第七章

第31話

 休みの日の朝ということもあり、寮の食堂には人がまばらだった。

 三日前の大騒動など知ったことか、とでもいうような穏やかな朝だった。朝日がこれでもかというほど、水面を輝かせている。宝石を海に溶かしたらこんなふうになるのかも、なんてセンチメンタルなことをつばめが感じるほどに、あらゆるものがきらきらと輝く朝だった。

 陣が海を望むカウンターに座ったので、つばめもそれに倣う。

「朝っぱらから呼び出しやがって。ったく」

「まだ事情聴取やるなんてね……」

 つばめはクロワッサンをかじりながら、牛乳を一口飲んだ。隣の大男は「さっさと退学にしちまえよ」と言って、カツ丼をかき込んだ。朝九時から揚げ物と米を丼で摂取できるその胃袋に感心しつつ、つばめはサラダに手を伸ばす。

 あれから、事件の全容が明らかになりつつあった。まず、恭介の作り上げたシステムは、質屋という実体を伴わないものだったということ。つまり実際の品物は一つも実在せず、サイトに表示された品物も架空の商品だったらしい。要は、お金――ポイントが運営と仮屋の間を移動していただけ、ということだ。

 賭けのシステムとしては、よく考えられていた。彼らが賭けていたのは、万引きが成功するか否かだけではなかった。三つの店舗それぞれで、商品のジャンルごとに、店内の位置や大きさといった盗みやすさに応じたオッズが細かく指定されていたのだ。だが実際は宝くじも顔負けの還元率で、プレイヤーが配当を得られることはほとんどなかったという。

「現ナマじゃないってとこが、ここまでエスカレートした原因かもな。スマホ一つで、大量の金額を行き来させられる。金を失う実感も感じづらく、自制心も働かなかったんだろう」

「実際さ……どのくらいの額だったんだろう」

「サイトの商品から見て、一口およそ一万ってとこか。運営のやつらは十人くらいいたし、ジジイの話しぶりからして、少なくとも毎月二十万ポイントは恭介の懐に入っていたんじゃないか」

「二十万……」

 つばめは絶句した。一体、佐倉堂で何時間働けばいいのか。一日で二十万を荒稼ぎするなんてことは、つばめの想像力の範疇を軽く超えていた。

「でもさ、そのお金って、運営の人たちの、お母さんとお父さんから出てるわけでしょ? おかしいとか思わなかったのかな」

「金銭感覚が違うんだろう。あいつらにとっての千円が、おれたちにとっての十円みたいなもんなんだよ。いくら仕送りがあるかは知らないが、月数万なんてその中のほんの一部、はした金もいいとこだろう」

「そうかあ……」

 つばめと違い、陣は明らかにお金持ちの側なのに、さらっとそんなことを言う。だがそんなセリフに違和感を感じないほど陣の生活は質素だったから、つばめもつい納得してしまった。

「それより、恭介のやつ。稼いだ分は仲良く折半かと思いきや、ポイントはほとんど仮屋玲香に送金していたらしい」

 恭介が仮屋にのめり込んでいたというのは、つばめにとっては少し意外だった。とはいえ、佐久間や花村が仮屋に尽くしていたことも考えると、人にそうさせる魅力のある人なのか、とも思う。

 仮屋玲香という人物を追って、最終的に黒幕を暴き問題を解決したというのに、その仮屋本人とは未だに会えずじまいだった。それが不思議だと言うと、陣が箸をおいて手を合わせてから言った。

「良かったな。お待ちかねの仮屋と会えるぞ」

「どういうこと?」

「すべての始まりが仮屋みたいなところがあったからな。仮屋も今日、学校側から事情を聞かれるそうだ。そこにおれたちにも立ち会ってほしいと」

「そうなんだ……」

「仮屋玲香にも一言文句言ってやんなきゃ気が済まねえからな。早くしろ、バスが十分後に出る」

 いつの間にか陣は、米粒一つ残さず完食していた。すっかりいつものせっかちが戻ってきたことに安心しながら、つばめはその背中を追いかけようと立ち上がった。

「佐久間さんは大丈夫かな」

「さあな。昨日はおれたちとは別の部屋で話を聞かれていたらしいが」

 水分をこれでもかと含んだ夏の空気が、寮を出た途端に体を包む。バスの揺れに身を任せながら、がらんとした車内から、窓の外を眺める。

 陣とつばめが離れて動いている間に、佐久間は島に戻ってきていたらしい。というのも、催事の日に突然姿を消したのも、腹痛を理由に本土へ戻ったのも、恭介の指令だったという。

