第33話 火事場の馬鹿力

「うぐっ……」

「ハウエル様!」


 歯向かってこなくなったハウエルに満足した公爵は立ち上がり、メイベルへと焦点を合わせた。


「っ……」


 逃げなくてはいけないのに、ハウエルを助けなくてはいけないのに、メイベルは動けなかった。本当の恐怖と対峙した時、人は声さえ出ないのだ。


「おまえを一目見た時から私は決めたのだ。おまえを私のものにして、兄上よりも、他の王子よりも長く生きてやるとな。だからおまえを何としてでも私の花嫁とする。そしてもう一度、人生をやり直すのだ!」


(この男は何を言ってるの?)


 メイベルはアクロイド公爵と数えるほどしか会ったことがない。それも幼い頃、顔合わせ程度だ。相手が自分を今の今まで執着し続け、手に入れようとした事実を聞かされても、まったく理解できなかったし、だからこそよけいに恐ろしく感じた。


(あ。だめだ。身体が動かない……)


 いつものメイベルなら、何としてでも逃げようと、バルコニーへ行き、二階であろうと構わず飛び降りたかもしれない。あるいはアクロイド公爵から逃げようと扉の方へ走り出したかもしれない。


 でも、できなかった。賊に襲われた時よりもずっとずっと彼女は恐怖に支配されていた。


(いや。怖い。誰か、誰か――)


「メイベルさま、にげて……」


 その時ハウエルが地を這うようにしてアクロイド公爵の足にしがみついた。


「まだ羽虫のごとく生きていたのか。どけっ!」


 苦痛に歪ませたハウエルの顔をアクロイド公爵は容赦なく蹴飛ばした。何度も何度も狂ったように公爵は蹴り飛ばした。その顔には笑みさえ浮かべており、ハウエルをいたぶることに喜びを見出していた。


「どうだ? 辛いだろう? 私に歯向かうからこうなるんだ!」


 がははと声を立てて笑う公爵。メイベルは雷に打たれたかのように大きく身体を震わせた。


「やめなさい!」


 声が出た。恐怖に打ち勝つほどの怒りが、メイベルの身体の硬直を解いたのだ。ハウエルに向けていた二つの目が再びメイベルへと向けられる。公爵が何か言う前にメイベルは腹から声を出した。


「あんた、いい加減にしなさいよ! 陛下の弟だなんだか知らないけど、やっていいことと悪いことがあるでしょ! 甘えるのもいい加減にしなさいよ!」


 だいたい、と彼女は頭がかっとなって自分が何を口走っているのかも理解せず、それでも何か言ってやらねば気が済まないと早口で捲し立てていた。あるいは恐怖が戻ってこないために次から次へと言葉を発していたのかもしれない。


「陛下にコンプレックス抱いているから何? 自分は可哀想だ。俺だって頑張ったんだ。でもぜんぶあいつの才能が掻っ攫っていく。そう思って僻んだの? 何をやっても許されると思ったの? はっ、馬鹿じゃないの? そんな考えしかできないからあんたは落ちていく人生だったのよ。陛下がどれだけ辛い立場だったのか、あの人にだって悩みや人から理解されない苦悩があったって、どうして考えられないの? あなたにしか持てないものがあるかもしれないと、どうしてそういうふうに考えられなかったの? あんたの敗北はね、自分を信じてあげられなかったことよ。自分で自分を裏切っていたのよ!!」


 メイベルの激怒した姿に公爵は呆気にとられていたが、すぐに顔を真っ赤にさせた。


「うるさい! サイラスに振られたくせに!」

「そうよ! でもね、おかげでハウエル様のような素敵な方に出会えたんですもの! あなたみたいな人じゃなくてね! だから、っ――」


 腕を掴まれたと思ったら思いっきり頬を叩かれた。口の中が切れ、血の味がした。


「生意気な口が利けないようにしてやる!」


 刃物をちらつかされ、憤怒に駆られた男の顔を至近距離から見ても、メイベルは怖くなかった。それを上回るほどの強い怒りが公爵に対して湯水のように湧き起ってくる。


(私と婚約できなかったら幼いミリアを娶ろうとして、ハウエル様を傷つけて、私をこんな目に遭わせて絶対に許さない!!)


