9-2
新堂が頭を拭きながらダイニングに行くと、テーブルに向かって朝比奈が座っていた。蛍光灯の白い光の下で、呆けたように遠くを見つめている。
「大丈夫か、朝比奈」
「……新堂君。うん、大丈夫」
どこか弱気な様子で朝比奈が答える。朝比奈も疲れているようだが、無理もない。片岡の死体は見ていないが、ビーバーには追いかけられた。危うく殺されるところだったのだ。元々のんびりした性格の朝比奈には強すぎる刺激だっただろう。
新堂も椅子に腰かける。テーブルの上にはリンゴやバナナなどのフルーツがあった。食べてもいいと津幡には言われていたが、しかし食欲はなかった。空腹ではあるのだが、何も喉を通らないような気がした。
「片岡君は……」
遠くを見たまま、静かに朝比奈が呟く。新堂が目を向けると、朝比奈は言葉を続ける。
「本当に死んじゃったのね……?」
少しためらいながら、新堂は答えた。何と言えばいいのだろうか。だが今更言葉を取り繕ったところで無意味だ。事実は変わらない。
「……ああ。片岡は死んだ。あのビーバーにやられてしまった」
「そう……そうよね。ごめんなさい、何度も同じことを聞いて」
「気にするなよ……普通じゃないことが起きてるんだ……」
「そうね……片岡君は……苦しんだのかしら? こんなひどい事になって……」
朝比奈は顔を伏せ両手で顔を覆った。肩が震え、今にも泣きだしそうだった。そんな様子を見ていると、新堂も泣きだしたい気分だった。一体何でこんな事に。
津幡のせいだ……そう思う事は簡単だったが、それにしても異常な事態だ。ビーバーの剥製を注文した……本当にそんな事だけが原因で起きた事なのだろうか。
「片岡は……最初駐車場に倒れていたときはまだ生きていた。右腕が千切れてひどく弱ってはいたけど……そのあと水に引きずり込まれて、そして首を……」
「……腕まで千切られてたの?」
朝比奈が何か気になるかの様に視線を上げた。
「ああ。右腕がなかった。きっとビーバーにやられたんだろう……」
「腕を……千切られていた、取られていた……」
「何だ? 何か気になるのか、朝比奈?」
「いそい様……覚えてる、新堂君?」
朝比奈の目にいつもの理知的な光が戻る。新堂は朝比奈の言葉を反芻しながら答える。
「いそい様って……一年の時に調べたやつか。地元の伝承ってやつだったな」
「ええ、そうよ。片岡君にも協力してもらった……何かあれに似てない?」
「似てるって、何がだ? ビーバーが?」
新堂は視線を巡らせながら昔調べたことを思い出す。
いそい様とは美羽埼大学周辺の農家を中心に伝わっている伝承の事だ。
江戸時代、この土地を管理している武家は大変な乱暴者で、年貢を納められない小作人をひどく懲らしめていた。殴る蹴るだけに収まらず、家に火をつけたり斬り捨てるようなこともあったそうだ。
ある日その武家が年貢の代わりにと一人娘をかどわかし辱めた。娘は耐えきれず自害し、その事を糾弾しようとした家族は殺されてしまった。
そのあまりにも非道な行いに村人たちは決起した。武家の男を捕まえ、私刑をおこなったのだ。そして生まれ変わっても二度と悪事が働けぬようにと手足を切り落とし別々の場所に埋めた。
武家による狼藉はなくなったが、代わりに奇怪な現象が起こるようになった。
川の近くを歩いていると何かに引きずり込まれ、手足をもがれ殺されてしまう。そんな事件が頻発した。それは手足を失った武家の男の仕業だと噂されるようになった。
そして胴体を埋めた場所に塚が立てられ、供養されるようになった。それ以来川に引きずり込まれる怪異は収まり平和になったという。
殺された武家というのが磯井家だったので、その話はいそい様という話として伝わっている。そして今のいそい川は、引きずり込まれる怪異が起きた川の名残という事だった。
「水の怪異……そういう括りで言えば確かに似てるかもしれないけど……いくら何でも関係なんかないだろう。ビーバーだぞ?」
「ビーバーといそい様が似てるって言いたいんじゃないの。千切られていた腕……それが気になって」
「いそい様は水の中に人を引きずり込んで手足をもいでしまう。失った自分の手足の代わりを探しているからだと言われている。それと同じことをビーバーが?」
「ビーバーはいそい川に潜んでいた。そして片岡君は襲われ、腕をもがれてしまった。最初から殺すことが目的だったのなら、腕を千切るだけじゃなく命を奪っていたはず。ビーバーは腕だけを奪って、用が済んだから片岡君をそのまま放置していた……いそい様の伝承でもいたでしょう? 脚を失ったけど生きていた人が」
「ああ、確かにそんな人がいたような……くそ、はっきりとは思い出せないが」
いそい様の犠牲者となったものの中には生き残った者もいた。そのうちの一人は脚をもがれたがなんとか逃げることに成功し、下流の川に流れついて助かっている。そして川の中で髪を振り乱した男の姿を見たという話から、武家の男の祟りだという話に繋がったのだという。
朝比奈の言うように、右腕を失った片岡はいそい様に襲われた生き残りと似ていなくはない。ひょっとすると片岡も一旦いそい川に引きずり込まれたが、右腕を千切られた後に自力で這い上がり車の近くにまで逃げようとしたのかもしれない。
「だがそれが類似することだったとして……何を意味するんだ? ビーバーといそい様には何の関係もない。たまたまいそい川にビーバーが隠れているというだけの話だ。ビーバーが律義にいそい様の伝承を再現する必要なんかない」
「でも……言うじゃない。怪異は伝染するって」
「それは……フィクションの世界の話だろう? 面白おかしくするために言ってるだけの事だ。だけどつまり、朝比奈はこういいたいのか? 蘇ったビーバーの悪霊が、いそい川の伝承に感染して、伝承のように人を襲い失われた手足を集めてるって?」
「そう……そうよね。ごめんなさい。突飛すぎる話よね。津幡さんみたいね、これじゃ……」
「片岡の右腕がなかったのは……単純にビーバーに襲われたからだろう? 体をかばおうとして腕をやられてしまった……それだけの話じゃないか? それに結局、片岡は……首を食い千切られて死んでしまった。それは伝承とは違う事だ」
「そう……そうよね。ごめんなさい、変なことを言ってしまって」
朝比奈は額を押さえ俯いた。大分弱気になってしまっているようだった。いつもの朝比奈らしくない。
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