花ノ宮香恋ルート 第5話 「決断」
――――七月六日 日曜日。午前七時。
「……ふぅ」
洗面所で顔を洗い、鏡の前で一息吐く。
これからオレは、花ノ宮家の当主候補戦で香恋を勝利に導かなければならない。
目下の敵となり得る存在は花ノ宮樹陣営と、花ノ宮有栖陣営。
二人とも、香恋に比べれば数段ランクが上の陣営だろう。
香恋陣営は今のところ、メイドの玲奈とオレ、柳沢楓馬の二人だけ。
資金面は花ノ宮女学院と複数の会社を運営していることから問題は無いと思われるが、武力面に関しては愛莉叔母さん頼りという面がある。
まずは、愛莉叔母さんの支配下から独立し、香恋自身が樹や有栖と対等に並べる地位を築かなければならないな。
あとは人材集めか。香恋の陣営は、人手が足りていないのが一番の弱点だ。
流石に玲奈とオレだけじゃ、これから手が回らないことが多くなるのは必至だろう。
「さて。これからやるべきことが多くなりそうだな。まずは……ん?」
ピンポーンと、チャイムの音が室内に鳴り響く。
そして、パタパタとスリッパの音を鳴らして、ルリカが廊下から顔を出してきた。
「おにぃ、香恋さん、来たみたいだよ?」
「おぉ、そうか。分かった」
タオルで顔を拭いた後、オレは玄関口へと向かう。
ドアを開けると、そこには……喪服を着た香恋と玲奈の姿があった。
「おはよう、柳沢くん」
「あぁ、おはよう……? 何でそんな黒い服着てるんだ?」
「白鷺のお爺様が……昨夜、亡くなられたわ」
香恋は涙を堪えて、オレにそう、言葉を投げてきた。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
……住職が読経を読み上げ、葬儀は恙なく進んで行く。
白鷺の爺さんは、身内というものがいなかった。
だから葬式に来るのは彼に世話になった元任侠者や、花ノ宮家の関係者だけ。
花ノ宮法十郎と共にこの家を大きくした立役者だというのに、葬儀の場には殆ど人は来なかった。
裏社会の人間……という点も関係しているのだろう。
ゴシップを恐れてか、法十郎を含め、樹や有栖などの一族を代表する者は一人も姿を見せず。
彼を見送るために集まった花ノ宮家の親族は、香恋と玲奈、オレだけだった。
「……人って、こんなにもあっけなく亡くなるものなのね」
雲一つない初夏の青空に、煙突から上がった煙が舞って行く。
お寺で葬式が終わった後。山の中にある火葬場で、白鷺龍之介は煙となって空へと舞っていった。
昨日初めて会ったばかりのオレには、爺さんと香恋の間にどんな歴史があったかは知らない。
ただ、香恋の頬を伝う涙の跡が、白鷺龍之介という人物が彼女の中でどれだけ大きな存在であるのかは簡単に察することができた。
「柳沢くん。私ね、家族というものを、愛情を、知らなかったの」
長い黒髪を風に揺らせながら、香恋は空を見上げたままそう呟いた。
オレはそんな彼女の姿を、静かにジッと見つめる。
「私の父親……花ノ宮家礼二郎は、自分の利益を一番に優先する、共感性が欠如した人だった。あの人は、人間を道具にしか思っていないのよ。自分の血が花ノ宮家の当主になれるのなら、より優秀な子を自分の後継者に据える……。私という存在は、父の立場を盤石にさせるためのパーツでしかなかったわ」
「花ノ宮礼二郎……法十郎の息子の長男、か」
確か、長男礼二郎と次男幸太郎は、法十郎の御眼鏡に適うことなく、当主候補者から外されたんだったな。
礼二郎は自身の子供である樹と香恋を当主に据えようと動き、幸太郎は自身の娘である有栖を当主にさせたい。
よくある、後継者問題といった奴か。そこに外様である花ノ宮由紀の息子のオレが当主候補に祀り上げられたら、良い気分がしないのは当然のことだろうな。
オレにとっては、迷惑でしかない話だ。
「柳沢くん。私にはね、義理の姉がいるの。腹違いのね」
「……義理の姉?」
「ええ。名を、花ノ宮なずな。正妻に産ませた私と、京都で作った愛人の子供。幼い頃にIQを精査して、私の方が優秀だと分かった途端、父は愛人の子を捨てたわ。彼にとって、義理の姉は万が一の時のスペアでしかなかったの。酷い話よね。父は、私たち子供をIQでしか見ていなかったのよ」
演技の才が無くなったオレも、ある意味柳沢恭一郎に捨てられたようなものだが……それとは少し、違う話か。
産まれた時から道具扱い。香恋とその義理の姉は、花ノ宮礼二郎という親の元に産まれてしまったからこそ、複雑な運命を辿ってしまったのだろう。
