書記ちゃんは推理しない

今田葵

空白の十日間

episode1 数学教師の計算ミス

 ト、タ、タンと軽快に階段を駆け上がる。スカートの端が踊る。夕陽に彩られた踊り場をくるりと回ると、ふっと一息吐き、丸メガネのブリッジを触った。背筋を伸ばし、今度は一段一段、丁寧に階段をのぼる。規則正しく、ボブヘアの先が左右に揺れる。オレンジ色の三階廊下を突き当たりまで進むと、照明の光が漏れる扉をそっと開いた。

「おつかれさまでーす」

 パソコンの前に座る二人が顔を上げる。私の顔を見ると爽やかな笑顔を見せて私の挨拶にこたえた。

「おつかれっ」

「おつかれー」

 真正面に座るスポーツ刈りの精悍な彼は松葉英智。通称「会長のヒデくん」。文武両道という言葉を彼ほど体現している者はいない。前回の中間考査では学年二位。兼部先の剣道部では県大会優勝。加えて、卓越したリーダーシップと眩いばかりの正義感により、我が校の生徒会長を務めあげている。言わずもがな、全校生徒の憧れの的だ。

 彼の手前のデスク、私の真正面に腰をおろす黒髪ロングの淑やかな彼女は田島詩織。通称「副会長のしーちゃん」。ヒデくんから学年一位の座を守り続けているのが、何を隠そう、このしーちゃんなのだ。教員の間では十年に一度の天才と評される頭脳をもつ彼女は、驕るということを知らず、誰に対しても謙虚に振る舞う。男女問わず、彼女の柔かな笑顔に惚れ込んでいる生徒は少なくない。

 大半の生徒からしてみれば、生徒会といえばこの二人であり、この二人だけしか生徒会役員はいないと思っている者も少なくない。しかし、そんな2人の影に隠れながら、密かに生徒会役員の責務を全うしている、三人目の生徒会役員がいる。それがこの私、式春香なのだ。


「すいませーん」

 快活そうな女子生徒が生徒会室に現れる。

「文化祭のときに数学室を使いたいんですけど」

 教室の貸出。私の仕事だ。小さく手を上げ、「少々お待ち下さい」と断りをいれたうえで、パソコンをカタカタ、教室の貸出状況を調べる。

「文化祭当日、数学室は空き部屋みたいですね。借りられるかもしれません。担当教員の藤嶋先生に確認してみますね」

「ありがとうございます! えっと……」

「書記の式です」

「しきのしょきさんですね……って、あれ?」

「しょきのしきです。紛らわしいので、みんなからは『書記ちゃん』と呼ばれています」

「そうなんですね! 書記さん、ありがとうございました!」

 彼女は元気に手を降って生徒会室から退出していく。私が作業を再開しようとすると、しーちゃんが持ち前の優しさで私を気遣う。

「ねえ、やっぱり『書記ちゃん』はかわいそうだよ。せめて『シキちゃん』とか『ハルちゃん』にしてあげない?」

 たしかに、役職名があだ名だと、私自身の存在感が書記という役職に奪われているような気がする。サルトルは「実存は本質に先立つ」と言ったが、これでは本質が実存に先立ってしまっているではないか。サルトル先生がご存命なら説教を食らわされそうだ。

 だけど、と思って、私は白い歯を見せる。

「このあだ名、けっこう気に入ってるの」

 私は書記というこの立場が好きだ。地味だし、ほとんど雑用と変わらないけど、ヒデくんやしーちゃんと一緒に働けるのだから満足この上ない。それに、二人も私の働きぶりをよく褒めてくれる。それだけで私は十分。私のモットーは「身の程を知るべし」なのだ。

「そう? ならいいんだけど」

 少し申し訳なさそうな顔をするしーちゃん。そんなに気にしなくてもいいのに、と心の中で思いながら、作業に戻る。すると、ヒデくんのデスクから「うーん」という悩ましげな唸り声が聞こえたのだ。


「どうしたの?」

 しーちゃんがパソコンから顔を出す。ヒデくんは険しい顔で彼女を手招きし、パソコンの画面を見せる。私も立ち上がり、脇から画面を覗いた。

「うん。たしかにおかしいね」

「そうだろう?」

 何がおかしいのか、サッパリ分からない。画面に映っているのは、二年四組の文化祭の備品リスト。備品の名前とそれにかかる費用が記載されている。私が眉をひそめていると、ヒデくんが優しく教えてくれた。

