第18話

 それから三日後の放課後。

 花冷えならぬ梅雨冷えとでも言いたくなるような肌寒い日、美術棟の一室で、つばめはモモと向かい合っていた。

 正確に言えば、つばめを見ているのはモモだけではない。十数人の美術部員に囲まれて、教室の真ん中で、さらに上半身を裸に剥かれて、つばめは立ち尽くしていた。どうして自分は今、こんなことをしているのか――人の視線を集めることに慣れていないつばめは、思わず頭を掻いた。

「動かないでって言ったでしょ!」

 正面のモモが、すかさず指摘する。素人にいささか厳しすぎはしないか――そう思いながらも、素直に「はい!」と答え、指定されたポーズに戻る。

 鉛筆を滑らす音と、神のこすれる音、それから密かな息遣いが混じりあう空間で、立ち続けることおよそ二時間。動かないでいる、ただそれだけのことがこれほど苦痛であるというのを、つばめは身をもって知った。チャイムが鳴り、モモが「じゃあ、今日はここまでにしましょう」と言った途端、どっと疲れが押し寄せる。

「今日は助かったわ。ありがとう」

 部員たちにお辞儀を返しながら、コソコソとシャツを着ていると、後ろからモモが顔を覗き込んできた。

「あ、いえ。別に、暇だったので」

「ホント困ってたのよ。モデルはドタキャンするわ、顧問はインフルエンザでダウンしてるわで」

 時給二千円のバイトしない?――先日の美術の課題を提出しに、放課後、美術棟に訪れていたところ、たまたま廊下で出会ったモモがそう言った。

 お願い! と手を合わせられては、つばめは断れない。ダメもとで佐倉堂に電話してみると、「あ、今日そんなに人が多くないから休みで良いよ~」と、さっくり許可が出た。だが予想外だったのは、その内容が「上半身裸のデッサンモデル」であるということだ。雑用かなにかだと思い込んでいたつばめは面食らったが、もう後には引けなかった。立っているだけで四千円。そう言い聞かせて、本日分の仕事をやり遂げたのだ。

「で、明日も十五時に来てね。お給料は明日、まとめて払うわ」

「わ、わかりました。お願いします……」

 筋肉も付いていないぺらぺらの体で申し訳ないと思いつつ、ぺこりと頭を下げる。モデルなら陣の方が適役だっただろうと、ぼんやり考えた。

「そうだ、つばめ」

 モモは自然と、つばめを呼び捨てにした。その違和感のなさに、つばめも素直に返事をする。

「はい」

「玲香には会えた?」

「えー、いや……じつは、まだなんです」

 仮屋探しは、まったく進展していなかった。つばめがしょんぼりと肩を落とすのを見て、モモは「ちょっと待ってて」と言って、教室内のラックを漁りだした。

「あったあった。すっかり忘れてたんだけどさ」

 手には一枚の紙。どうやらチラシのようだった。

「『第一回碧波学園ミスコン・ミスターコン ファイナリスト決定』……?」

 そう書かれた文字の下に、男女が五人ずつ、それぞれポーズを決めている写真。

「ああっ!」

「そう。それ、一昨年のファイナリストなんだけど、これが私で、その横にいるのが玲香なのよ」

 相変わらず短めのボブカットで、両手にピースを決めるモモ。そしてその右隣――両手を重ね、ひかえめに微笑むセミロングの女子の下に、『一年・仮屋玲香』と書いてあった。

「これが、仮屋さんの顔……」

 金遣いが荒いとか、遊び人だとか、ブランドもの好きとか、そういった前情報とは程遠い印象の女性だった。髪は黒で、完璧な角度の前髪が清楚な印象を与える。さらに白いワンピースからは華奢な手足が覗き、重ねた指はほっそりと長い。つばめは割と派手めで、ワイルドな外見をイメージしていたので驚いた。それを言うと、モモは呆れたように息をついた。

「そういうの、偏見っていうのよ」

「そ、そうですよね! ごめんなさい」

 つばめは顔を赤くした。改めて、玲香の顔を穴が開くほど見つめる。だがそのうち、つばめはかすかな違和感を覚えた。それは想像とは違う見た目だという話でなく、言語化しにくいひっかかり。

 前情報なしで見たら、つばめは真っ先にモモに目が行くだろうと思った。それだけ、仮屋玲香への全体的な印象は淡いのだ。顔は整っているし、可愛らしいことに異議はない。だが正直に言うと、数々の絶賛の割には、なにかが物足りない気がした。この中ならモモが一番魅力的に見えるのは知り合いの欲目だろうか。だがそれを口にすると、逆にモモに不快感を与えかねないと思い、この件に関しては口を閉ざした。

 なにより、この写真には引っかかるところがある――つばめが顔を脳に焼き付けるようにチラシに目を落としていると、モモが「それあげるよ」と言った。

「あ、ありがとうございます!」

「はいはい。それじゃあ明日、絶対遅刻しないでよ」

「了解です」

 片づけするからバイバイ、と教室を追い出される。つばめはチラシを手にしばらく固まっていたが、やがて顔を上げて歩き出す。つばめは迷っていた。この話を陣に伝えるべきか。

(また思い出させちゃうよな)

 だが、黙っているわけにもいかない。それでも、せめて佐久間が返ってくるまでは、あの件については忘れていてほしいとも思う。ぐらぐらと揺れる脳内で、先程までは宝物のように思えたチラシが、冷静になると厄介なシロモノのように思えた。

