血気の魔女と不死の騎士
吉野茉莉
第1話
鬱蒼と茂る森を騎士は見つめていた。人間の目では先に何が潜んでいるか一向に見えない。黒い存在がこちらを見返している気がして、不意をつかれて取り込まれるのではないかと彼はぞっとする。
帯刀した騎士剣を握りしめる。
死の最前線。
人間に許された死と生の境界線。
森の先に人間が踏み入れることはできない。
「異常はないか」
「今のところ」
彼は二回りは年上の傭兵に声をかける。
大男の深く皺が刻まれた頬が彼に見えた。傭兵は騎士に比べれば簡素な服を着ていた。街で見る一般的な服とさほど違いはない。
戦線は一進一退を繰り返し、騎士は減少の一途を辿っていた。
それを補填するため、急募の志願兵をかき集め、しまいには得体の知れない傭兵までも雇うようになっていた。
今や騎士は彼一人しかいない。
「連中、今日は動かないんじゃないですかね」
傭兵の呑気な言葉に、彼は頭を振った。
「油断はできない。何しろ相手は人外だ。目も利く」
彼らが直面している敵は同じ人間ではなかった。多種多様な魔物の群れだ。力は強く、動きは速く、炎や酸を吐く、統率された集団だった。
数十年、数百年、小競り合いを起こし続け、領土を奪い合い、数度の大規模戦を繰り返している。
単体では人間が敵う要素はなかった。人間側にある有利な点は人数と多少の知恵だけだった。
ヒョウ、と空で何かが鳴いた。
傭兵が地面に置いてある弓を持ち立ち上がる。
「いや、鳥だ。敵襲ではない」
「そうですかい」
安堵の顔をして、傭兵が火のそばに腰を下ろし直す。
「旦那、噂を耳にしたんですが」
「何だ」
恐怖を紛らわすためか、傭兵は騎士に話しかける。
「この国の騎士は『不死の騎士』と呼ばれているそうですね。何でも魔女の加護を受けているとか」
「そうだ」
「それは、名誉の話ですかい?」
「いいや、事実だ」
騎士は、革手袋を外し、右手で持つ剣の先に左手の人差し指を這わせた。表情を変えることなく、指から鮮血がこぼれ落ちる。
「何を」
「見ていろ」
騎士が空に向け、太陽にかざす。
傷口が塞がれ、出血も止まった。
騎士はこともなげに言う。
「我々騎士は、首を刎ねらなければ死なない。回復には時間がかかるが、骨が折られても、肉が抉られても、たとえ幾千の槍で突かれたとしても、死ぬことはない」
「痛みは」
「当然ある。慣れる者もいるが、苦痛がなくなるわけではない」
「まるで地獄だ」
「何を言う。この世は元から地獄だ」
率直な感想を漏らした傭兵に、騎士は吐き捨てる。
「所詮騎士は国の所有物だ。民の剣であり、盾だ。傷がつけば使えるように直されて、また戦地へと送られる。もはや騎士は、人間ではない。むしろ森(もり)奥(おく)の化け物どもと仲良くできるかもしれん」
自嘲気味に騎士は言う。
「ただ旦那には大義がありましょう、国民を守り、正義を完遂するという大義が。しかし、我々にはそういった大仰なものはありません。敵を殺した数を銀貨に換え、日々を凌ぐ露にするだけです。我々は矢です。落ちていたら再利用する、折れていれば捨てる、戦記に名を残すこともなく、記されるのは散っていった数だけです」
「ならばその弓を鍬に替え、畑を耕せば良いだろう」
騎士の言葉に、傭兵は、わかりきったことでしょう、とでも言いたげに笑った。
どの国でも、飢えるものが増えている。
騎士の国でも例外ではなかった。
だからこそ、森林地帯の資源開拓は死活問題だった。
人間が生き残るための選択肢はもう他になかった。
「『敵』の大将ですが」
「ああ、『魔女』か」
その容姿は長く髪を伸ばした少女だと報告書には書かれている。その情報は国民には知らされてはいないものの、兵士達の間では周知の話だった。
「旦那は知っているんですか?」
騎士は問われ、もう一度空を仰いだ。
「知っているとも。魔女は私に奇跡を与えた張本人だ」
「顔を上げて」
透き通る声で騎士に語りかける。
魔女と騎士以外は誰もいない。
「はい」
跪いていた騎士は、その姿勢のまま魔女を見据える。
彼が魔女と顔を合わせるのは初めてだった。
魔女は腰まである黒髪と深い色の黒い瞳を持つこの世界では珍しい姿をしていた。この世界では貴重な白い絹の衣服をまとい、その白い肌との境目を曖昧にしていた。
それらを除けば街にいる少女と何も変わらない。
「若いのね」
「十四になります」
人材不足のこの国でも、彼ほど若い騎士はいない。騎士になるためには宣誓だけでなく、実績が必要なのだ。彼は異例の早さで騎士まで上り詰めた。
「私と同じ」
魔女に年齢があるのか、と騎士は思った。
魔女は別世界から呼ばれた、高次の存在であると言われている。
その世界がどのようになっているのか、彼は知らない。
知ったとしてもどうしようもない。
「両親は?」