「これは藤嶋先生から送られてきたデータなんだが、総費用のところが間違っているんだ」

 私は自分のデスクから電卓を持ってきて計算してみる。なるほど、たしかに間違っている。

「でも、それってただの計算ミスじゃないの?」

 私の素朴な疑問にしーちゃんが答える。

「表計算ソフトは計算ミスしないでしょ?」

 たしかにそうだ。コンピュータの力が偉大なことは毎日データ処理を行っている私がよく知っている。ヒデくんはまた悩ましげな唸り声あげた。

「総費用が間違ってるのか、総費用はあっているけど備品を書き漏らしたのか、そこがハッキリしてくれないと困るんだよな」

 ヒデくんからしてみれば、請求する金額が変わるのだから大問題だ。しかし、確認しようにも、藤嶋先生はすでにご帰宅。しかも請求の締め切りは今日だ。暗い顔のヒデくんを慰めるように、しーちゃんが前向きな提案をする。

「そうね。ちょっと頭を使って考えてみよっか」

 ヒデくんが顔を上げて頷く。

 かくして、放課後の生徒会室で、ある計算ミスを巡るささやかな推理が始まったのだ。


 私は小走りで教室の隅に置かれたホワイトボードを引っ張ってくる。黒ペンを二、三度シャカシャカ振り、背伸びをしながらホワイトボードの上の方にキュッキュッキュッと文字を書いていく。さて、今回の議題はこれだ。


議題:なぜ計算ミスが起きたのだろうか?


 そして、その計算ミスとは、


550+143+781=1584(正しくは1474)


「手計算による計算ミスか。それとも、税込み110円の商品を書き落としたのか。どっちもありえそうね」

 しーちゃんの発言を板書にまとめる。二人の意見を私がまとめる。生徒会お決まり流れだ。

「そういえば、表計算ソフトには途中式が残されているはずだ。それを見れば、どういうミスをしたのか分かるかもしれない」

 そう言ってヒデくんはパソコンの画面をもう一度見る。私たちも覗き込むが、みんな揃って大きなため息をつくことになった。

「1584としか書かれていないってことは、直接この数字を入力したことになるわね」

 ヒデくんは画面を見ながら首をひねる。

「そもそも、どうして表計算ソフトの計算システムを利用しなかったんだろう?」

 間をおかずしーちゃんが即座に疑問に答える。

「暗算に自信があったからじゃない? 藤嶋先生は数学教師だから」

 たしかに、藤嶋先生は授業中もよく手でそろばんの動きを見せながら暗算している。どちらかというと機械音痴なおじいちゃん先生だし、可能性は高そうだ。

「あるいは、レシートを見ながら数字を記入していたか。これなら総額はあっていても、書き漏らしが起こる可能性があるでしょ?」

 レシート。なるほど、その考えがあったか。私はしーちゃんも発言に感心しながら書記を進める。

「レシートの総額を見たってことは、同じ店ですべて購入したってことになるな。ええっと、購入した備品は……ペンキ、養生テープ、木の板。ホームセンターですべて買えてしまうな」

 頭を抱える二人。どうやら行き詰まってしまったようだ。私は黒ペンを置き、「ふう」と息を吐いた。


 ケトルに水を入れてスイッチON。ちょっと背伸びをして棚からコーヒー豆をとる。すっきりライトなアメリカンブレンド。スプーンで豆をすくってミルに入れる。一杯、二杯、三杯。細い腕で目一杯力を込めてゴリゴリと豆を挽く。ドリッパーにペーパーフィルターをセット。挽いた粉をドリッパーに入れて、ケトルのお湯で少し粉を蒸らす。二十秒を数えた後、ゆっくり円を描くようにお湯を注いだ。

 ここで二人の顔をちらと覗く。二人とも額に汗をかいているのが分かる。今日は秋にしては暑すぎる。アイスコーヒーのほうがいいかしら。冷蔵庫から氷を取り出しコーヒーに入れて一気に冷却。書記ちゃん特製アイスコーヒーの出来上がりだ。

「はい、どうぞ」

 険しい顔の二人にアイスコーヒーの差し入れ。意外と甘党なヒデくんにはコーヒーシュガーを添える。

「サンキュー」

「ありがとう、書記ちゃん」

 二人の感謝に微笑んでこたえる。席に着くと、カランカランと氷を鳴らしながらコーヒーをすすった。うん、我ながらおいしい。

 私たち三人はコーヒーを飲みながらホワイトボードを眺めた。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

議題:なぜ計算ミスが起きたのだろうか?

550+143+781=1584(正しくは1474)


説①:暗算で計算ミス

(藤嶋先生は数学教師だから暗算に自信あり)

備品数○ 総額✕

説②:レシートを写して書き漏らし

(ホームセンターで買える税込110円のもの?)

備品数✕ 総額○

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


「二つの説の違いは、備品数と総額、どちらが正しいかだな」

 ホワイトボードを見ながら、ヒデくんが呟く。突然、「あっ」と声をあげて立ち上がった。

「よく考えたら、二年四組に行って備品数を調べて来ればいいじゃないか」

 言われてみればそうだ。どうしてこんな簡単なことに気づかなかったのだろう。ヒデくんは「行ってくる」と言って生徒会室から駆け足で去っていく。五分ほどすると、ヒデくんが帰ってきた。

「どうやら、備品は記載されていたもので全部みたいだ。買ったものを受け取った生徒が言っているんだから間違いない。ただ……」

 ヒデくんが言い淀み。どうしたのだろうか?

