シンカタイカ
@huyutki2375
第1話 違和感
視界がゆっくりと開けていく。ゆっくりと開く、という事実によって今まで私が眠っていたのだということを理解する。しかし何だかおかしい、眼前に広がる光景はいつも私が、空虚に目を覚ます、見慣れた場所ではなかった。それは、いやに白い天井だった。そのことに気づいたと同時に、聴覚も視覚に続いて覚醒したのか、機械の規則的な、無機質な音が聞こえてきた。その音の、ただただ、花の花弁を捲り続けるだけのような、終わりの見えない、音から、ここが何処であるのかを理解する。どうやらここは病院の病室らしい。ん、病室で私が寝ているということは、私は何処かを怪我しているのか、それとも何かを患っているのか。自身の体を起こしあげようとするとその答えは出た。右腕、胸が、胸骨が痛むのが分かった。少々厳しい体勢だが、頭だけを動かし、自分の体の状態を確認する。右腕にギプス。胸にもギプスが固定されている。左腕でゆっくりと体を起こす。今まで気付かなかったが、自分が酸素吸入機をつけているのだと気づく。なるほど、私は眠りと言ってもだいぶ深い眠りについていたようだ。しかし意識が覚醒したのだ。ただ、煩わしいだけなので外す、そして少し深呼吸をする。胸が固定されていて、骨が当たって少し痛みを感じた。さて、何処から整理すべきだ。まあそれは、自分の中では明白なのだが。これだけ怪我をしているというのに、当の自分が原因を理解できていない。しかしこの事実で幾らか予想が立つ。自分の名前や年齢、職業は理解できる。つまり限定的に記憶がない。おそらく、怪我をした時の記憶がないのではないか。頭部に強い衝撃を受けたのか、そう考えて、自身の頭部を触ってみる。すると案の定、頭部に包帯が巻かれている。ん、包帯、体に比べ頭上の固定が甘い。つまり頭は比較的軽傷ということか。しかしあくまで比較的でそう軽いものではない。背もたれに寄りかかろうとゆっくりと体をベッドの背もたれに近づける。するとその途端、カーテンで遮ぎられて、不確かなその先から、スライド式のドアが、無骨に開かれる音がした。そしてスリッパの踵の部分が地面に打ち付けられる音がする。一瀉千里の足音が近づいてくる。その足取りに敵意すら感じる。少し身構えて、ある事を、時間と時間の隙間、刹那のうちに思いついた。少しばかり無茶をして、病院用のベッドの手すりにつかまり、前のめりになった。胸と右腕が痛む。しかしそれと引き換えにしても、迫り来る足音に身の危険を感じた、故に先手必勝、カーテンを開けられる前に自身で開けた。すると足早に近づいてきていた相手は、不意をつかれて、つんのめるように立ち止まった。そしてこう言った。
「意識がお戻りになったんですね」
その人は白衣に身を包んだ髪の短い、若い女性の看護師だった。目は少し切れ長で、鼻筋が通って大人しい唇、凛とした印象を受ける。しかし人が意識を取り戻した反応としてはあまりに薄い。というか、心配する気持ちがあるようでないのだ。いや、これは私の思い過ごしだろう。私の身体の状態はともかく、意識の状態はたいして危険な状態ではなかったのだろう。私が黙りこくっていると看護師は続けてこう言った。
「西海歩(にしうみあゆむ)さんはお身体の状態からして2ヶ月以上は入院はやむをえません。どうかご理解の程をよろしくお願いします」
「あ、はい」
軽く返事をした。しかし何だろうか、この違和感。私は意識がない状態だったのだろう。意識を取り戻した人間に対して、冷めすぎている。何というか、健康優良児が一時の風邪を治した時のような、誰も口にはしない暗黙のフランクさを含んでいるようだ。私の思いすごしかもしれないが、気がかりを晴らすために看護師にこう尋ねた。
「私はどのくらい眠っていたのでしょうか」
看護師は少し驚いたような顔をして、次の瞬間、微笑みかけてきて、囁くように言った。
「何も覚えていらっしゃらないのですか」
「え、ええまぁ、はい」
動揺を隠しきれない。明らかにおかしい。この看護師は私の事を少なからず知っているのではないか。先程、私の名前を何も見ずに、ごく自然に当たり前のように何の迷いもなく口にした。最初は看護師として患者の事をある程度知っておく事は、当たり前なのかもしれないと思っていた。しかし、これまでの無関心さとあまりにも矛盾する。そして私が何も覚えていない事を聞いた途端、それまでの表情が一転した。安堵した、というべきなのだろうか、明らかに表情が柔らかくなっている。何か覚えていたらまずい事でもあるのか。というか私はその何かに関わっているのか。目覚めたばかりで気だるい脳みそをおが屑を取り払うように探る。記憶がないということは確証には迫れない。しかし、記憶を失う以前のことが原因で記憶を失うことになったと考えるのが自然だろう。うむ、何か知られたらまずい事...考え至るのは、私の大学での研究テーマとか、他にも人には言えない秘密はいくつかあるが、それは相対的にたいしたことではない。ならばやはり、自殺について。とすれば、私は何かを掴んだのか。いやしかし、それは少し違う気がする。もしそうならば、私が眠っている間にやられているはずだ。では何故。
看護師は何かメモをとった後に、踵を返して、こう言った。
「一週間ですね。とにかく先生に知らせてきますね」
そう言って、ゆっくりとした足取りで部屋を出ていった。その背中からは言いようのない不気味さを感じた。
ふと、思いついたので病室の辺りを見渡してみる。ベッドは私のを含め六台あるが、そこに腰掛けているのは私ともう一人の男性だった。50代ぐらいだろうか、口に髭を蓄えている。見たところ左足にギプスが固定されていて、屋根に設置された金具に白い布で固定されていて左足がぶら下がっている。鼾をかいて眠っている。現状、あの看護師と関わりはなさそうだ。そういえばこの部屋にはテレビがない。そういう場所なのだろうか。窓のカーテンは閉め切られている。この閉鎖空間は怪我人や病人にはくるものがあるのでは。ん、何だか股間周りが気持ち悪い。下着もろとも脱ぎたくなる。少し刺激臭のある匂いが伝わってくる。ああ、そうか、漏らしたのか。先程、看護師は気づいていなかったのだろうか。しばし辛抱するしかない。しばし、そうも言ってられない。あの看護師は先生に知らせると言っていた。何をだ。単純に考えれば私が目覚めた事をだろうが、あの看護師の思考は単純に考えて解るものではない。あの看護師はどうも私を探っている節がある。このまま戻ってくるのを呑気に待つのは危険だ。何か、対策を講じねば。
ここは病室で、看護師は先生を呼びにいく道程、大声を出すのは私の体の状態では難しい、それに病院で奇声をあげるとなると、受け流される恐れがある。そうか、ここは病室、最も単純な方法があった。そしてベッドの柵に引っ掛けられているナースコールのリモコンを手に取った。勢いで押そうとした瀬戸際であることに気付く。これほど単純な手段が、何故用意されている。勿論それは、病院なら当然だ。しかし、テレビも無ければ、部屋も閉め切られている。この空間においてあまりに罠じみている。しかし、外とのアクセス権はこの場においてこれ以外に無い。辺りを見回す。カーテンは、
なんだと、
釘が打たれている。あの看護師には必ず何か目的がある。眠っている男性の横に電球交換用の延長棒がある。それを見た瞬間、ある事を思いつく。私は立てるかどうか確認して、少し胸骨が痛むが、堪忍してその延長棒の方へと向かう。そして延長棒を掴む。時間がない、私はそうして病室の入り口の方へと向かう。
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