第41話

 季節が巡り、四月になった。

 茉鈴は二年生に進級したが、生活に大きな変化は無かった。

 学校の方は単位取得にのみ注力し、講義の出席は最低限だった。

 アルバイトは喜志菫の家庭教師を辞めて以降、新しい生徒を受け持つことなく、業者の登録を抹消した。

 別のアルバイトを始める気にもなれず、仕送りのみで貧しい生活を送っていた。


 喜志家とは縁が切れたはずだったが、菫が不機嫌ながらもアパートを訪れることは度々あった。

 茉鈴は菫と、何かを話すことはなかった。恨まれる理由には納得していた。だから、部屋でひとりの時間を過ごしている菫を、追い出せなかった。

 ただ、菫が三年生に進級できたようで、茉鈴は少し安心した。

 菖蒲の進路については――訊けなかった。菫もまた、話さなかった。


 貧乏生活での唯一の娯楽は、読書だった。

 学校の図書館で、本を借りてくるが――部屋に菫が居ると、居心地が悪かった。茉鈴は菫から逃げ、図書館で読むことにした。

 図書館は静かなうえ、人気も少なかった。グループ用の大きな机を、ひとりで使うことが出来た。春の暖かな陽射しが差し込む場所であり、心地良かった。

 茉鈴はふと視線を感じ、顔を上げると――斜め向かいにある個席の学習机に、ひとりの女性が居た。

 こちらを見ていた彼女と目が合い、心臓が大きく動いたのがわかった。

 一目見て、とても美人だったのだ。だから、つい微笑みかけると、女性は慌てて視線を外した。

 茉鈴は自分のことを、変わり者だと自覚している。きっと、物珍しさで眺めていたのだと思う。そうだとしても、構わなかった。


 それからも、茉鈴は図書館に通った。

 読書の目的よりも、あの女性にもう一度会えないかと、淡い期待を抱いていた。

 再会したのは、二日後だった。

 いや、厳密には再会ではない。互いが二日前と同じ席に座り、存在を認知しただけであった。直接会っていなければ、一言も交わしていない。

 長い髪が綺麗であり、気品ある雰囲気は、まるで女王のようだった。

 年上に見えたのは、茉鈴が彼女に、かつての初恋の相手――喜志菖蒲に似た何かを、少なからず感じていたからであった。


 茉鈴は名前も知らない女性に会うため、図書館に通い続けた。

 女性はいつも同じ席で、何か勉強をしているようだった。偉いなと思いながら、茉鈴もまた同じ席で読書に耽た。

 やはり、直接の接触は無かった。

 だが、静かな空間で言葉が交わらなくとも、茉鈴は彼女との繋がりを確かに感じていた。この距離感であるからこそ、心地良かった。


 変化があったのは、四月が終わろうとした頃だった。

 女性が近づき、茉鈴の向かいの席に立った。


「先輩……いっつも何読んでるんですか?」


 本自体に興味が無い――ただの口実だと、茉鈴は察した。

 しかし、待ち望んでいた瞬間だった。


「しょーもない思想書だよ。時間潰しにはなるね」


 茉鈴は本を閉じ、女性と少し話した。

 女性の口振りから、入学したばかりの一年生のようだ。大人の貫禄があるため、意外だった。


「この学校に入ったら、とりあえず浮かれまくり遊びまくりじゃない?」

「わたしにとって、入試なんてただの通過点なんですよ。卒業後の将来設計プランまで、組んでますから」


 活き活きと話す女性は、希望に溢れていた。

 これからも努力を重ね、間違いなく目標を達成するだろう。茉鈴の目には、より高みを目指す姿が、気高い存在として映っていた。


「へぇ。しっかりしてるね……。私とは正反対だ」


 だから、最も遠い立ち位置に感じた。

 だから、魅力的だった。


「先輩、ぶっちゃけ超暇してますよね? だったら……わたしと『いいことだけ』しません?」


 この時、女性は提案と共に、初めて微笑んだ。

 だが、あまりにも出来すぎた笑顔に――茉鈴は、かつての菖蒲と同じものを感じた。都合よく利用したいがための、上辺だけのものだ。

 それでも構わなかった。いや、それだからこそ都合が良かった。

 本当に薄っぺらい関係を望む。今度こそ、慰める役を振られないほどの。


「私、ちょっと本を返してくるね」


 茉鈴はわざとらしく立ち上がり、人気の全く無い本棚まで歩いた。その後ろを、女性が付いて来た。

 立ち止まり、茉鈴は振り返る。そして、女性の唇に自分のものをそっと重ねた。さらに、舌までを絡めた。

 これが、茉鈴なりの『答え』のつもりだった。女性の提案を受け入れた。


「こんな所で……いけない子だね」

「わたしは、いけない子ですよ。深堀はナシです。だから、これからも『いいことだけ』しましょうね……先輩」


 互いの要求が合致したことが、茉鈴は嬉しかった。女性もまた、満足そうに微笑んでいた。

 茉鈴にとって、久々の出会いだった。菖蒲で痛い目を見ているにも関わらず、不思議と躊躇は無かった。女性に掴まれた手を、振りほどけない感覚だ。

 菖蒲との一件は何がいけなかったのか、何を間違ったのか、茉鈴には未だ具体的ににわからない。

 ただ、距離感だけは注意するつもりだった。互いに踏み込まなければ、あのようなことはもう起きないだろうと思った。


「わたし、外国語学部一年の蓮見玲奈です」

「私は文学部二年の安良岡……安良岡茉鈴」


 レナという響きはまるで外国人のようだと、茉鈴は感じた。

 過去、暇つぶしに読んだ本で、その名の意味が書かれていたと記憶しているが――内容を思い出せなかった。どうでもよかった。


