第五章 ‐ Ⅲ

 密閉された空間でも、決して室内が暑いわけではない。でも、僕の額には玉のような汗が浮かんでいる。実際に起こってしまった事象を信じ難い気持ちばかりが先行して、この状況の打開策が思い浮かばない。

「あら、随分と緊張していますのね。ご心配には及びませんわ、私は貴方を殺しに来たわけではございませんから。ただ、ひとつだけ教えていただきたいことがあるだけ。貴方が抵抗しなければ、何も怖いことはありませんわ」

 彼女は僕へ一歩ずつ近づいてくる。彼女が奏でる靴音が頭の中で響いて、底知れぬ恐怖を味わう。目の前の少女が教えて欲しいことの見当は付いていた。十中八九、クローネのことだ。昨夜、コルネイユ先生からクローネの洗脳が解けたことを聞いて、クローネを取り戻すために執行兵であるクレインやホノカではなく無抵抗な僕に狙いを定めた。そう考えれば全て辻褄が合う。

「ふふっ、恐怖に怯えるタカト様も素敵ですわ。執行兵という存在、私たちの世界の住人のことを誰よりも深く知っているからこそ、その恐怖が生まれるのでしょうね。ディカリアの連中には何度も殺されかけたでしょう? 大丈夫、私はタカト様のことを素敵な人間様だと心の底から思っていますし、貴方の命を奪おうなんて気は微塵もありませんわ」

 手を伸ばせば届きそうなほどの距離。少女は自らの手をスッと差し出して、白くしなやかなその指で僕の首筋、そして顎先をなぞった。毎日ベッドを共にしているクレインにさえ、触れられたことのない箇所だ。何とも言えないむず痒さに身体が震える。一刻も早くこの場から立ち去って、クレインとホノカに彼女のことを伝えたい。

「ッ……僕に教えて欲しいこと、って――」

 後退りながらようやく口を開く僕。しかし、狭い倉庫の中では細やかな抵抗など無意味だ。背中が壁に阻まれ、それ以上少女から距離を取ることができない。目の前の獲物の行く先がないことを理解したのか、少女はより一層口角を上げ、僕に迫る。互いの息遣いさえ聞こえてきそうなほど近い。

「わざわざ私に訊かれなくても、お分かりになっているのでしょう? お顔にそう書いてありますわ。どうやらお心当たりがあるようですわね」

 身長は僕の方が高いため、彼女は必然的に僕を見上げるような形になる。薄暗い倉庫の中でぎらりと輝く彼女の双眸も、瑞々しい唇も、クレインに負けず劣らず綺麗なその白銀の髪も、全てが僕を魅了していくようだった。

「そんな、心当たりなんて」

「惚けても無駄ですわ、タカト様。ただ、もし仮に貴方が勘違いをされているとしたら、この時間はとても無意味なものとなってしまいますわね。ですので、敢えて私から質問をさせていただきますわ」

 少女は壁に背を預けた僕の肩に手を置いて、僕に体重を掛けるように距離を縮めていく。僕の右足が、ニーハイソックスに包まれた彼女の両足で挟み込まれ、その柔らかさを嫌でも感じてしまう。更にクレインとは違う豊満な膨らみが肋骨から胸板辺りを刺激して、尚且つ彼女から発せられる甘い香りに脳が焼き切れそうになる。ここで反応してはいけない、と分かっていても、思考が追い付かない。

 そんな状態のまま、少女はゆっくりと口を開いた。


「――私の「クローネ」は、今どちらに?」


 クローネの話を彼女が持ち出すのは目に見えていた。話を持ち出されただけであれば、僕も対処ができたのかもしれない。その場で彼女を突き飛ばし、クレインたちを呼ぶ。そんな一連の行動が、間に合ったかもしれない。

 ただ、僕は少女に迫られ、彼女の柔らかさを全身で感じてしまい、為す術がない。少女がしな垂れかかると共に、密着する身体と身体。誰もいるはずのない特別棟の、誰も来ないであろう倉庫の中という状況が、思考の混濁に拍車をかける。

「ッ、それ、は……」

「ふふふ……もちろん、言えませんわよね。タダで教えてもらおうなんて虫のいい話、聡明な貴方様が呑むはずはございませんもの。なら、こういうのは如何かしら? 貴方様がどういう表情を見せてくれるのか楽しみですわ」

