第38話

 割れた窓ガラスから吹き込む風がでたらめな音階を響かせている。


「ベルカ、わたしはね」


 ヨシノが俺たちに正対する。


「他人の善意や優しさなんてものは信用してないの。ベルカを選んだのは、あなたとなら利害関係で繋がれると思ったから」

「利害関係で、繋がる……?」


 ヨシノは頷く。


「わたしは、利害関係しか信用できない。善意や優しい言葉なんて、損得勘定の上っ面を覆ってるだけの、薄っぺらくて安っぽい包み紙と同じ。そんなもの要らない。ゴミになるだけの過剰包装なんかどうでもいい、わたしは中身に興味があるの」


 ベルカの手を、ヨシノが握る。


「わたしの願いを、死にたいという願いを、混じりっけ無しに利害の一致で叶えてくれるのは、人造妖精であるベルカだけ。他の人たちの善意や優しさでは、わたしの願いは叶えられない」


 ヨシノの手が、ベルカに答えを促すように微かに力を込めた。


「ねぇ、どうかな……」


 ベルカの手に指を絡め、ヨシノがベルカに囁く。ベルカは凍り付いたように微動だにできず、ヨシノにされるがまま。


 俺は、解らなかった。

 死にたいのなら、一人で死ねばいい。ヨシノの希望であるこの列車に乗れたのなら、もう後は勝手にしてくれと思う。


 ベルカに喰われて死ぬか、自分で毒薬を注射して死ぬか、そんなことは死んでしまうヨシノにとってはどうでも良いことではないか。

 それなのに、何故ヨシノはこんなにベルカにこだわるんだ。他人を信用しないと口にしながら、どうして毒薬か睡眠薬かの二択を迫ったりするんだ。

 意味が解らない。腹立たしさばかりが募っていく。


「ヨシノは、仲間がほしかったの?」


 ベルカの言葉に、俺はハッとして、ヨシノは笑う。


「うん、いいね。いい線いってる。わたしは、同じ目標のために努力してくれる人を探してた。あくまで利益のため、ビジネスライクでストイックな関係。でもね、仲間よりもっといい言葉がある」


 ヨシノが声を潜める。


「『共犯者』。わたしが求めていたのは、それ」


 青ざめた頬を紅潮させて、ヨシノがベルカに抱きついた。

 抱きついたまま、ヨシノが小声で語る。


「わたしの周りには、わたしを心配する人ばかりだった。わたしが何かすれば二言目には「あなたのことが心配心配……」もううんざりだ。「心配」なんて回りくどい言葉でわたしの行動を制限しようとする連中なんか要らない。自分勝手に、欲望のままに行動してくれる共犯者が居ればいい」


 まずい。

 これは、とてもまずい。


 ヨシノはベルカを完全に絡め取っている。ベルカの反論を、逃げ道を、封じ込めに入っている。


「ベルカは、わたしの共犯者になってくれるよね?」

「ぼくは……」


 ベルカの前にいくつもあったはずのレールは、いつの間にか一本だけになっていた。


 そして、その終点は目と鼻の先に迫っていた。


「選んで、ベルカ」


 ヨシノが、二つの注射器を手に乗せて、ベルカの眼前に差し出す。

 右手に赤い猛毒を、左手に青い睡眠薬を。


 そして、彼女は目を閉じる。


 ヨシノが言ったとおりだ。これが勝負なら、ベルカは負けたのだ。


 右手の猛毒。左手の睡眠薬。


 ベルカが手を伸ばす。震える指先で、ヨシノの手に触れた。


 左手だった。


 ヨシノが閉じていた目を開く。そして花が咲くような笑顔を浮かべた。

 笑顔のままヨシノは、ためらいのない、手慣れた所作で青い睡眠薬を注射した。


「……さて、薬が効き始めるまでもう少しあるけど。わたしはどうしたらいい? 服は脱いでおく?」

「……そのままでいい」

「そう」


 ヨシノの表情はどこまでも晴れがましくて、青ざめていた頬にも血色がもどり、とても不治の病に侵された人間には見えなかった。


 ハルゼイが投げ込んだ懐中時計を拾い上げ、皮肉げにヨシノが笑う。


「よっぽど腹が立ったんだろうね……知ってる? あの先生、エゾからの亡命者なんだよ」

「うん、聞いた」

「へぇ。先生と話したの? 何か言われなかった?」

「ヨシノには二度と会うなって言われた」


 ヨシノが声を上げて笑った。


「そうだろうね。あの人にとって大事なのは、わたしじゃなくて自分の立場だもの。自分の患者が亡命まがいなことをやらかしたら、それこそスパイじゃないかって怪しまれちゃうもんね……」


