第60話 女装男、覚悟を決める。
《月代 茜 視点》
(あ、あれが‥‥如月楓の本当の演技‥‥ってわけ‥‥?)
以前、オーディションの時に見た彼女の演技と、まるでレベルが違う。
楓の演技には、色があった、光があった。見る者を圧倒させる何かがあった。
川辺で水浴びをするジュリエットのその姿は、観客に、現実というものを忘れさせた。
そこに、本物のジュリエットがいるように感じられる。
そこに、本当のアディジェ川があるように感じられる、
演技ひとつで見る者に風景を幻視させるなど、普通の役者にできることではない。
その魔法のような演技は、単なる学生の‥‥それも素人役者がやっていいレベルのものではないことは明らかだった。
(―――――ダメ。このままでは、吞まれる!!)
この劇の主役、主人公のロミオは、あたしだ。
主人公がこのままヒロインに圧倒され、影の存在になってしまえば、この劇は破綻の一途を辿ってしまう。
‥‥‥‥きっと、この演劇を、今、フーマも観客席のどこかで見ているはず。
あいつに‥‥あたしのライバルに、情けない姿なんて見せてはいられない。
あたしはいずれ必ず、柳沢 楓馬と共に芸能界のトップに立つ女だ。
こんなところで、突如現れた意味の分からない怪物なんかに、敗けてなるものか――――――!!
「――――な、何なんだ、あのお美しい御方はっ!! 一瞬、美の女神、アフロディーテ様が降臨されたかと思ったぞっ!!」
あたしは心底驚いた顔を浮かべ、ジュリエットに対して賛辞の言葉を贈る。
これは、アドリブだ。本来、ここでロミオの台詞はない。
冒頭でのアドリブは、演出に混乱を招くから、あまり良くはない手法であるのは役者にとって常識だ。
だが‥‥ここで何も発言せずに次のシーンに移れば、あたしのロミオは、確実にあの子によって端に追いやられることになってしまうだろう。
それだけは、絶対に避けなければならない。
あたしが、この舞台の上で女優で在り続けるためにも。
フーマを、再び役者の道に連れ戻すためにも。
絶対に、あいつの‥‥楓が演じるジュリエットの独壇場には、させない!!
「‥‥‥‥フフッ」
その時だった。
肩越しにチラリとこちらを見上げ―――――ジュリエットは、あたしに、妖艶な微笑みを向けてきた。
その瞬間、ブワッと身体全体に鳥肌が立つのが感じられた。
(‥‥‥‥やばい。やばいやばいやばいやばいやばいやばい‥‥!!!!)
怖い。怖くて、仕方がない。
あれは、もう、あたしが知っている如月楓ではなかった。
彼女の青い瞳を見ていると、まるで深い海を見ているかのような、底の見えない深い大穴を見ているかのような恐ろしい感覚に陥ってしまう。
あれは‥‥脚本の中の絶世の美女を自身の身体に降ろした、楓ではない、
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
ロミオとジュリエットがアディジェ川で出会う冒頭のシーンは終わり、一旦幕が下ろされる。
そしてその後、語り部であるロレンス神父役の‥‥穂乃果のナレーションが入った。
『――――この橋の上で、二人は初めて出逢いました』
『青年は鬱屈とした様子で水面を見詰め、少女はそんな彼を遠くから不思議そうな様子で見つめていた』
『青年が人の気配に驚いて顔を上げたとき、互いの目が深く吸い寄せられ―――時が止まったかのように、ただ静かに、ロミオとジュリエットはお互いの目を見つめ合っていました』
『青年の名はロミオ、少女の名はジュリエット』
『これから始まるのは、けっして叶わぬ恋に落ちてしまった、悲しき恋人たちの物語』
『どうか皆さま、二人の愛の物語を、最後まで見届けてください―――――』
そのナレーションの声を聞きながら、オレは急いで舞台袖へと向かう。
正直言って、今現在、オレは意識を保っているのがギリギリといった状況にあった。
頭はグワングワンするし、視界も歪んでいて、少し、吐き気もする。
久々に集中して、演技に深く潜りすぎたからだろうか。
オレは現在、イップスを発症しかけてた。
「‥‥‥‥あんた‥‥あんたいったい何なの? 本当に素人?」
