第9話 青森と旧友
山の奥にあるお寺に、一人の来客があった。念仏を唱えていた男、青森は、ゆっくりと後ろを向いた。
「……なすてこごさ来だ」
やって来た男にここに来た理由を問いながら、鋭い眼光で睨みつけた。男はニコニコと薄っぺらい笑顔を貼り付けながら青森に言った。
「お久しぶりです、祖国」
「わっきゃ国でね。青森県だ」
祖国という言葉を否定し、青森は念仏の続きを唱え始める。
男は少し昔、青森のお寺を訪れたことがあった。青森のお寺は森の奥深くにあり、なかなか人が立ち入ることのできない場所である。
男は過去、子供の体力と好奇心でそこへたまたま辿り着き、それからよくそこへ行くようになっていたのだ。
それは昔の話であり、男が上京してからは青森はずっと一人であった。
そんな男が再びここを訪れたのだ。
「ずっと前に、私が子供の頃に会いましたよね」
男はそう語りかけるが、青森は無視して念仏を唱える。
「とても怖かったです。それでも貴方はここにいて、やってくる私を気にしないで、今みたいに念仏を唱えていました」
青森はそれでも無視し続けた。男は少しだけ悲しくなってきたが、それでも良かった。もう終わることは分かっているのだ。
「私の父が頭を下げた時、家族全員で驚いたんです。貴方がそんなに偉かったなんて、青森県の化身だなんて思わなかったです」
男の父は地元では有名な大地主であり、むしろ頭を下げられる側の立場であった。そんな父親がただのお坊さんに頭を下げたのだ。男にとっては驚くべきことだっただろう。
「貴方が県の化身だなんて、知らずにここに来ていました」
青森はまだ念仏を唱える。男も慣れてきてしまったのか、自身の話を続けた。
「化身と会える確率なんて少ないのに会えたんです。今は戦時中で、みんな大変な時期なのに。貴方はこうしてまだここにいる」
そして男は立ち上がり、自身の生涯の話をし始めた。
「母は幼い頃に死に、他の女性たちに育てられました。父親とは関係がいまいちでした。けど貴方は昔、父親がいるだけ良いことだと言いましたよね」
青森は念仏を唱え続けた。男の話は聞こえぬふりをし続けている。
「尊敬する人が自殺しました。大きな衝撃なんですよ」
青森は少し息が止まったが、念仏は唱えていた。
「東京に上京しました。もう津軽弁を話す癖もないです。けど、本当に時々話したくはなります」
青森はそれでも念仏を唱える。
「私の人生は誇れるものですか?」
青森は念仏を唱えるのをやめ、立ち上がって男を平手打ちした。
「い加減にすろ!!! それはわへの当でづげが!? 死なねわへの当でづげが!? 人間はむったど、いご身分だな!!」
青森は過呼吸になり、その言葉を一気に吐き出した。男は驚きの顔を隠せず、貼り付けていた笑顔が顔から消えた。
「津軽弁、やっぱりいなあ」
男は笑った。青森は自室から氷を持ってきて、男に乱暴に渡した。
「こぃで冷やせ」
「もう必要ありません。私の決意は決まりました」
男は氷を受け取らなかった。そして立ち上がり、置いていた鞄から本を数冊取り出した。
「こぃは?」
「私が尊敬する人たちの本です。貴方に持っていて欲しいんです」
「わっきゃ本読まね」
「私ももう本は読みません」
その言葉に青森は驚いた。男は子供の頃もここへ来ていた。念仏を唱え続ける青森の隣で、たくさんの本を読んでいた。あんなに本を読んでいたこの男が、もう読まないなどと言ったのだ。
「青森県、あと何年かはかかりますが、私はもう死にます。これから、全てを終わらせに行きます」
男は本を渡し、寺の中から出て行った。
「まいね!」
青森は男を止めた。男の背中は、まだ小さな子供のようであった。
「貴方から止めてくれるなんて」
「そったごどすても意味はね! 人間の命は限らぃでら!」
「私はもう生きれません。貴方には、このような人の心が理解できますか?」
青森はゆっくり首を振った。今までも、青森の周りにいた人間は必ず死んでいった。寿命だったり、病気だったり。しかし、全員が生きることを望んでいた。
それなのに、男は自ら死を選んだ。
「もし貴方が良いのなら、命について考えて欲しいです。——どうも、青森県。貴方どの時間はたげ楽すくてあっただ」
男は津軽弁を話し、お寺を去っていった。
その後何日経ったかは分からないが、日本が戦争に負けたと政府から青森へ連絡があった。
多くの人が死んだという。広島と長崎には、爆弾が落とされたと報告された。
「この爆弾は原子爆弾と言い、黒い雨を降らせました」
「広島ど長崎、二人の容体は?」
「長崎県様は下半身を失っています。本人は溶岩で固めて、それから早めに再生するそうです。今はずっと、教会で祈っています。広島県様は……」
政府からの役人は言いにくそうだった。察してください、と男は言ったが、青森は彼にきちんと話すよう言った。役人は震え続けている口を開いた。
「全身火傷の、重症です。県民も多くが亡くなりました。体と心を再生するためにも、数年は眠ったままでしょう」
彼は泣きながら答えた。
役人は戦争の報告を青森にすると、すぐに家に帰って行った。そして、入れ替わるように岩手がやって来た。
「あ、いたいた! 青森ー!」
「……岩手」
「あれ、なんかやつれてる? でも僕の方がすごいよ! 最近は列車の乗客者がすっごい沢山いるんだ!」
青森は岩手が最近謎の列車の運転士になったことを思い出した。何のための電車なのかは謎であり、誰が乗っているのかも分からないらしい。
「嫌になっちゃうよね! 僕を忙しさで殺す気なのかな。特に
岩手はまるで子供のようだ。何も知らずに、あの鉄道とやらを運転している。
「……こぃがら減っていぐ」
「えっ、なんで?」
「戦争終わったはんでだ」
岩手はそれでもよく分からなかったようだ。
また数年経った頃、今度はある女が青森の寺に訪れた。
「こんにぢは」
「……こんにぢは」
よく聞いていたような津軽弁だった。女は一礼して青森にある報告をした。
「——が、死にました」
「……んだのか」
青森は何も思わなかった。女はそれだけを言い、お寺を後にした。
青森はなんとも言えない感情を何処にも置くことができなかった。ただひたすらに念仏を唱えても、後悔に近い心残りを何処にもやれずにいた。
—— もし貴方が良いのなら、命について考えて欲しいです。
あの時の男の言葉だ。
青森は考えた。今の私に何ができるのか。生きていると言い難い私に、命をどう考えろと言うのか。
「……なぜ、自ら命を失うような真似を」
それが、青森が最初に持った、命に関する疑問だった。
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