6
ミレイアの指に、熱のこもった吐息とともに甘いささやきじみた声が触れる。
――一瞬、ミレイアは決闘を申し込まれたのだと思った。
周囲がどっとざわつく――そしてミレイアはようやく、口づけられた手を無理やり引き抜いた。
恐怖とはまたかすかに異なるもので鼓動が激しく乱れる。挑発にしてはあまりに質が悪く、そのために頬が熱くなる。
すべてを振り払うように、ミレイアはラウルを睨んだ。
「お戯れを……!! 仮にも、王太子ともあろう方が軽々と口にしていいことでは――」
「俺がいつ、戯言を口にした?」
ラウルはいっそ涼しげな顔をして言い、ミレイアを絶句させた。
――なぜ。
いったいどうして、この男はこんなことを言い出したのか。
あまりのことに言葉がうまく出てこずに、ミレイアは髪をほつれさせたまま頭を振った。
「あ、ありえません……! 何かを誤解しておいででは……!!」
それともこれは、こちらの意表をついて隙をつくるというような新手の戦術なのか。
心理的な揺さぶり。だがそれにしては、少々品がない。
――少なくとも、戦場で剣を交えたこの男は、そんな矮小で狡猾な手を使うようには感じられなかった。
あるいは侮られているのか。じわりと怒りが滲み、だが寸前で自分を抑えて男を睨んだ。
「……私には既に、婚約者がおります」
たちの悪い戯れにしろ、あるいは揺さぶりにしろ、そんなものは通用しないという意思をこめる。
だがそう突きつけられても、黒の王太子は一度瞬いただけで、唇の微笑を消さなかった。
「ではその男と剣を交える。日取りは?」
馬で少し遠乗りするというような気楽さでラウルは言う。
ミレイアは再び言葉を失った。
――このテンペスタの王太子が何を言っているのか、まったく理解できない。
しかし、エミリオの優しい笑顔が脳裏をよぎり、彼を危険にさらす可能性を考えてぞっとした。
エミリオは暴力とは無縁の人物だ。
もし、万一にも、ラウルの剣を突きつけられるようなことになったら。
ミレイアはラウルを睨み、強く言った。
「……私の婚約者は剣を持ちません。もし彼が傷一つでも負うようなことがあれば、私はその原因を生涯許さないでしょう」
はっきりとそう牽制すると、今度はラウルが不意を衝かれたようだった。
わずかに目を見開いて――少し瞳孔が大きくなったためか、ほんの一瞬、無垢な少年のような顔を見せた。
その表情に今度はミレイアが躊躇うと、ラウルは興覚めしたような顔になった。
黒の王太子は肩をすくめてみせる。
「俺が滞在している間に答えを出せ。――ああ、少々不意をついたことは認める。ゆえに当面の”否”の答えは正式な回答とは認めぬ。せいぜい頭を冷やせ」
耳を疑う発言をした本人は、尊大かつ悠然と続けた。
――頭を冷やすべきは、どう考えてもテンペスタ王太子のほうだ。
帰りの馬車に揺られながら、ミレイアは呆然とそんなことを思った。
ラウルは正気に戻らず、婚約者の存在を突きつけてもまったく気にした様子を見せなかった。
(どうしてこんなことに……!)
答えが出ないその問いを、何度も頭の中で繰り返す。
そもそも、盛装してあの場に居合わせてしまったこと自体、異常なことだった。
あとから、気まずそうな大臣の一人に聞いたところ、
『テンペスタ側から、聖女ミレイアを同席させるよう強い要請があった――王太子がまさかあのような意図を持っていたとは思わなかったのだ』
『万が一ということも考え、あの奇怪な力を持ったテンペスタ王太子に対抗できるのは、《四印の聖女》だけだと陛下もお考えで、陛下の御身をお守りするためにも必要で――』
まさか、ラウルが《四印の聖女》に求婚するなど思いもよらなかったのだと、大臣たちも王すらも動揺しているようだった。
そのまま王宮に引き留められそうなのを、ミレイアは半ば無理やり辞してきた。
王宮には、しばらくラウルが滞在する。同じ場所に留まることはなんとしても避けたかった。
深々とため息をつき、両手で口元を覆う。
――テンペスタの黒い死神、黒王子とも呼ばれるラウル・ヴィクトール=テンペスタの人となりについて、ミレイアはほとんど知らなかった。
ただ戦場で幾たびも剣をまじえ、きわめて好戦的で蛮勇と思えるほどおそれを知らず、きわめて高い戦闘力を持った騎士だという印象だけがあった。
《王家の剣》という異能だけでなく、戦士としての素質に恵まれた人物だったのだ。
自ら先頭に立って切り込み、切り結び、時に潔く撤退することもいとわず、迅速にして勇猛果敢。
異能とあいまって、テンペスタの黒王子は戦場においてまさしく死神だった。
それをかろうじて食い止められたのは、《力の刻印》を両手足に刻んだミレイアだけだった。
数え切れないほど剣戟を響かせ、鍔迫り合いをした。
グエラの戦いの終焉間際も、激しい一騎打ちを演じた。
『貴様は、俺のものだ』
――そのときの光景と声が蘇り、ミレイアは無意識に肩を震わせた。
それから、屈辱、怒り――あるいはそれ以外の何かのために、頬が熱くなった。
(……まさか)
いまになってあのときと同じような、あるいはもっと強烈な言葉を投げかけるなど思いもよらなかった。
黒い兜に鎧で全身をまとった黒の王子の、素顔を知ることになるなど。
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