舞台袖に入ると、茜が真っ先にそう声を掛けてくる。
オレは深呼吸をひとつした後、努めて平静を装いながら茜に対して顔を向け、静かに開口した。
「ええ、勿論、私は素人ですよ。現に、如月楓などという名前の女優を、今まで聞いたことは一度もなかったでしょう?」
「それは‥‥そうだけれど‥‥。あんた程の演技力を持った役者が今まで無名だったなんて、とても信じられないわ。さっきのあんたの演技には、悪魔のような何かが宿っていた」
「ありがとうございます。茜さんにそう言っていただけるだけで、力を出し切った甲斐がありましたよ―――――うぐっ!!」
「!? え、何、ど、どうしたの!? 大丈夫!?」
胸を押さえ、床に膝を付き、ゼェゼェと息を吐くオレの元に近寄ると、茜はおろおろと慌てだす。
「だ、誰か! 先生呼んできて! 楓の様子が何か変よ!」
「わ、わかりました! 今、我妻先生か柳沢先生を呼びに――――」
「だ‥‥大丈夫です! 呼びに行かなくて結構です! 少し休めば、治まりますから!」
オレのその声に、エキストラ役のクラスメイトたちは足を止め、心配そうな顔でこちらを見つめてくる。
オレはそんな彼女たちを安心させるためにニコリと微笑みを浮かべると、再び、茜へと視線を向けた。
「茜さんも、落ち着いてください。私は、大丈夫ですから」
「で、でも‥‥!! あ、あんた、今、すっごく顔色が悪いわよ!? 額から、玉のような汗が吹き出ているし‥‥!!」
ぼやけた視界の中に、茜の心配そうな顔が見える。
そんな彼女の背後に‥‥靄のかかった不気味な黒い影のような姿が浮かんでいるのが分かった。
オレはその黒い影に小さく笑みを浮かべて、大きく息を吐き出した。
「‥‥やっぱり、未だに出てくるんだな‥‥」
「え‥‥?」
「なんでもありません。それよりも‥‥茜さん、そろそろ舞台の方に戻りましょう。穂乃果さんのナレーションが終わったら、すぐに次のシーンに入ります。休んでいる暇などありませんよ」
「な‥‥何を言っているの、貴方! そんな状態で、まともな演技ができるわけが‥‥」
「茜さん、貴方‥‥何か勘違いをしていませんか?」
「‥‥え?」
「私は以前、貴方を奥野坂先輩たちから助けました。ですが、それは、ただ馴れ合いをしたかったからではありません。私は、貴方と共に舞台の上で演技をしたかった。全力を以って、どちらが上かを競い合いたかった。だからこそ、私は貴方を助けたのですよ」
「楓‥‥?」
驚き、目を見開く茜の顔を見つめたまま、オレは立ち上がる。
そして、彼女と至近距離で視線を交差させたまま―――静かに口を開いた。
「この際ですから、はっきりと言いましょう。私は、この舞台で貴方という役者を降し‥‥花ノ宮女学院のトップの女優に名乗り出る予定です。貴方という主役を倒し、如月楓という女優の名を世間に刻む‥‥そのためには、必然、比較対象たる踏み台が必要です。その踏み台は、著名であれば著名であるほど、より効果を発揮することは明白でしょう」
「‥‥ま、まさか、あたしが、その踏み台って、こと‥‥?」
「ええ、そうです。もしや‥‥私を単なるお人好しだとでも思いましたか? 私は本来、他人がいじめられているのを見ても、自分に利益が無けれ無視して通り過ぎる人間ですよ。基本的に、損得勘定で動く性格なんです。ですから‥‥利用させてもらいますよ、新進気鋭の若手俳優、月代茜さん」
そう冷たい声色で言い放つと、何故か茜は身体をブルリと震わせ―――不敵な笑みを浮かべた。
「やっぱり、あんた、フーマにそっくりね。今、何故だか昔の‥‥
「‥‥」
「分かった。あたしはもう、あんたがどうなろうが止めることはしない。あんたはあたしの友達でもなければ、ライバルでもない。あんたは、あたしの‥‥敵よ! 如月楓! ここで叩き潰してあげるわ!」
「ええ、そうしてください。私も全力を以って、この舞台を支配してみせます。――――ですが、貴方如きに私の相手が務まるかは、甚だ疑問ですがね、茜さん」
オレのその言葉に、茜は目をキラキラとさせて‥‥再びブルリと、肩を震わせた。
‥‥これで良い。煽れば煽る程、茜はより実力を発揮し、この舞台をより良いものへと昇華させていく。