 答えが出ないまま、気付けば寮に着いていた。ロビーに入った瞬間、つばめの大きな目が陣の後ろ姿を見つけた。オレンジ髪に気づかないことなどできるはずもない。夕方の気配が染み込むロビーのソファ、オーシャンビューの特等席で、ぼんやりと海を見つめている。

 昼間は見向きもしないのに――不思議に思いながら、つばめは後ろから近づいた。月のない夕方の海は、まるで薄墨を垂れ流したかのような暗さだ。背後に立っても気づかない陣にしびれをきらし、つばめはようやく声をかける。

「お兄さん、夕飯は食べました?」

 その瞬間、わかりやすく陣の肩が震えた。

「なんだよ、驚かせんな」

「全然気づかないんだもん」

 ガラスに反射する自分たちを指さしながら、つばめが笑った。陣は伸びをして、ごまかすように質問に答えた。

「飯はまだだ」

 二人は寮の食堂に行った。まだ夕飯どきには早いが、食堂は半分ほど埋まっている。つばめはうどん、陣はカツ丼を頼むと、中央の席に座った。

「陣って、肉ばっかり食べるよね。たまには魚食べたら?」

「魚は嫌いだ」

 きつね色のカツにかぶりつきながら、陣が切り捨てる。こう見るとやっぱりライオンみたいだ。つばめは笑う。

「それじゃあさ、今度バーベキュー行こうよ。知ってる? ショッピングエリアの近くに、バーベキュー場あるの」

「知らね」

「そうだ、陣の誕生日は、おれのおごりでバーベキューにしよう」

「……なんだそれ」

 ぶっきらぼうな口調だが、どこかはずんだ口ぶりだった。そんな雑談の間に、つばめの覚悟も決まっていた。改めて、今日のできごとを最初から話す。

「今日、バイト休んじゃった。美術棟でモモさんに会って、デッサンモデルのバイト頼まれちゃって」

「デッサンモデルう?」

 片まゆを上げ、カツを咀嚼しながら、陣がオウムがえしする。陣はキャベツにソースをかけるタイプか。そんなことに気を取られていると、陣が「なんでそうなったんだよ」と聞いた。

「本来のバイトがバックレたんだって。断れなくてさ」

「ふうん」

「大変だったよ。じっとしてるのってつらいんだね」

「ウロチョロすんのが得意だもんな」

「うん。それに上半身裸でちょっと寒かっ――」

 そこまで言ったところで、「ぶふっ」と陣がむせた。つばめは慌てて「大丈夫⁉」と厚みのある背をさする。水を飲み干した後も、陣の目は落ち着きなく動いている。

「上半身、裸?」

「え? うん」

「な、」

 なんでだよ。と続いた声はトーンダウンしていた。千切りキャベツをぐるぐると箸でかき混ぜているのを不思議に思いながら、つばめは「いや、そういうデッサンだったから」と言う。

「ふん……」

「それでさ、ここからが本題なんだけど」

 つばめは尻ポケットからチラシを取りだして見せた。

「モモさんにもらったんだ。ほら、仮屋さんの顔。やっとわかった」

「仮屋の顔だと?」

 陣の顔つきがみるみるうちに険しくなる。つばめは湧き上がる後悔を押し殺して、身を乗り出して説明した。

「これがモモさんで、その隣が仮屋さん。一年の時だから、顔は少し変わってるかもしれないけど」

「これが……」

 陣の感想を、つばめは妙にどきどきしながら待った。陣は背もたれに体を預け、くちびるを尖らせている。しばらくしてチラシを天に掲げて、透かすように覗き込んだ。

「正直、反応に困るというか」ちら、と横目でつばめを見る。「そこまで特徴がある顔じゃねえな」

 自分とまったく同じ見解だったのに、つばめは驚いた。

「おれも思った。なんだか、想像とは違うというか。なんていうか、パンケーキ想像してたら、フレンチトースト出てきたみたいな」

「なんだそれ」

「モモさんのほうが、グランプリっぽいと思ったんだけどなあ」

「まあ、それは人それぞれだろうが」

 陣が手持無沙汰にチラシをはためかせる。

「花村のロビー活動が功を奏したんじゃないか?」

「花村さんかあ。あれから元気にしてるかな」

「さあな……。とりあえずこの顔を頭に焼き付けておこうぜ。佐久間が帰ってきたら念のため確認する」

「うん」

 二人は完食した後、席を譲る形で早々に食堂を出た。ロビーを通りぬけ、エレベーターを待つ。

「明日、ちょうど三年生を対象に進路説明会があるらしい。大ホールでやるらしいから、どうにか紛れ込んでみようと思うんだが」

「え、その髪で⁉」

 つばめは間髪入れずに突っ込んだ。それでなくても割と陣は有名だったし、そもそも人目を惹くので、三年生に擬態するのは不可能だとつばめは思う。すると眉間のしわを濃くして、陣が口を尖らせた。

「……なら、お前が行って来いよ」

「それ、何時からやるの?」

「二部制で、十五時からと十七時半から。とりあえず入れ替えの時間を狙おうと思ってる」

「オッケー、でも間に合うかな。おれ、明日もデッサンに行かなきゃいけないんだ」

「は?」

 陣が一拍置いて、低い声を出した。

「時間がないから、二日に分けてやるんだって」

「……」

「……?」

陣はまさに、苦虫を嚙みつぶしたような顔で言った。

「……俺も行く」

 驚いたつばめが理由を聞いても、陣は頑として答えることはなかった。陣もモモに会って話をしたいのかもしれない。つばめはそう思うことにして、不貞腐れた顔で立ち止まった陣の背中を、エレベーターへ押しこんだ。

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