レモンタルトの午后 ーあやかしの集う喫茶店ー

ユメノ

第一章 レモンタルトの午后

第1話

 どうせ誰も僕のことを見ていないのだから、誰にも見えない僕になればいい。


 はじめての期末テストも終わって、あと少しで夏休みだとうある日、僕は姿を消した。



 ○    ○    ○   ○   ○

 


「準備できた、秋鹿あいか


 母親の言葉に「うん」と答えて、秋鹿は荷物を持ち上げる。その様子に、夏紀なつきが眉をひそめる。きっと、母さんの目には、荷物だけが宙に浮かんでいるように見えるんだろうなと、秋鹿は思った。


 夏紀はためいきをつくと、


「人のいるところでは、母さんが荷物を持つわ」


「でも、重たいよ」


 秋鹿はひかえめに答えた。


「仕方ないでしょう。あんたが荷物を持って歩いたら、みんなびっくりするわ」


 夏紀は眉間の皺を深くした。タメイキと、ミケンノシワ。気にしていながらも、全然治らない彼女の癖だった。


 こんなことなら、本なんて詰めるんじゃなかったと、秋鹿は後悔した。だが鞄から取り出そうとしてまたぐずぐずとしては、母親の苛立いらだちも高まるだけだろう。


 早くしなさいと云って、夏紀はさっさと玄関を出ていってしまう。秋鹿は重たい荷物を両手で抱えながら、あわてて母親の後を追った。


 車の助手席に乗り込むと、夏紀がった。


「シートベルト、ちゃんと締めなさいね」


 云われたとおり、秋鹿はシートベルトを締める。夏紀は秋鹿の方を見て、再び眉をひそめたが、


「仕方ないものね。規則は規則だもの」


 自分に云い聞かせるように呟いた。


「車で行くの、」


「当たり前でしょう。とてもあんたを連れて電車でなんか行けないわ」


「どれくらいかかるの、」


「三時間半くらい。上手くいけばね」


 さ、行くわよと、夏紀はアクセルを踏む。秋鹿も溜息をこぼしそうだった。車は苦手だった。乗り物酔いを、しなければいいけど。


 しばらくの間、二人とも一言も喋らなかった。秋鹿は運転席の夏紀の横顔をちらりと見た。運転をする時の習慣でサングラスをかけているから、目の表情は読み取れない。けれど母親が愉快な気持ちでないことくらい、判る。


 無理もないことだと、秋鹿は思った。夏紀はこのところ仕事で忙しくて、めったに休みが無い。貴重な休日は、ゆっくりと過ごしたいことだろう。それを秋鹿の為に、つき合ってくれるのだ。


「母さん、」


「何、」


 少し邪魔そうに夏紀は答えた。いつものように考えごとをしながら車を走らせていたのだろう。


「ごめんね」


 うつむきながら、謝る。


 夏紀は横目で秋鹿の顔を見たのかもしれない……しかし彼女の目には、秋鹿の姿は映らない。


「仕方ないわ」


 夏紀は静かに云った。


 ごめんなさい。


 秋鹿はもう一度、心の中で呟いた。


 まるでいつもどおりの朝だった。けたたましい目覚ましの音に飛び起きて、着替えて、洗濯機を回し、朝食を作る。珈琲コーヒーの薫りが漂いはじめる頃に、くたびれた顔で夏紀が起きてきた。


 まだぼんやりとしている様子の母親に、「おはよう」と、秋鹿は声をかける。


 すると夏紀はいぶかしげにあたりを見回して、


「秋鹿?」


「うん」


「何、何処どこから喋ってるの?」


 眉をひそめた。すぐ目の前に立っているのに、彼女には秋鹿の姿が見えないのだった。


 声は聞こえるのに、さわることも出来るのに、姿だけが見えない。秋鹿本人には自分の姿が確かに見える。手足を見下ろすことも出来るし、鏡に映る影も見える。けれど他人には秋鹿の姿が見えない。


 おかげで外へ一人では出歩けなくなってしまった。学校へは病気だと偽って休むことになった。さいわい一週間後には夏休みだった。

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