聖女ですが、婚約者には真に愛する人がいるらしく
永野水貴
1-1
闇を一身にまとったような男が、ミレイアを組み伏せていた。
黒い鎧に身を包み、口元以外のすべてを覆う兜も光を吸い込む漆黒だった。
唯一垣間見えるその唇が吊り上がっている。凶悪であり邪悪――だがその形が美しいことまでは否定できない。白く浮かび上がる頤おとがいさえも。
「……いい顔だな、聖女ミレイア」
低く、睦言のように甘いささやきがミレイアに降る。
ミレイアは喉元に迫る刃を、斧の柄で寸前のところで防いでいる――そうして顔を歪め、眼だけは男を睨む。
ひび割れた床に倒され、ミレイアの兜はとうに砕けて頭部をそのまま露出していた。
床に広がる長い髪は、戦場の空気を浴びて乾き、くすんだ茶色に変わり、頬は汚れている。
どれだけ全身を鎧よろっても、小柄なミレイアの体は、漆黒の鎧をまとった男に覆い隠される。
ミレイアを見下ろす男の目が、兜の上部に入った切れ目からわずかに見えた。
炎の照り返しだけではない理由で爛々と輝いている。同時にどこか引きずり込まれそうな暗さを錯覚する。
「俺をここまで高ぶらせるとは」
男の低い声が、衣を、鎧を貫通してミレイアの内に響く。
黒い――影のような男が近づいてくる。
まるで狼が獲物の喉首に噛みつこうとするかのように。
男は、互いの息を感じて唇が濡れるほどの距離でささやく。
「貴様は、俺のものだ」
ミレイアは跳ね起きた。
反射的に周囲を見回し、状況がわからずに混乱する。
薄暗い闇の中、大きな寝台の端が見え、その向こうに書き物机と花の生けられた瓶がある。
花は、ふっくらとした四枚の花弁を持つ白いゼラニウムだった。
『いい香りだろう? ミアが好きかなと思って』
優しい幼なじみの――いまは婚約者となった男の声を思い出し、ミレイアの体からようやく緊張が抜けていった。
エミリオが昨日、贈ってくれたものだ。
じっとりといやな汗をかいていた。どくどくと心臓が悲鳴をあげている。
両腕で自分をかき抱いた。
そうして無意識に自分の腕をなでおろし、手首で止まった。
薄闇に浮かび上がるような手首に、黒く焦げたような色の《刻印》が刻まれている。
神話時代の文字であるそれは、肌に食い込む茨――あるいは咎人にはめられる手鎖のようにも見える。
両手首に刻まれたそれを隠すように、ミレイアは寝衣の袖を引き下げた。
(いやな夢)
追い払うように深くため息をついて、寝台の縁に腰かける。
夜明けにはまだ少し時間があるようだった。
「ミレイア様、今日もとてもお綺麗ですよ!」
「……ありがとう」
侍女の熱のこもった口調に、ミレイアは照れてしまった。
鏡の中の自分は、確かに健康的で輝いているように見えた。
血色の良い頬、低すぎず高すぎない鼻、けぶるような茶色の睫毛の下に紫色の瞳がのぞき、鏡の向こうからミレイアを見返している。
艶やかな口紅をひかれた唇も、侍女の腕の良さに感心せずにはいられなかった。
毎日丁寧に梳くしけずられた濃茶の髪を結い上げ、耳には小さな真珠の耳飾りが揺れている。
ミレイアは誰もが認めるような美女ではない。だがこれといって突出した部位のない顔ゆえに、ある程度化粧映えはするらしかった。
そんなふうに鏡を見つめていると、ふいに扉が控えめに叩かれた。
「エミリオ様がいらっしゃいました」
もう一人の侍女の声に、ミレイアははっとして腰を浮かせた。
すぐに部屋を出る。二人の侍女が後からついてくる。
階段を下って一階の玄関が見えると、訪問者は既にそこに立っていた。
柔らかく波打つ金褐色の髪に、すらりとした背の高い青年。
やや垂れ気味の甘い目で、右目尻のところに小さなほくろがあるのが控えめに色気を足している。
ミレイアが声をかけるまえに青年は気づき、顔を向けて優しく笑った。
「やあミア。今日も顔色がよくていいね」
「……ありがとう」
エミリオらしい挨拶に、ミレイアは思わず笑った。
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