13
書斎の扉はかすかに開いている。訪問客が来て、そのまま閉じられていなかったのかもしれない。
――そんなことをしてはいけない。
悲鳴のようにうるさく乱れる鼓動の中、理性がそう叫んだ。
だがわきあがる衝動がそれを押し流し、開いた隙間から中を覗いた。
エミリオは体をこちらに向けていた。
その胸にすがり、うつむくようにしてすすり泣くほっそりした女の姿がある。
サリタ。
ミレイアは目眩を覚えた。
エミリオは、苦しげに顔を歪めてサリタを見下ろしている。
ミレイアは身を翻し、すぐ隣の壁に背をつけた。
胸の内側から何度も殴られているかのようだった。
「ごめん……」
「謝らないで! 謝るくらいなら……っ、ちゃんと突き放してよ! あたしが嫌いなら、もうなんとも思ってないなら、はっきりそう言ってよ!!」
サリタの叫びは涙によじれ、ほとんど悲鳴のようだった。
壁越しに、ミレイアは背中でそれを受ける。
数拍、サリタのすすり泣きが響く。それから、絞り出すようなエミリオの声がした。
「……サリタのことが嫌いなんて、言えるわけないじゃないか……!」
衣擦れの音がして、サリタのすすり泣きがくぐもる。
――エミリオがサリタを抱きしめている姿が、見なくてもわかる。
「あんたってずるい……ほんとずるい男! 何が、他の男と幸せになれ、よ! あんたは、それでいいの!? あたしが他の男と結婚しても、なんとも思わないの!?」
「……サリタなら、もっといい男が見つかるよ」
「臆病者! そんなの、都合の良い言い訳じゃない! 自分の気持ちをごまかしてるだけだわ!!」
サリタの叫びは鋭く、ミレイアをも貫く。
呪縛されたように動けなくなりながら、ミレイアは頭の後ろをも壁にもたれさせた。
「……ミアには、僕しかいないんだ。刻印を、四つも刻んでしまったから」
エミリオがかすれた声で、言う。
「みんな聖女だとか英雄とか持ち上げるけど、ミアをおそれてる。刻印がおそろしいから。あれは、使い方を誤ればおそろしい凶器になる……これからどういう影響が出るかもわからない」
続いた言葉が、ミレイアの息を止めた。
「だからって……、だからって、あんたが結婚して面倒見てやろうってわけ!? そこまで、自分を犠牲にしようっていうの!? 馬鹿だわ、いくら親しいからって……っ!!」
つんざくようなサリタの叫びが、ミレイアにはどこか遠くで聞こえた。がんがんと頭の中が揺さぶられているような感覚。
そうだね、とエミリオが静かにサリタの叫びを肯定する。
「でも……ミアがあまりにも憐れで。君と違って、僕が放り出したらミアは本当に一人になってしまう……」
かすれた声で、ミレイアの婚約者は言った。
――憐れ。
ぐらりとミレイアの視界が大きく揺れた。とたん胸が詰まって息苦しくなり、視界が滲む。
「同情で、自分の一生を捧げるなんて間違ってるわ!! いくら友達でもっ、限度があるじゃない……!!」
サリタが悲鳴のように叫び、嗚咽した。
バカ、臆病者、と罵ってエミリオの胸を叩いているようだった。
その声がすぐに弱まってくぐもり、やがてかすれていくのは――エミリオが抱きしめているからだろう。
ミレイアは震える唇を噛んだ。よろめきながら体を起こし、ふらつく足で、来たばかりの廊下を戻った。
目の奥がひどく痛む。鼻腔がつんとする。こみあげてくるものに歯を食いしばった。
ぐちゃぐちゃに乱れた心の奥で――これほど衝撃を受けているのは、反論できないからだった。
エミリオが婚約に必死になっていたのは、このせいだったのか。
誰も伴侶になどなりたがらない女を哀れんだから。
優しい、エミリオらしい理由だった。友情や親しみが、急に愛に変わったなどというよりはよほど納得してしまうほどに。
喉の奥で嗚咽を殺しながら、ミレイアは何度も目元を手で拭った。
優しい幼なじみが理解ある夫になってくれるなどと、そんな浮かれた自分がひどく愚かしかった。
剣を持ったことのない女を戦線に送り出せるほどに超常の力を持った刻印――そんなものを四つも体に刻み、消えなくなった女がどう見られるかなどわかっていたはずだったのに。
サリタの言う通りだ。――こんなことは、まったく間違っている。
エミリオの抱擁もせつないほどの声も、すべてサリタに向けられているというのに。
それから、ミレイアはエミリオを避けた。彼が会いに来ても決して姿を見せず、自分から訪れることもしなくなった。
陰鬱な気分の中、エミリオが困惑し少しでも傷つけば溜飲が下がるような思いもあった。
そして実際に顔を合わせたとしても、おそらくもうこれまでのような関係には戻れない。
一方で、婚約を解消するためのもっともらしい理由を考えていた。
衝動のままに婚約を解消したくなったが、それらしい理由もなくては、両親も周りも納得してはくれない。
どんなに歯噛みするような思いをしても、エミリオとサリタを悪く言うようなことは避けたかった。そんなことをすれば、自分が二人を引き裂いた悪女か、嫉妬深い女にしか見えなくなる。――自分が余計に惨めになる。
エミリオの優しさが、いまは憎くすらあった。
恋人(サリタ)を捨ててまで哀れんで情けをかけてくれなど、頼んでいない。
そんなことまでしてほしくない。
(……いっそ、)
ラウル・ヴィクトールの求婚を受けてしまおうか。
そんな考えがよぎり、ミレイアは自嘲した。
ありえないことだと思っていたが、いまは、エミリオから離れるにはもっともいいように思えてくる。
『ますます欲しくなった』
黒の死神と呼ばれた男の甘い毒じみたささやきが蘇り、ミレイアは無意識に肩を震わせた。
(あり、えない――)
そうつぶやいて、思わず両腕で自分の体を抱きしめた。
――最悪、修道院に入るという手もある。
むしろそちらのほうがよほど現実的かもしれない。
ミレイアはぎゅっと唇を噛む。いまは何もかもがわずらわしかった。
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