「おれが大声で佐久間さんを呼んでたから……おれたちが万引きの件で動いているって知ったんだ。ダメ押しは、おれたちがチラシを持ってたからだろうけど」

「あのとき、お前転んだよな。恭介に足ひっかけられたんじゃないのか?」

「ええっ?」

 つばめは鳥肌が立った。あの時の痛みを思い出して、いまはすっかり肌の一部となった肘を抱ようにさすった。それを見て、なぜか陣が「クソが」と悪態をつく。

「恭介さんが直に、佐久間さんに指示してたんだね。いつどこで万引きするかって」

「そう。だが佐倉堂での万引きが失敗した後は、念のため佐久間を切り捨てるつもりだったらしい。だから今回、花村を使ったんだろう」

 恭介のスマホからは、佐久間へ送ったメッセージが消去されずに残っていた。学園が支配する島という特殊な環境下で、今回の件では警察と学園の両方が動いていたが、まだ被害届を出されていないこともあり、基本的には学園が主導して調査にあたっていた。だが事件の悪質性が明らかになっていくにつれ、警察の管轄に移り、メッセージアプリが解析されるのも時間の問題だっただろう。恭介が大人しく証拠を出したのは、それがわかっていたのかもしれない。

「そう言えば、花村はどうして脅しに応じたんだ? あいつも仮屋にねだられてネックレスでもくすねたのか」

「ええ! それは違うと思うけど……」

 一応断ってから、つばめは昨日、モモとあったときのことを思いだした。

『花村がゆすられた原因はね、もういいの。今回の件とは関係ないから』

 ひととおり話し合った後、モモが最後に言った。でもどこか明るいその顔を見て、つばめはなんとなく想像がついていたから、なにも言わずに了承した。だから「花村さんに関しては、心配ないと思う」とだけ言った。

 話しているうちに、指定された本館に到着した。そう言えば運営委員会が根城にしていたのもこの本館だったと、つばめはガラス張りのエレベーターに乗りながら思った。三か月近く前の出来事が、やけに遠い出来事に感じる。

 昨日と同じ階で降りると、神経質そうな顔をさらに険しくした教師が待ち構えていた。つばめたちは導かれるまま、その中の一室に入った。

「あ……」

 最初に目に入ったのは、制服を着た一人の女子生徒だった。おそらく教頭の一人(なんとこの学園には、教師の数も多く、教頭は三人もいるのだ)と思われる中年女性と、机を挟んで向き合うように座っている。周りには、これまた眉間にしわを寄せた教師が数人、なにやらせわしなく動いていた。

「仮屋さん。あなたは毎月十万円以上ものポイントを受けとっていますね。それについて、罪悪感や違和感は感じなかったのですか」

仮屋。この人が、仮屋玲香なのか――つばめは彼女の顔を見た瞬間、心の中で嘆息した。チラシという表面でしか見たことがなかった仮屋玲香、それがようやく三次元の、骨や肉を持つ一人の人間として感知できたことへの、新鮮な感覚がそうさせた。仮屋が顔を上げ、つばめと陣をそのアーモンドアイに移す。

 つやつやの髪には天使の輪。うつむいた顔には小さなパーツがお行儀よく並び、困ったように指で唇を触れていた。十人いれば十人が彼女を可愛いと言うだろう。だがこの人が、つばめの出会ったたくさんの人を不幸にしてきたのかと思うと、つばめの顔は意図せずこわばる。

