面白くも何ともない話

加賀見ゆら

面白くも何ともない話

「なにこれ」

 その言葉の割に感情の乗っていない声が、狭い室内に転がった。引き出しの奥に眠っていた期限切れのクーポン一掴みをゴミ袋に突っ込み、私は声の主である友人の元へ向かう。この部屋にいる彼女と私以外の生物なんて、テレビ台の上で埃を被った手乗りサイズのサボテンくらいしかいないのだ。独り言のつもりでなければ、私が反応するべきだろう。

「どうかした?」

 振り返った友人の手には、鍋が握られていた。一人暮らしを始める際に母親に買い与えられたそれは、いつの間にか私の前から姿を消していたはずだが。

「うわ、懐かし。久しぶりに見た。それ、どっから出てきた?」

「冷蔵庫の奥の方。……その様子じゃ、いつ入れたのか覚えてないんでしょ」

 普段はぱっちりとしている目を細め、目の前の友人はその顔に呆れを滲ませている。『その様子』が私のどんな様子を表しているのか、私にはよく分からない。だが、最後にこの鍋を冷蔵庫に入れた日を覚えていないのは確かだった。

「春から社会人なのに。これじゃ先が思いやられるなぁ」と彼女が続けて溢す。

「ていうかこれ、なんかあったかいんだけど」

 彼女はその一言とともに、私に鍋を差し出した。流石にぎょっとしている私を気にも留めず、友人は「ん」と顎をしゃくり、鍋を受け取るよう促す。恐る恐るそれに触れれば、じんわりと熱を発しているのがわかる。いや、冷蔵庫から出てきたのに、温かいってなんだ。

「フタ、開けないの?」

「え、開けるの?」

「だって、開けないと処分できなくない?」

キョトンとした表情で鍋を指差す友人の声に、揶揄いの響きは感じられない。なんでそんなに平気そうなんだ、と喉がひくつく。片付け好きと潔癖症はイコールじゃないでしょ、という過去の彼女の言葉がふと蘇った。そういうことかい。

「あー、そうだね。うん。開けるわ」

 意を決して、フタを持ち上げる。

「……えっ?」

 二人分の声が、ぴたりと重なった。


 専門学校入学を機に始めた一人暮らしの生活は、想像以上に快適だった。自分の予定や体調とさえ相談すれば、生活リズムも食事も自由が利く。偏食気味で夜型人間の私にとって、この小さな部屋は楽園だった。おまけに、散らかしても文句を言う人間はいない。別に、片付けが出来ないわけではない。ただ、どうにも面倒臭いだけで。

「ね、コレ普通に美味しいよ」

 山盛りの白菜が乗ったとんすいを、目の前の女が軽く掲げてみせる。

「いや……なんでそんな、いつ作ったのか本人さえも分からない鍋、平気で食べられるのよ」

「万年汚部屋のアンタにだけは言われたくない。アタシは部屋綺麗だし」

「いやいや、その万年汚部屋の私でも流石にヤバいってわかるから。さっきも言ったけど、確実に一年は経ってるからね? そのキムチ鍋」

 私にだって、はじめの頃は自炊をするだけの気力はあったのだ。実家暮らしだった高校生時代は料理をすることも多かったし、人並み程度の調理技術は持っていた。まあそれも、どうすれば嫌いなものを口にせずに生活できるかを考えた結果だったのだけれど。その手間を捨てられたのは、ひとえに一人暮らしとアルバイトの賜物だ。

「そもそもさ、冷蔵庫の奥から出てきたのに、湯気が出た時点でもうおかしいじゃん? ヤバい匂いもしないし、見た目も普通のキムチ鍋だし。死にはしないでしょ」

お腹は壊すかもだけど、という嫌な一言を付け足しつつ、友人は何食わぬ顔で豆腐を頬張る。本当にヤバいのはこの謎のキムチ鍋じゃなくてアンタなんじゃ、とは流石に言えない。彼女自身も忙しい中、わざわざ私の引っ越しの手伝いをしに来てくれているのだから。

「ほら、食べなよ」

「どっちかというと私のセリフなんだよなぁ、それは」

 鍋を挟んで向かい合っていたはずなのに、気付けば彼女は私の隣にまで移動してきていた。自分の食べかけを席に残し、彼女は私のとんすいに次々と具を取り分けている。そういやコイツ、酔うと片付け魔になるとか言ってたな。私の部屋だけじゃ飽き足らず、この鍋まで片付けるつもりか。徒歩二分のコンビニで買ってきた缶ビールを横目に、思わず溜め息が漏れた。

