た。
雪音は眉を顰めて冷たい声音で言った。
「もともと置いてくるつもりだった。そのことは優も理解していたはず」
まるで吸い込まれてしまいそうな輝きを宿す紫紺の瞳に見つめられ、優は顔を逸らす。
雪しかし、雪音は優に歩み寄り、両手で顔を掴んで自身の方へと向けさせた。
「あの者は本来此方の世界の人間ではないのです。ですからこれでよかったのです」
雪音の諭すような言葉に優は悲しみに表情を歪ませた。
雪音は優のがどれほどの苦悩を抱いているかを正確に理解していた。
リーナが住む村の経済状況はとてもではないが良いとは言えない状態だ。
優はそのことに心を痛めていることは理解できるが、雪音にはリーナ達を助けるつもりはなかった。
自身だけのことを考えていて欲しいという気持ちがあった。
優が自身の言葉を受け入れて初めている姿を確信して畳み掛けた。
「いいですか‥彼女達はもう私達には関係がない存在なのです。ですから優も忘れるべきです。きっと彼女達も姉妹で仲良く一緒に暮らしていけるはず」
雪音の説得に優は緩慢に頷いた。
しかし不満を浮かべた表情は未だ納得していないように思えた。
雪音はため息を吐いて優の頭を自身の胸に抱きしめた。
突然の雪音の行動に驚きの表情を浮かべる優だったが雪音のミルクのような甘い匂いによって荒んでいた心が落ち着いていくのが感じられた。
瞬間強烈な眠気が優を襲った。
「あ‥雪音‥」
次第に意識が朦朧としたものになっていく感覚に襲われる。
優はそれに身を任せて瞳を閉じた。
雪音は慈悲深い聖母のような表情を浮かべ、慈しむように優の頭を優しく撫でた。
「もう何も考えなくて良いのですよ」
何事にも行動力を発揮する優を大人しくさせるにはこの方法が最適だった。
雪音は優しい手つきで優の髪をすく。
一方的な触れ合いであったが雪音の心は満たされて行くのを感じることができた。
「渡さないのです」
その一言だけでも凄まじい想いの強さが感じられる呟きだった。
雪音にとって優という存在はそれだけ大切なのだ。
雪音は優の顔を覗き込む。
現在は雪音の力によって強制的に眠らせた。
その力は強く眠りに促す効果があるため良質な睡眠をとることができるだろう。
雪音は優の頬を両手で挟みこみ、自身の顔を近づけて可憐なその唇を頬の落とす。
そして優の身体をその場に横たえて自身もその横側へと身体を倒す。
添い寝の状態になった雪音は正面から優の顔を胸に抱き締め自身も眠りについた。
*
優達が目の前から姿を消した。
リーナは消えた空間を長い間呆然と眺めていた。
リーナの頭に様々な思い出が浮かぶ。
一緒にご飯を食べて遊んで眠るのも一緒だった。
共に喜びを分かち合い悲しさを共有して、時には喧嘩だってした。
そんな唯一無二であった優はもう一生会うことができない存在になった。
その事実を認識してリーナは目の前が真っ暗になった錯覚を覚えた。
「うそ‥うそっ‥うそよ!」
半狂乱になった己の姉をリゼは必死に抱きしめた。
幼い頃に共に育ったリゼもこのような姉を見たことがなかった。
それほど優の存在が姉の心の大部分を占めていたということだった。
「姉さん‥」
リゼも悲痛に目を伏せてリーナの背中を優しく撫でた。
両親を亡くした時もこれほど取り乱しはしなかった姉は今凄まじい悲しみに支配されているのだろう。
リゼはリーナ涙を流し終えるまでずっとリーナのことを包むように抱きしめていた。
リーナは泣きつかれていつの間にかリゼの腕の中で可愛らしい寝息をたてていた。
リゼは慈しむようにリーナを見て抱き抱えた。
自身のベッドへ運ぼうとするも、うまく身体に力が入らなかった。
栄養の足りていない身体は筋力が低下して人間の身体などまともに持ち上げられるような状態ではなかった。
「手伝うわ」
しかし、不意にリゼに声がかけられる。
リゼは突然話しかけられたために驚きから肩を振るわせて声のした方向を見る。