「子供の頃から私には自由が無かった。睡眠時間は平均五時間。トイレと食事以外の時は全部習い事。私は寝る間も惜しんで、徹底して、父からあらゆる習い事をやらされたわ。テストで98点以下を取れば棒で叩かれ、スポーツで成績が落ちれば物置小屋に閉じ込められた。何度も、この生活から逃げ出したいと考えたわ……でも」
「白鷺の爺さんが、支えてくれたんだな」
「……ええ。あの人だけは、家族の愛情に飢えていた私の親代わりになってくれたの。一人で寝るのが怖いと言ったら白鷺のお爺様は一緒に横になって絵本を読んでくれた。勉強の成績が振るわなくて、父に殴られていたら……お爺様は必ず庇ってくれた。あの人だけだったの。あの家の中で、私の……家族になってくれた人は……」
香恋は顔を両手で押さえ、泣き始める。
……愛する人を失うということは、身を裂かれる程、苦しいものだ。
生きるということは失うということ。失う痛みを繰り返し、生を全うするということ。それが人生。
母さんを亡くした時のオレが、舞台の上に上がれなくなってしまった時のように……白鷺龍之介が亡くなったこの一件で、香恋の心の支えは無くなってしまった。
きっとこの先も、彼女の心には消えない傷が残ってしまうのだろう。
孤独な人間ほど、人を失う悲しみは大きいと思うから。
その感情は、誰よりも理解できる。
「香恋」
オレは、香恋の肩を掴むと、自分の胸へと引き寄せた。
香恋はその行動に驚いたものの……すぐに、オレの胸の中でわんわんと泣き始めた。
オレたちは似た者同士だ。親に捨てられ、孤独の中を生き、花ノ宮家の血を引いてしまったせいで自由を奪われた。
こいつは過去のオレそのものだ。
こいつを、泣かしたくはない。こいつを、カゴの外へと出してやりたい。
……父さんも、母さんを救うと決意した時、こんな感情だったのかな。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
盛大に泣いた後、香恋は一言も何も発しなかった。
ただ、彼女はずっとオレの手を握っていた。
背後を歩く玲奈も一切口を開かない。
紅くなった空の下、オレは香恋と手を繋ぎながら、砂利でできた坂道を淡々と下って行く。
山の麓にある駐車場を目指して、静かに歩みを進めていた――――その時。
目の前に、黒服を二人引き連れた、愛莉叔母さんが現れた。
「ドブネズミ。久しぶりねぇ」
「叔母さん」
叔母さん―――花ノ宮愛莉は扇子を振ると、自分の顔に風を送る。
そしてニヤリと、不敵な笑みを浮かべた。
「ドブネズミ。貴方、もう、香恋の傍にいなくても良いわ」
「……は?」
その言葉に、オレは瞠目して驚いてしまう。
愛莉叔母さんはそんなオレを無視して、続けて口を開いた。
「花ノ宮樹を落とす算段が付いたの。私はこれからお父様と連携して、あの
「邪魔って……いきなりすぎやしないですかね?」
「貴方、花ノ宮女学院に通ってないんでしょう? 役者を目指す気もない奴を遊ばせておくほど、私は優しくないわぁ。あのミジンコと一緒に、何処かの別荘に閉じ込めてあげる。事が済んだらまた出してあげるわ。私の小間使いとしてね。クスクスクス」
「ま、待ってください、愛莉叔母さん! 彼は、私と一緒に当主候補戦を戦ってくれると言ってくれたんです!! 何もしていなかったわけでは――――」
「黙りなさい、香恋。柳沢楓馬の飼い主はこの私よ。この男は、貴方のものじゃない」
愛莉叔母さんの鋭い眼光に、香恋はゴクリと唾を飲み込み、怯む。
……厄介だな。この叔母は、一度決めたことは決して覆さない。
オレとルリカを軟禁すると言ったら、本気で実行するだろう。
父に捨てられ、この家に来てからの……長い付き合いだ。
花ノ宮愛莉という人間は、それなりに理解できている。
「クスクスクス。分かったのなら、大人しく身柄を差し出しなさい、ドブネズミ。いつものように、私に反抗せずに従順になりなさ―――」
「悪いが、叔母さん。その命令には背かせてもらう」
オレは香恋を庇うようにして前に出る。
オレのその行動が信じられなかったのか。愛莉叔母さんは唖然とし、ポカンと口を開いた。
「……何を、言っているのかしら? 貴方、自分が言っていることの意味を理解しているの? この私の命令を――――聞かないと言うの?」
「あぁ、そうだ。今までは適当に生きていければ良いと考えていたが……もういい加減、お前ら花ノ宮家に好きにされるのはうんざりだ。オレは、オレの手で香恋を当主にする。もし、叔母さんの手で香恋が当主になったとしても、それはあんたが裏で権力を握るだけのことだろうからな。花ノ宮家は完全に、香恋のものにはならない」
「生意気な!! 今まで誰のおかげでこの家で生きて来られたと思っているの!! あんたも、あんたの妹も、この私が育ててやったのよ!? 歯向かうな、ドブネズミ!! その顔で……私に意見をするな!!」