 こいつのために力を使うくらいなら、ここで死んでやる!


 それこそが相手を後悔させる一番の復讐になる。怒りで我を失い、正常な思考を失っていると、ドタドタと慌ただしい足音が聞こえてきた。そして扉をバンと開ける音。


「メイベル! 大丈夫か!?」


 サイラスの声が聞こえると、公爵の注意がそちらへ向けられ、その絶好の機会をメイベルは見逃さなかった。刃物を持つ手に思いっきり噛みついたのだ。ぎゃっ、と悲鳴が上がり、男の手から血のついた刃物がすべり落ちる。


 メイベルは男の力が緩んだ隙に扉の方向へと逃げる。無我夢中で駆け出し、気づけばサイラスに体当たりするようにして抱きとめられた。


「メイベル! よかった! 生きてるか!?」

「来るのが遅い!!」


 怒鳴り返したメイベルに、サイラスは泣きそうな顔ですまんと謝った。


「もう、大丈夫だから」


 気づけば衛兵たちがアクロイド公爵を床に押さえつけていた。舌を噛み切りそうなほど悔し気な顔で公爵は甥を見上げている。


「叔父上。もう言い逃れはできませんよ」

「くそっ! くそっ! まだ私は諦めんぞ! 絶対に王になってやる! 今度こそローガンより上だと認めさせてやる!!」


 サイラスはじっと叔父を見ていたが、すぐに連れて行けと衛兵たちに命じた。


「メイベル。どこも怪我はしていないか? 怖かっただろう? すまない。駆けつけるのが遅くなって……」

「そんなことどうでもいいから!」


 メイベルは怒鳴り返し、サイラスを押しやると、うつ伏せのハウエルへ駆け寄っていた。ドレスが汚れるのも構わず、彼を慎重に仰向けにさせる。真っ赤に染まった白いシャツが目に入り、メイベルは泣きそうになった。


「大変だ。すぐに医者を……おい、メイベル」


 メイベルはシャツをめくり、彼の傷口へと手を当てた。


(大丈夫。絶対助けてみせるんだから)


 目を閉じて、神経を集中させた。サイラスがやめろ、おまえには無理だ、とか何とか言っているのも全く耳に入ってこなかった。


 無理だから何だというのだ。


(残されたレイフはどうなるの? ご両親が亡くなって、あの子にとってはハウエル様がずっと親代わりだったのよ。他の使用人だってハウエル様が死んだらどれだけ悲しむか。こんなところで、あんなやつに殺されて死ぬなんて、絶対許さない。認めるもんですか!)


 だから絶対、自分はハウエルを助ける。誰が止めようが、聞くもんか。


 身体全体が沸騰するかのように熱くなって、呼吸が浅くなり、心臓がどくんどくんと音を立てても、メイベルは聖女の治癒能力を使うことをやめなかった。


 決して使ってはいけないと十年前に言われた力だ。でも、メイベルに迷いはなかった。


(まだ伝えていないことだってあるのよ……)


 だから治って。目を覚まして。生きて。


「――ベル、メイベル。もう大丈夫です。ハウエル様はご無事です」


 どれくらい目を閉じていたのだろうか。誰かに肩を揺さぶられ、ふっ、と意識が戻る。


「あ」


 手をどけると、血で濡れているものの、傷口はきれいに塞がっていた。安らかな顔で寝息を立てているハウエルの胸は、穏やかな呼吸で上下していた。


(よかった。生きてる……)


 ほっとしたメイベルはくらりと眩暈に襲われた。すぐ近くにいた誰かに支えてもらえなかったらそのままひっくり返っていただろう。


「まったく。あなたは。無理をする」

「ラシャドさま……」


 彼は困ったようにメイベルの顔を見ている。一体いつの間にこの部屋へやって来たのだろう。


「ラシャド。医者を呼んでくるから、メイベルを……」

「殿下。そこをどいてください。わたくしが少しでもお姉さまに力を与えた方が早いです!」


 サイラスの声も聞こえる。ミリアの声もだ。でも彼らの方を振り向く気力はメイベルにはなく、気を失うようにして目を閉じた。

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