「近衛くんに、お小遣いを使いきれないからと言われて……その……」

 想像より、甘やかな声だった。鈴を転がしたときのような、聞くものの庇護欲をそそりそうな声。だが教頭はさらに続ける。

「あなたは知っていましたか。この万引きの仕組みを」

「いえ……全然、」

「貰ったポイントは、なにに使っていたの?」

 仮屋は口ごもった。どうやら個人アカウントによる取引履歴は、プライバシーの観点から、学校側も明らかにはできないらしい。だがつばめも陣も知っている。彼女が佐久間や花村にしてきたことを。つばめはこぶしをぎゅっと握った。そのとき、陣がどか、と隣の机に腰かけた。

「コーチだのサマンサだのフルラだの、多すぎて覚えてないんじゃねえか?」

「……!」

「毎日外食三昧だったらしいなあ。天から降ってきた金で食う飯は美味かったか?」

 仮屋が動揺したような顔で陣を見た。それから困惑しきったように、わかりやすく目を泳がせた。

「近衛くん、それどういうこと?」

「そのまんまですよ。ブランド物に目がない、ただの浪費家。恭介はこの女の顔に惚れて、この女は恭介の金に惚れて、ゴミ同士お似合いのカップルだったってだけの話だ」

 遠慮を知らない陣の剛速球が、仮屋めがけて飛んでいく。仮屋が唇をかんだ。信じられないようなものを見る目は、みるみるうちに潤み始める。それから「そんな、ひどい……」とつぶやいた。だが「私はいま、傷つきました」とでも言いたげな態度は、陣をより苛つかせたようだった。

 このままでは陣がとんでもない暴言を吐きそうだったので、つばめは慌てて陣をなだめ、それから静かに問いかける。

「でも実際、毎月二十万近くの金額を受けとることもあったんですよね。それをなんの疑問も持たずに受け取るんですか?」

「そうですけど……私からポイントをせびったことなんて一度もありません。確かに大きな額だったかもしれませんけど……ねだったとか、おどしたとか、そんなことはしていません」

 上目づかいで媚びるように、仮屋が訴える。だがつばめは、絶妙に噛み合わない返答にむずがゆさを感じた。言葉通り、嚙み合わない歯車を、必死で噛み合わせようとしているような焦燥感に身を捩る。

「万引きをさせて、それをネタに賭けをし、それで得たお金があなたの懐に入っていたのよ。それについて、あなたはどう思うの」

 つばめの疑問を心得たような教頭の問いかけは、穏やかだが鋭い。喉元に突きつけられた問いに、仮屋はしかし同じことを繰り返した。

「万引きはもちろん悪いことです。それはそうです。でも、私自身は何にもしていないんです! だって、知らなかったんです。なのにどうして、こんな知らない人に怒られなきゃならないんですか」

 彼女は自分が今、どうしてこんな状況に置かれているか、本気で理解できていないようだった。つばめは悲しみや怒りよりも、毒気が抜かれて唖然とした。彼女はこの件において、一貫して被害者のスタンスでいる。どうしてこんなことになったのか、理解すらしようとしない。ましてや反省など微塵も感じられなかった。

「自分はお金をもらっていただけで、悪いことはしていないってことですか?」

「それは……まあ、簡単に言うとそういうことです」

 議論は平行線をたどった。それから仮屋は自分の主張を譲らなかったし、佐久間や花村への言動も否定した。もちろん、今回の事件には無関係だとも言い張った。どんなに倫理的な観点から仮屋に問いかけても、知らぬ存ぜぬで通した。知らなかったのだから仕方ない。自分はなにも悪くない。仮屋はつばめたちの質問に、正面から受け止めることを拒み続けた。

 花村の言葉を思い出す。彼女は、犯罪に加担する人間じゃない――だが、見て見ぬふりはできる人間なのだ。目先の利益のためなら、思考停止できる人間なのだ。だからこそ、花村と別れて、恭介と付き合うという選択ができたのだろう。