「それに関しては感謝しているよ。だけど……オレは、今、弱った香恋を一人にすることは絶対にできない。あんたも彼女の親族なら、大事な人を失ったこいつに優しい言葉のひとつくらいかけてやったらどうなんだ? 何でお前たち花ノ宮家の人間は、人の心が分からないんだ? 何故……人を愛することをしないんだ?」
「まさか、飼い犬に手を嚙まれるとはねぇ。……高杉、遠藤。やりなさい。あぁ、絶対に
「御意」「はい」
愛莉叔母さんの背後から、二人の黒服が前に出る。
彼らは以前、花ノ宮女学院に入学する日に、穂乃果に痴漢をしていた男を成敗するために……香恋が呼び出し、連れてきてもらった黒服の男たちだった。
あの時は香恋の命令に従っていたが、彼らの本来の雇い主は愛莉叔母さん、だったということか。
まさかあの時協力してくれた彼らが、敵になろうとはな。
オレは前へと出る。
そして、長身の黒服の男たちを見上げた後、愛莉叔母さんにチラリと視線を送った。
「叔母さん、悪いけど……オレはこれから、出し惜しみはしない」
「はぁ? あんた、何調子乗ってるの? 子供の時に格闘技を習っていただけの素人が……現役で暴力を売りにしているこいつらに勝てるわけが――――」
「オレは今まで、あんたに全力を見せた覚えはない」
地面を蹴り上げる。そして、男の前で跳躍し、オレは―――黒服の顔に回し蹴りを放った。
吹き飛ばされる茶髪の男。その光景を見て、高杉と呼ばれた男が懐から警棒を取り出した。
「お前―――ッ!!」
肩に目掛け、警棒が振り降ろされる。
オレはそれを身体を逸らすことで寸前で回避し、男の腹へと数発拳を叩き込んだ。
「カハッ」と乾いた息を溢す黒服。オレはそんな彼の頭を掴み、砂利の上へと叩きつけた。
その場に残ったのは、意識を失った黒服の二人。
一瞬で自慢のボディーガードを倒された目の前の光景に、愛莉叔母さんは「嘘でしょ」とか細く声を漏らす。
「ド、ドブネズミ、お前……お前、それほどの力を隠して、何故……」
「何故、今まで自分に反旗を翻さなかった、と、言いたいのか? 別に、オレはあんたに土下座を強要されようが暴言を吐かれようが、そんなことはどうでも良かったんだよ。ルリカが暮らせる衣食住さえ整っていれば、何も問題はない。……そうだな。以前、あんたは土下座しているオレにこう言っていたな。『プライドも何も無い、空っぽな人間だからこそ、そんな無様な行為ができるのだ……』と。そうだ。オレには、プライドなんてものは無かった。だけど、今は違う」
一歩、歩みを進める。すると愛莉叔母さんは一歩、後退した。
オレの目を真っ直ぐと見つめる叔母さんの顔は……恐怖で引き攣っていた。
「これからのオレは、自分の道を阻む者には容赦しない。例え相手が、世話になったあんたでも同じことだ」
「妹が……妹がどうなっても良いというの!?」
「このオレに、そんな脅しが通用するとでも思っているのか? 良いか、花ノ宮愛莉。オレの下に付くのなら歓迎を持って受け入れよう。だが、敵対するのなら……お前は今日からオレの敵だ。オレはもう、カゴの中の鳥じゃない。オレはもう、自由だ」
オレは一歩も退かない。オレはお前よりも格上の存在だ―――そう、花ノ宮愛莉に訴える。
オレのその姿を見てギリッと歯を噛み締めると、叔母さんは口を開いた。
「どうやら元の……過去の貴方に戻ったようね、柳沢楓馬。分かっているの? 貴方はこれから、この私の手助け無しで、花ノ宮家の悪鬼たちと戦うというのよ? 花ノ宮礼二郎、花ノ宮幸太郎、花ノ宮樹、花ノ宮有栖……これらを全て相手取ろうとしているのよ?」
「あぁ、そうなるだろうな」
「香恋の後ろ盾だった白鷺龍之介は亡くなった。これで、香恋の敗北は必至の状況となった。香恋の最後の後ろ盾である私がいなくなれば、貴方たちは終わり。誰だって分かる危険な状況だわ」
「悪いが、お前たち花ノ宮家のくだらねぇ争いには懲り懲りなんだ。オレが全員潰して、香恋を当主に据える。それで、このくだらない御家騒動はお終いだ」
オレは踵を返すと、香恋の元へと戻る。
そして彼女の手を握ると、再び坂を下り、歩みを進めて行った。
「……後悔、するわよ」
愛莉叔母さんとすれ違う間際、そう彼女に声を掛けられる。
オレはそんな彼女に、笑みを浮かべた。
「香恋の手を取らない人生の方が、よっぽど後悔するだろうさ」
そう。これは、オレが選んだ人生、オレの戦いだ。
如月楓ではなく、柳沢楓馬として選んだ、オレの戦いだ。
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