 くすくすと揶揄うように笑う少女。その右手が、僕の太股へと触れた。

「えッ……!?」

 触れて、離れて。一瞬だけ、擽られたような感覚。そんな絶妙な力加減は、僕の中の恐怖という恐怖を助長させるどころか、塗り替えていく。妖艶ともいえる彼女の表情は、僕を追い詰めるには十分すぎるエッセンスだった。

「ほら。ココをこうして触られたら、反応してしまうのでしょう? 我慢はいけませんわ。素直にクローネの居場所を教えてくだされば、すぐに解放して差し上げますわ。そうすれば、貴方様は愛しのクレインのところへ戻れる。私も、可愛いクローネを連れて帰れる。うふふっ、win-winの関係、かしら」

 出会ったばかりの頃のクレインを想起させる言動に思わず心臓が跳ねる。少女の手は止まらない。スラックス越しの太股を撫で上げられる。繊細なその指遣いは、まるでピアノの鍵を弾くようだ。何とか逃れようと身体を捩るが、そんな僕に彼女は更なる追い討ちをかける。

「――可愛らしいお顔」

 ただでさえ密着した状態で、首筋や耳に息がかかりそうな距離。そっと囁かれた言葉に、僕は抵抗という抵抗を忘れてしまう。吐く息が次第に荒くなり、ワイシャツにじっとりと汗が滲む。太股を攻める手はそのままに、逆の手は僕の上半身に伸びる。制服のジャケットを掻い潜って、ワイシャツ越しの胸板に這わせられる。静止の言葉も紡げずに、指を使って胸板を刺激されてしまう。反射的に普段よりも高い声が漏れた。

「くあ……ッ!」

「ああ……いいお声で鳴きますのね。本当に、食べてしまいたいくらい。顔立ちも整っていますし、何よりも温かく優しい貴方様。クレインには惜しい存在ですわ」

「っ、いいからもう、止めッ……」

「止めますわ、貴方様がクローネの居場所を教えてくだされば。でも、本当に止めてしまっていいのかしら。少なくとも、貴方様の身体の反応は正直ですけれど」

 むず痒さか、恐怖か、それとも感じてはいけないはずの快楽か。僕の震える身体を、彼女は楽しんでいる様子だ。真っ赤な舌を出して、艶やかな唇を舐める彼女。そして、太股をまさぐっていたその手が、僕の一番深い箇所へと伸びようとする。そんな様子をまざまざと見せつけられてしまえば、全力で抵抗せざるを得ない。そこに触れられてしまったら、元に戻れない気がした。目を見開きながら、自分にできる精一杯の声で、彼女に静止を求めた。

「ま、待って……! 分かった、言う、言うから!」

「あら、残念ですわ。ここからが本番でしたのに」

 僕の身体に這わされていた指、そして僕の足を挟んでいた彼女の太股が徐々に離されていく。この喪失感はいったい何に起因するものなのだろう。いや、今はそんなことを考えている場合ではない。やがて彼女の温もりが完全に消え去った後、肩で息をしながら、僕は彼女が求めている情報を口にしてしまった。

「はぁ、ッ……クローネは、ホノカの家にいるんだ。昨日の夜、コルネイユ先生と戦った後、そこで匿ってる」

「まあ、大方あの場所だろうとは思っていましたけれど。ふふ、情報ありがとうございますわ。タカト様」

 その口振りから、彼女はホノカの家……もとい、執行兵の集合場所を知っているようだった。必要な情報を得た少女は、一度だけにこりと微笑みを投げると、そのまま踵を返そうとした。しかし。

「そうそう。情報を開示していただいたタカト様には、ひとつご褒美を差し上げますわ。私の名前、もう既にご存知かもしれませんけれど――」

 顔だけ振り向いた彼女の翡翠色の瞳に、思わず吸い込まれてしまいそうで。ほんの少し前まで彼女と密着していたという事実が、僕の身体を火照らせる。

 そして彼女は、微笑みを添えながら自らの名をゆっくりと紡いだ。


「――私はアルエット。アルエット・カルーラと申しますわ。以後お見知りおきを、タカト様」

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