第十九話『千歳をも色香に籠めて』

 信玄の死により家督を相続した武田 勝頼を、“長篠の戦い”で討ち果たした信長は、将軍 義昭のめいで動いた討伐軍の一掃を遂げた。

正親町おおぎまち天皇は、義昭が招いた混乱を見事収めた信長に官位を与えようとするが、信長は畏れ多くも辞退。


 其の代わりにと、東大寺の正倉院しょうそういんに収蔵されている天下一の香木“蘭奢待らんじゃたい”を所望し、天皇から截香せっこう勅許ちょっきょを得る。


『正倉院に押し入り無理矢理蘭奢待らんじゃたいを切り取ったとの汚名を着せられぬように』という光秀の配慮により、東大寺の向かいの山城 多聞山たもんやま(奈良)僧侶が運び入れ、仏師により截香せっこう

其の木片を二つに割り、片方を贈り物として献上してきた信長の心遣いに、天皇はいたく感動された。


 貴重な香木の切り取りを許された事実は、朝廷が信長を認めたという証――。

信長が朝廷の経済的な後ろ盾となり、天皇の権威が天下静謐を進める信長の後押しをするという“共存共栄関係”が構築され、信長勢力の更なる拡大が見込まれた。


 ◇


 可成よしなりの命日、聖衆来迎寺しょうじゅらいこうじの墓で蘭奢待らんじゃたいを焚いた信長は、すぐ側にそびえる光秀の居城 坂本城に寄る。

そして奥の間で二人、密談を始めた。


「大量の鉄砲・弾薬の調達、大儀であった。お陰で宣教師に聞いた異国の戦術で勝利できたいくさじゃが、対する武田にかつてのような士気は無く、信玄の息子の求心力の無さを肌で感じた」と顔を曇らせる。


「信玄公は死に際に自身の死を“三年は秘匿に”と申されたそうです。虎ありてこその武田の権威だとお気付きになられていたのでありましょう。先代が異才であればある程に、跡取りは見劣りし批判に晒されます」


「うむ。そこでわしも万が一を考えてな。わしの死後も家臣が後継こうけいを敬い服侍ふくじしてくれるよう、己の影響力がある内に、信忠に家督を継承し岐阜城を譲り渡そうと思う」

信長の決断に光秀は露ほどの驚きもなかった。


「誠に失礼ながら、信長様の威光にあやかり御当主としての威厳を築いてゆかれる事は、素晴らしきお考えに存じます。古参の家臣ほど信長様への崇拝から、信忠様にとりわけ厳しい目を向けておりますゆえ」という光秀の切言を、信長は分かっていたような頷きで応答。


「信忠は義理堅く勤勉であるが、真面目過ぎる人柄は面白味に欠ける。だが素直な良い子に育った。帰蝶が手塩に掛けてくれたお陰じゃ。

……光秀は何も聞かぬが、何故なにゆえ鳳蝶あげはを迎えに行かぬのかと思おておったであろう」


「いえ、その様な事は……」


「初めは弟 信勝と斉藤を抑え、尾張おわり(愛知西部)美濃みの(岐阜)平定すれば、迎えに行こうと思おておった。だが弟を討ち、今川を倒し、斉藤を滅ぼしても……、穏やかになるどころか敵は増える一方。

泰平の世の為と助けた義昭に裏切られ、その所為せいで義弟の謀反に遭い殺し、妹を悲しませ、それでもまだ敵ばかりじゃ。

うして時機を逃し続け、気付けば早二十年……。腕の中にすっぽりと収まっていた赤子も、家督を継ぐ歳――。

鳳蝶あげはと信忠に、わしと信勝のような思いはさせとうない。家臣が割れる事も、どちらかがどちらかを殺める事も考えとうないが、うならんとも言い切れぬ。人の心は分からぬものじゃ……。それでもわしは信忠に不幸あれば、厚い顔して鳳蝶あげはを迎えに行くんじゃろうの……」


 自責思考の深くに降りた信長の胸臆を、光秀は潜り込み迎えに行く。

「家督を外れ他家の養子や僧となっておっても、跡継ぎが早逝すれば突如呼び戻され当主を任されるのは武家ならば当然の事。良心の呵責に苛まれるような事にござりませぬ。継承が上手く行かねば御家は転覆致すのですから」


 心情よりも正しさを優先する信長は、冷厳だと捉えられ理解されない事の方が多い。理解されない孤独を受け入れるのは容易い信長でも、自分の中の正しさが揺らぐ時は脆弱になるのだと光秀は感じた――。





“本能寺の変”には『黒幕』がいた――。

この作品は史実を基にしたフィクションであり、作者の妄想が多分に含まれます。何卒ご容赦頂けますと幸いです。

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