「先の戦で、魔物に殺されました」
「そう、辛かったのね」
「いいえ、それが彼らの使命です」
真っ直ぐな瞳で騎士は見られて、顔を逸らしたくなってしまった。
「大礼の儀を行います。こちらへ」
神の招きに従い、騎士は彼女の傍まで歩み寄る。
「質問があります」
神は騎士を見下ろしながら、微笑む。
「貴方は何のために戦うの?」
「国のため、民のため、我ら騎士団のため、正義のため」
淀みなく騎士は答えた。
「憎しみではなくて?」
「違います。血のためではありません」
おかしい、と彼は思った。
先輩の騎士から儀式については十分に教えられている。
必要以上の会話をするなどとは聞いていない。
彼らが口をつぐんでいた可能性もある。
もしこの質問にさきほどの答え以外を口にしていたとするなら、騎士にとって恥ずべきことだ。私怨で戦うなどもってのほかなのである。
「よろしい。皿を」
彼は事前に言われていた通り、横に置かれていた銀の皿を持ち、恭しく掲げる。
彼女は台にあった細身の銀ナイフを、左手首に当てる。
手首は赤い線を描き、そこから赤い血が滴り落ちる。
血はぽたぽたと皿へと移される。
「良き世界になりますように」
「良き世界になりますように」
簡単な儀式を終える。
「飲みなさい」
「はい」
彼は皿を下ろし、口元まで運ぶ。
彼の口の中に、この世のどんな飲み物よりも濃く甘い味が広がった。
「魔女がなぜ」
傭兵が質問をする。
「我々にはあずかり知らぬ。どちらにせよ今は反逆者だ。もし相対することがあれば迷わず首を刎ねろ。騎士と同じ魔法がかかっている、それ以外では死なん」
「厄介ですね」
ヒョウと空で音がした。
「また鳥ですか」
「そうだろう」
二人が空を見上げる。雲一つない快晴だ。
低い位置にある太陽を中心にして、鳥がぐるぐると回っている。
「いや、待て」
騎士が声を上げた。
一羽が旋回しているだけに見えた空から、重なるように耳をふさぎたくなるほどの鳴き声が響きだした。一羽、また一羽と数を増やしていき、見る見るうちに数百羽が空を覆い尽くしていく。
さすがに異常を感じ始めた他の兵士達も空に注目していく。
気の早いものは弓を構えていた。
太陽を隠し、大量の鳥の影ができる。
世界が薄暗くなっていく。
バサバサと一際大きな羽ばたきが聞こえ、それから咆哮が鳴り響く。
鳥達が命令を受けたように、塊となって森側へ飛んでいく。
「なんてことだ」
鳥がいなくなり、また太陽が地面を照らすかと誰しもが思ったが、光は戻らなかった。太陽がなくなってしまったのだ。
彼らの目に映ったのは、太陽よりも大きく、金色に輝く月だった。
鳥の点の代わりには、小さな光が煌めいていた。
騎士は長らく流していなかった汗が額を通るのを感じた。
「魔物の仕業に違いない! 気をしっかり持て!」
鼓膜を破くような低い咆哮が近くで聞こえた。
森側の空からやってきのは、竜だ。
騎士剣も通らない褐色の鱗に覆われ、人間を消し炭にする烈火を吐き、鳥よりも速く空を駆ける、この世界の生物の頂点に君臨している。
人の味方ではなかったが、森の魔物達の味方でもなかった。逆鱗にさえ触れなければ、人間が襲われることなかった。
この状況で、竜が出てきたことは偶然だと言えない。
彼らは必然、竜が魔物側に与したと考えた。
人間たちの一人が、竜の背に乗る物体を目視した。
「魔女だ!」
声が届いたのか、竜はゆっくりと下りてくる。木々の頭よりも低いところまで下りて、はっきりと騎士にも姿を認めることができた。
黒い髪と黒い瞳を持つかつての彼の魔女。魔女は黒に染められた服をはためかせて竜に乗っていた。
優しい声で、魔女は彼に言う。
「久しぶりね」
黒の背景に浮かんだ巨大な満月を背にして、竜に乗った魔女は騎士を見下ろす。
「なぜ我々を裏切った!」
「裏切ってはいません」
「何を! 現に魔物の味方など!」
「いいえ、私は魔物の味方をしているわけではありません。貴方達の敵ではありません。この竜も同じです。私の意志に共鳴して力を貸してくれているだけです」
「戯れ言を。弓を! 矢を放て!」
騎士の号令で、立ち向かう気力の残っていた幾人が弓を引いた。
矢は最初こそ勢いが良かったものの、すぐに彼らと魔女の間にある、何かの壁に当たったかのように失速して落ちた。
「どうするつもりです。我々をその竜の吐息で焼き尽くすつもりですか」
ふるふると魔女は首を振った。
「いいえ、それも無益なことです。元よりこの戦いに義はどこにもありません」
清流のような声で魔女が言う。
「では何のために」
「一つお願いをするために来ました」
しん、と空気が凍る。
「休戦をしましょう」
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