「はい、どーぞ」

「お腹壊したらアンタのせいだから」

「はいはい、それでいいから」

 全ての具材を満遍なく取り終えて満足したのか、彼女がこちらにとんすいを手渡す。その中身はたしかに、普通のキムチ鍋と何ら変わりないように見える。真っ赤なスープ、ところどころに焼き目がついた豆腐、火が通ってうっすら透明になったネギ。部屋中に漂う唐辛子の香りのせいか、さっきから腹の虫が鳴りやまない。一日中部屋の片付けをしていたのだから、無理もないか。うん、やっぱり片付けってエネルギーを使うから嫌いだ。いつ作ったか分からないキムチ鍋を食べるなんて判断、疲れていなければするはずないんだから。

「……いただきます」

 多少の躊躇いを残しながらも、そっと箸を握った。自分の席に戻った友人は、ビール片手に食事を再開したらしい。大丈夫、明日は特に用事もないし。体調を崩したって何とかなるだろう。医者にかかる羽目になったら、目の前のコイツに病院代をたかろうと心に決めた。

 箸先で白菜を摘まみ上げ、そっと口に運ぶ。

「どう?」

「普通に美味しい……」

 十分に熱されて甘みを増したとろとろの白菜に、辛みの効いたスープがよく絡んでいる。次に口の中に放り込んだ豚肉も、臭みがない。

「でしょ」

「なんでアンタが自慢げなわけ?」

「まあまあ」

「ムカつくー」

 彼女がケラケラと笑いながら、湯気を立てるシイタケを口に放り込む。私は戯れの悪態をつきながら、ぬるくなった生ビールをあおる。就職を機に疎遠になっても、今日の記憶は鮮明なまま私の中に残り続けるだろう。根拠のないその確信は、私の心の隅っこを暖かく照らした。


「んあ……」

 目を開ければ、ゴミひとつ落ちてないカーペットとそこから伸びるローテーブルの短い脚が視界いっぱいに広がっていた。カーテンの隙間からは柔らかな光が漏れている。寝落ちした。私の脳味噌はまだ動きが鈍いものの、とりあえずその事実だけは理解した。その瞬間、腰やら肩やらが悲鳴を上げていることに気が付く。二日酔いで痛むこめかみを抑えながら、私は上体を起こした。友人もローテーブルの向こう側で眠っていると思いきや、ちゃっかりソファに寝そべっている。ブランケットの下で規則正しい寝息を立てる肉塊を撫でれば、手の平にほんのりと温かさを感じた。コイツほんと遠慮ねーな。

 疲労とアルコールによって倍増した食欲も、二十代女子二人の胃袋サイズには敵わなかったらしい。微妙に残されたキムチ鍋を前に、私たちは結局白旗を上げた、はずだ。途中から曖昧になった昨夜の記憶を答え合わせしようと、ローテーブルの上に視線を滑らせる。

「は?」

 寝起きで掠れた私の声が、毛の長いカーペットの上に転がる。もし今彼女が起きていたら、「声ひっく」と笑われていたに違いない。

 無残に転がる缶ビールの死体や、食器にこびりつきはじめた真っ赤な汚れなんかは、今どうでもいい。片付けた記憶がない以上、そんな状態になっていることは覚悟していた。問題は鍋だった。カセットコンロには火がついていないにも関わらず、その中身はクツクツと煮え、水蒸気を立ち昇らせている。何より、出来たてですと言わんばかりに具材が充実している。目の前のソレが撒き散らす匂いは、昨夜と全く同じだった。

「ちょっ、ちょいちょいちょい! 起きて!」

 弾かれるように立ち上がり、ソファに陣取っている女を叩き起こす。その肩を十数回揺さぶったところで、ほとんど開いていない目は漸くこちらに焦点を合わせた。

「んんー、なに? 今何時……」

「コレ、アンタの仕業?」

「はぁ? なにが……」

「キムチ鍋! 新しく作り直した?」

 だって、そうじゃないと考えられない。昨夜私たちが食べるのを止めた時点で、残りは鍋の三分の一程度の水位になっていたはずだ。いくら昨日の記憶が朧げだからといって、流石にこれで騙されるほど酒は飲んでいない。