「ある生徒によると、藤嶋先生はレシートを見てこう言ったらしいんだ。『総額は1584円だった』って」

 三人揃って頭を抱える。謎が解けるどころか深まってしまった。総額が合っているうえに、備品の数も合っているとなると、説①・②は否定されてしまう。どうやら、ふりだしに戻されたようだ。


「そういえば、これってクラスの出店で使う備品のリストなのよね? どうして藤嶋先生がそのリストを提出することになったの?」

 しーちゃんが原点に戻って考えようとする。

「ああ、買い出しは藤嶋先生が行ったらしいんだ。ずいぶん気合が入ってるみたいでさ、『買い出しは俺に任せとけ!』って言って、必死に自転車を漕いで行ったらしい」

 しーちゃんが苦笑いを隠そうとする。生徒より文化祭に熱をあげる先生というのは、いかがなものかと、私も思う。

「ということは、もし仮に説②が正しかった場合、税込110円の商品を買ったのは藤嶋先生ということになるわよね」

 その通りだ。しかし、その税込110円の商品が一体何なのか分からない。ホームセンターで買ったんだから、ボールペンや画用紙だろうか?

「そして、買い出しも恐らく今日行われた。ということは……」

 しーちゃんの瞳が煌めいた。ヒデくんが身を乗り出して訊ねる。

「なにか分かったのか!?」

 しーちゃんは柔らかな笑みを浮かべて肯いた。


「いやー、すまん、すまん。お茶を買った分を抜いたつもりだったんだが、総額の方を直すのを忘れとったわ」

「危うく学校の費用で私的なものを買うところだったんですよ。しっかりしてください」

「いやー、申し訳ない。アッハッハ」

 ヒデくんがジトーとした目つきで藤嶋先生を睨みつける。一方の藤嶋先生はヘラヘラとしながら笑っている。この先生、本当に大丈夫なんだろうか……

「しっかし、俺のミスによく気づいたな。学年一の秀才は推理も一流だったか」

 しーちゃんは照れくさそうに謙遜する。

「総額は合っているのに、備品の数も合っている。ということは、税込110円分のものを買ったんだけど、それをリストから除外した、ということになります。では、何を除外したのか。書記ちゃんが出してくれたアイスコーヒーでピンと来たんです。あの日は暑かった。きっと飲み物だって」

「そうそう。自転車を必死に漕いどったら、汗が止まらんくってな。飲み物を買わんと倒れそうで、つい一緒に買ってしまったんじゃ」

 藤嶋先生は頭を掻きながら生徒会室から出ていった。扉が閉まると、ヒデくんは大きなため息をついた。

「あのじーさん先生、今度やらかした時は生徒の前に吊し上げて恥かかせてやる」

 不正が大嫌いなヒデくんは怒りの表情を浮かべている。私としーちゃんは苦笑いした。

「まあでも、よかったじゃん。しーちゃんの名推理のお陰でなんとかなったんだし」

「そうだな。マジでありがとな、しーちゃん」

「いやいや、全然」

 褒められるのが苦手なしーちゃんは顔を赤くして首を振っている。可愛らしい人だ。

 それにしても、と思いながら棚の整理をする。今回の件でも、私はほとんど何もできなかった。したことと言えば、二人の意見をまとめたことと、アイスコーヒーを提供したことぐらいだ。推理においても私の影は薄いらしい。

 私は振り返り、二人を見ながら思った。彼は依頼者。彼女は探偵。そして私はただの書記。これがこのささやかなミステリー小説における私の立ち位置なのだ。

 少し落ち込んでいる私の背後から、ヒデくんが明るい声が聞こえる。

「でも、今日の影のMVPは書記ちゃんじゃないか?」

 私が振り返るとしーちゃんが「うんうん」と肯く。

「ヒデくんが二年四組に確認しに行ってくれたのも書記ちゃんの書記のお陰だし、私が閃いたのもアイスコーヒーのお陰だしね」

 ただの偶然だ、と思う。でも、目の前の二人は本気で褒めてくれている。たとえ偶然であっても、微力ではあっても、二人の役に立てたのなら、それでいいじゃないか。「身の程を知るべし」。私は小さく「ふふ」と笑った。

「ありがと。ヒデくん、しーちゃん」


 式春香。通称「書記ちゃん」。モットーは「身の程を知るべし」。依頼者と探偵の影に隠れ、ささやかな活躍をする地味な女の子。彼女は今日も二人の才人たちが織りなす物語の歯車を密かに回していたのだった。



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