 つばめは諦観をもって、それでも最後に仮屋に問うた。

「……佐久間さんは」

「え……」

 その名前に、仮屋は少し、ばつの悪い顔になった。

「佐久間さんはあなたと、付き合ってもらうために万引きをしたんです。それがこの事件の始まりでした。彼に対して、なにか伝える言葉はありますか」

「……特に、ありません。私は彼になにもしていませんから」

「佐久間さんが万引きをしたことをあなたは知っていて、それを恭介さんに伝えたんじゃないんですか?」

「そんなこと、してません」

 言った言わないの水掛け論。だが証拠がない以上、つばめは引き下がざるを得なかった。それまで黙ってやり取りを聞いていた陣が、おもむろに立ち上がる。

「あんたは、運がなかったんだ」

 陣が鼻で笑いながら言った。

「そうだ。あんたが金の亡者でなければ」

「……」

「労せず大金を平気で受け取るような、乞食のような神経の持ち主でなければ」

「……っ」

「人にものをねだることに少しでも抵抗を感じる良心があれば。都合の悪いことから目を逸らし続けられるほど図太くなければ。寄生虫みたいな生き方にノーと言える人間性であれば。こんな事件は起きなかったんだろうな」

 仮屋が絶句した。真正面からプライドをズタズタにされることに慣れておらず、混乱しているように見えた。だが陣は容赦なく追い打ちをかける。

「なにより、ミスコンとかいうバカみたいなイベントに、嬉々として出場するような人間でなければな」

 最後のセリフは多少乱暴だったが、それに対しては、誰もなにも、教師でさえフォローしなかった。

「そんなあんたを、誰一人、正してくれる人はいなかったんだ。無理やりにでも、あるべき道に引き戻してくれるやつがいなかった。……あんたは運がなかった。それだけだ」

 そしてその言葉をもって、仮屋への事情聴取は終わった。

 結局、仮屋は自分の非をまったくもって認めなかった。とはいえ、仮屋が佐久間への脅しに関与している証拠もない。実際に自分の独断だったという恭介の証言とも一致したことで、万引きに関してはお咎めなしとなった。疑わしきは罰せず。だが大金を毎月受け取っていたという事実により、おそらく停学処分にはなるだろうとのことだった。

「佐久間さんや花村さんは、あの人のどこに惚れたんだろう」

 帰り際、やりきれない思いを抱えながら、つばめはついそんな言葉をこぼした。

「知るか」

 夏本番を迎えた太陽。つばめはじくじくと疼くような暑さに身を任せる。

「恭介も、あの女も、運営の奴らも、本気で自分が悪かったなんて思ってやしない。自分が悪いことをしている自覚がないから、こんなことができるわけで」

「そうかあ……」

「他人を変えることはできない。それでもダメなことはダメだと、言い続けるしかない。言い続けた結果、あいつらは処分される。それでいい。おれたちの役目は終わったんだ」

 達観したように陣が言う。大きく伸びをしたその手で、つばめの背中を、どん、と叩く。

「いたっ」

「昼飯どうする。学食か? それともどっか食いに行くか」

「え⁉ さっきカツ丼食べたばっかじゃん」

「バイト前に食っとかないと腹減るだろ」

「まあ、そうだけど」

「てかお前やせすぎ、食わねえからチビなんだよ」

「ううむ……」

「早く決めろ」

「じゃあ、和食が良いな。ショッピングエリアにレストランあったよね?」

「和食か。なに喰うんだ?」

「うーん、決めてない」

「なんだそれ」

「陣は?」

「そうだな……アジフライとか」

「揚げ物ばっか!」

「うるせえな。別にいいだろ」

「じゃあ、おれもアジフライにしよう」

「マネすんな」

「いいじゃん。許してよ」

「……バス、乗るか?」

「うん。これじゃ蒸発しちゃいそう」

「つばめ」

「なに?」

 耳元に響いた五音を、つばめは心に刻みつけた。

 陣はいつも、つばめの心にアポなしで立ち入ってくる。そしてそこに散らかっているゴミを、勝手にぽいぽいとごみ箱に捨ててしまう。ときに掃除機をかけ、水拭きし、つばめがそれを呆然と見ている間に、ゴミは跡形もなく、ピカピカになっているのだ。

 三角巾とエプロンとゴム手袋を装着し、バケツと雑巾を持っている陣を想像して、つばめの口からふふ、と笑いが漏れた。

 人気のないキャンパスの道を、二人で行く。一定のリズムで、でも時折早足になったりする陣の独特な歩き方に振り回されるのが楽しい。

 夏の風に背中を押される。つばめはいつもより広い歩幅で、バス停めがけて駆け出した。

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