「は? そんな面倒臭いことしないよ。第一、処分するために食べたのに」

 しかし、返ってきた答えは至極真っ当なものだった。未だ眠そうではあるものの真剣な表情に、それもそうかと納得しかけた。が、すぐに疑問が湧き上がる。

「じゃあ、なんで……?」

 背筋がすうっと冷たくなる。窓の外から降り注ぐ春の日差しは、きちんと私たちの身体を暖めようとしているのに。勿論、自分がやった記憶はない。それなら誰が? 窓は昨日片付けを終わらせた時点で閉めたし、玄関だってコンビニに買い出しに行った後できちんとチェーンまでかけた。一昨日までの我が家ならまだしも、ほとんどのゴミを出し終えて殺風景になったこの部屋に、隠れ場所なんてない。いや、そもそもコンロに火がついていないのに、未だにスープが煮え立っている時点でおかしい。

 恐る恐るカセットボンベに触れる。全体が金属で作られたそれは、私の指先に無機質な冷たさを伝えた。




「それで、どうなったんですか?」

 目の前に座る先輩は、わたしの反応に気を良くしたらしい。意味深に笑ってお猪口の中身を飲み干す彼女を、もう一度せっつく。

「先輩ってば! もったいぶらないでくださいよぉ」

「キムチ鍋は出なくなったよ」

 お猪口をテーブルに置き、先輩はサラリとそう口にした。

「えぇ、キムチ鍋の復活は一回だけだったってことですか?」

「違う違う」

切れ長の目を細め、先輩はひらひらと手を振った。その指先には、桜貝のような爪がツヤツヤと輝いている。普段は雪のように真っ白な頬が林檎のように色づいているあたり、彼女の全身には大量のアルコールが駆け巡っているのだろう。そろそろやめさせないといけないな、と頭の片隅で冷静な自分が独り言つ。

「その鍋さ、一人暮らしの女が使うにしては結構大きいんだよね。八号だったか九号だったか、まぁそのくらいのサイズだったんだけど。だからいつも完食できなかったの」

「じゃあやっぱり、キムチ鍋は何回も復活したんですね……。っていうか、他の日はともかく、最初に食べた後はお腹壊したりしなかったんですか?」

 一瞬軽く流しそうになったが、一番気になっていたことを思い出す。そもそも、一年以上もの間、素人管理で放置していた食品を口にしようという発想自体がぶっ飛んでいるけれど。

「何にも。私もその子も、ピンピンしてたよ」

 先輩はそう答えながら、その手に握られた箸ですぐさま刺身を摘まみ上げた。うっまぁ、と目尻を垂らして咀嚼する彼女は、先程の話の中の彼女の人物像とは少々かけ離れているように思える。まぁ、社会に出て色々変わることもあるのだろう。

「だから先輩! その後はどうなったんですか」

「せっかちだねぇ。もう少しゆとりを持ちたまえ、我が後輩よ」

「いやそれ、どんなキャラですか。ほんとに飲み過ぎですよ」

 刺身の盛り合わせを先輩の元から攫えば、薔薇色をした薄い唇がツンと尖った。

「まぁいいや、話戻すね。その大量のキムチ鍋が、私一人で処理できるわけないでしょ? 食べても減らないし。そこで私は思いついたわけよ。『これを食べ続けたら、食費浮くんじゃね?』って」

「うーん、やっぱりぶっ飛んでますね」

 思わず素直な感想が漏れる。この人、仕事は出来るんだけどな。天は二物を与えずってやつね。いや、ちょっと使い方違うか。

「それが直属の先輩に対する言葉か。んで、私は年中キムチ鍋生活を始めたんだけどね、流石に飽きちゃって」

「そりゃそうでしょうね」

「それで、私はまたもや思いついたわけ。『一旦キムチ鍋完食して、新しく他のメニューを作れば、また永久機関鍋ができるんじゃね?』って」

「何となくそういう流れになるとは思いましたよ。にしても、ネーミングセンスが酷いですね。まんまじゃないですか。仕事の企画名とかは面白いのに」

「うるさいよ。それで、頑張ってキムチ鍋完食して、次は鍋焼きうどん作ったんだけどさ。復活しなかったんだよ、鍋焼きうどん」

「へぇ、昔話みたいですね」

「ねー」

 それまで饒舌だった先輩の口内に、鮟肝が放り込まれる。ようやく飲み込んだと思ったら、先輩の箸は更にもう一切れ引っ掴んだ。

「……えっ、それで終わりですか?」

「そりゃそうだよ。昔話でも、こういうのは大概『要らん欲を出したせいで全部おじゃんになりました。ばーかばーか』で終わるでしょ。君は一体何を期待していたのさ?」

「口悪っ。いやだって、不思議な話って言ってたじゃないですか」

「間違ってはないじゃん」

「まぁ、そうですけどぉ」

 あからさまにしょんぼりしてみせると、先輩は物分かりの悪い子供を宥めすかす教師のような笑みを浮かべた。

「だから最初に言ったでしょ」

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