そこにはこの孤児院の責任者であるシスターがリゼを見つめていた。
リゼは申し訳なさを表情に滲ませながらも好意に甘んじることにした。
「はい‥シスターレイア‥お願いします」
リゼの言葉に聖母のような笑顔を浮かべてリーナの肩を持った。
リゼも同様に太腿の付近を持って歩き出す。
レイアはこの孤児院を運営している女性でリゼが幼く天涯孤独になってしまったことに心を痛めて孤児院で引き取ることを村長に申し出てくれた心優しいシスターだった。
癖があるふわふわとした印象を受ける金髪に暖かい光を宿すルベライトのような瞳。
優しげに垂れた目尻は見る者に癒しを与える容姿だ。
しかし、レイアも苦労が表情の滲み出て頬がこけてリゼと同様に痩せている。
「あの‥」
リゼの申し訳なさの籠った声にレイアは慈悲深さを感じることのできる暖かい笑顔を浮かべて言った。
「大丈夫ですよ‥リゼのお姉さんが帰って来てくれたのですから‥これくらい当然です」
レイアの人柄は村でも良識ある人物だと慕われている。
リゼは改めてその善性を目の当たりにした。
「‥そうですね‥」
しかし、リゼは表情を曇らせた。
リーナの先程の姿はあまりに危うかった。
それも今独りにしたらそのまま命を絶ちそうな程に。
ようやく自分の元へと帰って来てくれた唯一の肉親なのだ。
これからはしっかりと寄り添うことを心に誓う。
二人は寝室のベッドにリーナを横たえた。
「優‥」
リーナは呻くように優の名を呼んだ。
表情は想い人のことで切なさを滲ませていた。
「優‥とは誰のことでしょうか?」
レイアは首を傾けてリゼを見た。
リゼは左右に首を振って応えた。
「私もよく知りません‥でも‥貴族様だと思います。‥姉さんのことを今まで面倒を見ていてくれた人です」
レイアは口に手を当て驚愕の表情を浮かべた。
貴族に見染められるということは早々あることではない。
「‥凄い‥いいお姉さんですね」
普通であれば貴族に娶られた時点でその後の人生の幸福は約束されたも同然のものになる。
しかし、リーナはその未来を捨てて自らリゼの所へと戻ってきたのだ
「‥ええ、本当に‥でも‥」
リゼの続く言葉はレイアにはわかった。
レイアは柔らかい微笑を浮かべてリゼに言った。
「いいのよ‥わたしがなんとかします」
レイアの儚さが込められた微笑を向けられてリゼは罪悪感で心が痛んだ。
レイアが毎日頭を下げてお金を恵んでもらっていることをリゼは知っていた。
ここに住まう子供達は日々の糧を得るために遊ぶ時間の余裕もなく働いていた。
「‥ありがとうございます」
感謝よりも罪悪感に押し潰されて眦に涙を滲ませてリゼは頭を深く下げた。
レイアは微笑みを浮かべたままリゼの頭をその胸に抱きしめた。
リゼは驚きの表情を浮かべてレイアを見上げた。
「レイアさん‥」
レイアは聴いた者に安らぎを与える声で言った。
その端正な顔立ちが相まりまるで女神のようだった。
「あなたはわたしの大切な家族なのですから何も心配することはありませんよ」
リゼは嬉しさから表情を崩して大粒の涙を流す。
レイアには返しきれ無い恩ができてしまった。
それを自分の力では何も返すことができないリゼは申し訳ない気持ちで胸が一杯だった。
「でもッでもッ‥、わたしレイアさんに迷惑かけてばかりでッ」
リゼは涙を流して叫ぶ。
その姿はあまりに健気でレイアは心が熱くなるのを感じた。
「ふふ‥そんなこと気にする必要はありません。子が親に頼るのは当然のことです。あなたはいつも独りで何事も抱え込んでしまう悪いところがありますよ」
リゼは甘えるようにレイアの胸に顔を埋めた。
レイアは目を細めて優しくリゼの頭を撫でた。
二人は暫くの間本当の親子のように抱き合ったままだった。
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