 ハルゼイが投げ込んだ懐中時計を見つめるヨシノの目に、非難の色はなかった。


「自分を第一に考える点では、先生は信頼に足る人間だったよ。共犯者には、なってくれなかったけど」


 ヨシノが目を細める。何度か瞬きして、ヨシノは座席に腰を下ろした。


「眠くなってきた……ねえベルカ、膝枕してよ」


 立ち尽くすベルカはヨシノに袖を引っ張られ、彼女の隣に腰を下ろす。ヨシノは横になって、ベルカの太腿に頭を乗せる。


「あー落ち着く。なんか言葉に出来ないけど、最高」


 力の抜けた声で、ヨシノが呟いた。気持ちよさそうに、身体を伸ばす。


「懐かしいなぁ、昔もこうやって……あの子と……」


 徐々に、ヨシノの瞼が下がっていく。ベルカがヨシノの手を握った。


「ヨシノ……本当に、これでいいの?」


 閉じかかっていた瞼を億劫そうに持ち上げて、ヨシノがベルカを見やる。


「ベルカ」

「なに……」

「がっかりさせないでよ」


 それが、最後の言葉だった。目を閉じ、寝息を立てるヨシノを、ベルカは途方に暮れた表情で見つめる。


 ▽ベルカ、もういいんだ。ヨシノはしばらく起きない。ここに放置すればいい。

「……それじゃ、だめだよ。ヨシノは起きたら毒薬を使うよ」

 ▽だったら毒薬を捨てればいいだろ! 

「そういう問題じゃないよ……もうぼくは、ヨシノを見殺しには出来ないんだ」

 ▽見殺しって、お前……


 見殺しにできないから、自分で殺すって? こんな皮肉な使い方があってたまるか。


 ヨシノをシートに横たえ、ベルカは立ち上がる。

 コートを脱ぎ、ジャケットのボタンを外していく。

 不意に、車内が明るくなった。

 分厚い雲が割れ、隙間から青空が顔を覗かせている。

 差し込んだ日差しが、幾条もの光の柱を海上に突き立てていく。


 ▽見ろよ、ベルカ……綺麗だぞ。

「そうだね」


 外などろくに見ていないくせに、ベルカが返事を寄越す。脱いだ服を畳み、座席に置いていく。


 だめだ。これではだめだ。


 ベルカの意志は固く、閉ざされている。生半可なことでは、彼女の意志を覆すことなど出来ない。


 だとしたら、それでも良いのではないか?

 ベルカが自分で決めたことなら、俺は諸手を挙げて応援してやるべきじゃないのか?


 ……本当に?


 ふざけるな。そんな言い訳、俺は納得しない。

 だが、どうしようもない。


 ベルカが、靴下を脱いで、丸めて靴の中に入れた。準備が、終わってしまった。

 一糸纏わぬベルカが、ヨシノの傍らにしゃがみ込む。無言で彼女の髪を撫で、頬にそっと触れると、立ち上がって数歩離れる。


「捕食形態に移行」


 静かに発せられた命令で、ベルカの美しい姿が歪んでいく。殺し、恐怖を与えるために造形された兵器の姿に。


 他に乗客も車掌もいない無人の列車の中は、それでもこの姿では狭く感じられた。身を屈め、ベルカはヨシノに歩み寄る。


 レールの継ぎ目で、列車が僅かに揺れた。

 座席に横たわるヨシノの胸の上で組まれた手がほどけ、握り締めていた懐中時計が滑り落ちる。

 だが今さら、人の姿に戻って拾い上げることもしない。

 床の上を転がる懐中時計を、俺はぼんやりと眺めていた。ベルカはさっきと同じ位置で、行儀良く座り込んだ。高い位置から、ヨシノを覗き込む。


 転がっていった懐中時計が、座席の脚にぶつかった拍子に蓋を開いた。


 ベルカが口を開く。鋭い牙が、一撃で終わらせられるように狙いを定める。


 文字盤と蓋の間から、紙切れが零れ落ちた。

 乱暴に破り取った手帳のページに、何かが殴り書きされている。

 キリル文字で書かれた文言の意味を、俺は崩れ落ちる橋を駆け抜けるような想いでたぐり寄せる。


 弓を引き絞るように筋肉に力がこもる。


 ──掴んだ。 


 ▽待て、ベルカッ!!


 俺の叫びと同時、ヨシノの願いが振り下ろされる。

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