 それから、玲奈と『友達』の付き合いが始まった。

 図書館に逃げ続けたからか、菫のアパートを訪れる頻度は減った。代わりに、玲奈が連絡もなく訪れるようになった。

 大抵は素肌を重ねていたが、行わない日もあった。

 茉鈴が読書をしているところに、玲奈が寄り添う。言葉が交わらなくとも、そうしているだけで、茉鈴にとっては心地よかった。

 玲奈の行動は菫と似ているのに、どうして違うのか、茉鈴にはわからなかった。

 蓮見玲奈という人間に恋をしているからだが――茉鈴は気づかない。

 会う度に、惹かれていた。長く綺麗な髪と、凛とした気高い雰囲気からは、やはり女王のような美しさがあった。


人間ひとはさ……自分が持っていないものに憧れるんだよ」


 五月のある夜、性交を終えた後に、茉鈴はベッドで玲奈の毛髪に触れた。

 そう。所詮は『憧れ』だった。

 叶わないことは、わかっている。自分のような人間が、玲奈に釣り合うわけがない。

 出会った頃は距離感に注意していたが、もはや手の届かない存在に感じていた。だから、自身が僅かな恋心を抱いていることにも、気づかなかった。


「わたしは今の茉鈴の髪型……好きですけど」


 だが、時折見せる、玲奈の中途半端な優しさが――素直に嬉しかった。

 こんな自分を肯定してくれる世界で『ふたり目』の人間に、茉鈴は縋りたかった。


 茉鈴にとって玲奈は、まさに丁度いい存在であった。

 都合よく利用される代わりに、構って貰える。それ以上でも、以下でもない。

 この関係がずっと続けばいいと、茉鈴は願っていた。


「ねぇ。この部屋に、わたし以外の女性おんなも入れてるんですか?」


 しかし、玲奈がそのように訊いてきたのは、六月になってからだった。

 おそらく、菫のことを指しているのだと、茉鈴は察した。

 菫がこの部屋を全く訪れていないわけではない。だが、玲奈と顔を合わせないよう、細心の注意を払ってきたつもりだった。茉鈴の知る限り、ふたりは互いの存在すら認知していないはずだ。

 それでも、玲奈はどういうわけか、菫の存在を察したようだ。


「さぁ……。どうだろうね」


 内心で焦る茉鈴は冷静を装い、答えた。

 性格上、嘘をつけないので、肯定も否定もしなかった。


「ていうか、それ訊いちゃう?」


 そして、苦笑した。かろうじて制止したつもりだった。

 玲奈はそれを理解したのか、深掘りすることなく、その日は帰宅した。


 だが、小さな綻びが次第に大きくなっていくように――一度生まれた疑念から玲奈がそれに至ったのだと、茉鈴は後になって思う。

 図書館で読書に耽けていると、玲奈から屋外に連れ出された。人気の無い所で、向かいあった。


「わたし、茉鈴のことが好きです。セフレじゃなくて、ちゃんと付き合ってください」


 玲奈から、願ってもいなかった気持ちを伝えられた。これは夢ではないのかと、茉鈴は内心で驚いた。

 差し出された手を喜んで取らなければいけないと、頭では理解していた。

 しかし、内から込み上げてきた生理的嫌悪感により――幻滅した。

 そう。茉鈴に自覚は無いが『蛙化現象』が起きたのである。


 蛙化した原因は、ふたつ。

 ひとつ目は、茉鈴にとって玲奈が遠い憧れであったこと。この告白により、玲奈が自分の価値を大きく下げたように感じた。気高き女王のような理想が、崩れ去った。そもそも、女王は謙って告白する立場ではない。

 ふたつ目は、茉鈴が恋愛に対して臆病になっていたこと。喜志菖蒲との一件で感じた無力さを、現在でも引きずっていた。自分の価値が無い以上、玲奈の気持ちに応えたところで、幸せに出来るとは到底思えない。

 主な原因は、後者であった。


「ごめん……。それは出来ない」


 バカな返事をした自覚は、茉鈴にあった。

 だが、正直に答えたつもりだった。


「そうですか。わかりました」


 こうして、蓮美玲奈との関係は、七月を目前に終わりを迎えた。

 二度目の失恋だった。

 茉鈴は、大きな悲しみに打ちひしがれた。

 自宅のベッドで横になって落ち込んでいると、喜志菫が訪れた。


「どうしたん? 振られたん?」


 菫の口振りから、玲奈を知っていたようだった。どのような経緯があったのかはわからないが、最早どうでもよかった。


「お前みたいな奴が、誰かと付き合えるわけないやろ。なーんにも出来へん臆病者のくせに、なに勘違いしてんの?」


 おかしく笑う菫から、茉鈴は現実を突きつけられる。確かに、身の程を弁えていなかったと思う。

 しかし、玲奈との思い出がまだ浅く残っている現在は、受け入れられなかった。

 茉鈴は菫に背中を向けた。


「お前が幸せになる権利なんて、あらへんからな」


 それでも、菫から耳元で囁かれ、力づくで仰向けにされた。

 下卑た笑みを浮かべている菫には、責める権利がある。

 咎められる身である茉鈴は、何も言い返せず――ただ、泣くのを堪えた。


 後日、キャンパスで玲奈を見かけることがあった。

 玲奈は、長い髪を短く切っていた。

 まるで自分の手で切ったかのような罪悪感が、茉鈴に込み上げる。

 だが、それよりも――その姿に、自分という存在を否定された絶望感を与えられた。

 外国語学部の玲奈とは、来年にはキャンパスが分かれる。その未来が待っているからこそ、茉鈴はかろうじて大学生活を送ることが出来た。

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