そして、今の会話で、彼女はオレの覚悟も理解してくれたことだろう。
オレが気絶してぶっ倒れない限り、こいつはきっと、オレとの戦いを優先させる。
オレのライバルは、そういう、熱い女だ。
「大丈夫? 何やら、騒がしかったみたいだけれど‥‥」
舞台袖に現れた我妻先生が、そう言ってオレたちに声を掛けてくる。
その言葉に、茜は首を横に振った。
「なんでもないです。ね、楓?」
「ええ、そうですね。なんでもありません、我妻先生」
「? そうかい? 何かトラブルがあるなら、いつでも言ってくれて構わないからね?」
「「はい」」
同時に返事をして、互いに顔を見合わせる。
そしてコクリと頷き合うと、オレたちはそのまま舞台へと戻って行った。
―――――花ノ宮女学院に入学してから、1か月。
今まで、本当に、いろいろなことがあった。
憎んでいた父と再会を果たし、その娘、銀城先輩に出逢い、意気消沈したところを穂乃果に支えられて‥‥そして、今はこうして、茜と昔のように演技を競い合おうとしている。
茜は、オレが再び芸能界に戻ることを、強く願ってくれていた。
ずっと一人で、演劇の世界でオレを待っていてくれた。
今のこのオレは、柳沢楓馬ではないが‥‥せめて、如月楓として、彼女のその想いには応えてあげたい。
オレは、今ここで、過去のトラウマを乗り越えて、役者としての自分を取り戻してみせる。
これから、天才子役だった過去の自分を超えるつもりで、全力で、茜と演技をぶつけあっていきたいと思う。
『‥‥楓馬‥‥フウ、マァ‥‥‥‥』
その時だった。
突如、背後にいる黒い影が、掠れた声でオレの名前を呼んできたのが分かった。
あれは、亡くなる寸前の母が、オレを呼んでいた声だ。
あの黒い影の正体は、もうとっくの昔に分かっている。
あれは、オレの中にある母への想い、後悔、恐怖心といったものだ。
オレは、母さんを喜ばせるために、演劇の世界に入った。
柳沢楓馬の演技の影には常に、母、柳沢由紀の姿があった。
だから、演技に深く集中する度に、どうしても母の影を思い出してしまう。
母の死の瞬間を――――鮮明に思い返してしまう。
「‥‥」
人を愛するという行為は、今までのオレにとって、恐怖の対象そのものだった。
人を愛すれば、その人が死ぬ瞬間が、とても恐ろしく感じてしまうから。
だから、オレは、今まで他人に対して、深く踏み込むことはしなかった。
友人を作っても、親友と呼べる存在は絶対に作らなかったし、どんなに可愛い女の子がいても、恋人を作ろうだなんて絶対に思わなかった。
人はいつの日か必ず死ぬ。
だから、他者との関係を深めても無駄だ、傷付くだけだ。
オレは、母のように別れる日が来るのではないかと思うと、怖くて仕方がなかったんだ。
それ故に、愛という言葉を極端に嫌い、オレは今まで他者を遠避けてきた。
だけど―――――オレは、今日、その呪縛から脱却しようと思う。
ジュリエットとしてロミオを全力で愛し、その死にざまを、この目で見届けようと思う。
覚悟を決めた途端、ズキズキと頭がハンマーで殴られたかのように痛くなってきた。
心臓が、早鐘を打つように、激しく脈打っていくのが分かる。
背後にいる黒い影が耳をつんざくような甲高い悲鳴の声を上げ始め、胃酸が逆流してくるような感覚がする。
今すぐ、この場から逃げだしたかった。
こんな地獄ような世界から逃げ出して、再び、役者とは無縁の世界でぼんやりと生きていきたかった。
でも‥‥オレは、もう、逃げない。
再び、この世界で戦っていく。茜に過去を打ち明けた時に、そう、決めた。
「‥‥‥‥柳沢楓馬はこのイップスの野郎にボロボロに敗北したが‥‥‥如月楓を、あまり舐めるんじゃないぞ? オレはもう‥‥いや、私は、もう、前へと進むと決めたんです。休憩はもう、終わりです。再び舞台の上で踊らせてもらいますよ」
ブーッとブザー音が鳴り、再び幕が開いて行く。
オレは観客席に向けて、妖しく微笑みを浮かべながら――――演技の海の中へと、入水していった。
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