第44話 演技絶賛
「……はぁ」
トイレの洗面台に映る自分の顔を鏡で見る。ああ、戻ったんだな、と安堵する。
胸が痛い。
それは、サカキの気持ちを自分が表現できたということなのだろうか。
(つら…、)
正直、自分は芝居に向いているとは言えないな、と凪人は実感していた。役になる度、その役がこんなに心を支配してくるのだとしたら、負担が大きすぎるだろう。とてもじゃないが、受け止めきれない気がする。
もう一度、顔を洗う。
信じられないほどの疲労感だ。
撮影は一発OKだった。
カットがかかるまで、その場にいた誰もが息を殺した。
張り詰めた空気の中、すべてを出し切った凪人は、カットがかかると同時にタオルを受け取り、トイレに駆け込んだのだ。
皆からの評価が怖かったからではない。
とにかく、元に戻らなければ、と思ったから……わかってしまったからだ。
「大和君、大丈夫か?」
そっと入ってきたのは橋本マネージャー。なんだかとても心配そうな顔をしている。
「あ、大丈夫です。戻ってきました」
少しおどけてそう言うと、安心したように溜息をつかれてしまう。
「はぁぁ、よかったぁ。もう、俺どうしようかと……、」
へたり込みそうな勢いで、脱力する橋本に、今度は凪人が心配になる。
「え? なんか俺、ダメ……でした?」
精一杯やり切ったと思っているのは自分だけで、実際はとんでもない演技だったのだろうか?
「え? あ、違う違う! 逆だってば! あまりにも……あまりにもだったから。もう、現場大騒ぎなんだから!」
「へ?」
あっけに取られている凪人の腕を、橋本が引っ張っていく。
スタジオに入ると、ざわつきがどよめきに変わり、盛大な拍手の波となる。
「え? え?」
キョトン、とした顔の凪人に、監督、プロデューサーが駆け寄った。
「大和君!!」
「君、凄いな!」
「え? あの、ありがとうございます……?」
見れば周りを関係者に囲まれ、次々に声を掛けられていた。原作者の夜和井シャモに至っては、目を真っ赤に腫らした状態で凪人を抱き締める始末。
「ありがとう! ありがとう大和君! 私はとても感動している! 君がオーディションで語ってくれた熱い思いは嘘じゃなかったんだねっ!」
「あ、はい、えっと、」
「やろう! 次はエピソードゼロ、映画撮ろうよ、監督!」
原作者が監督に詰め寄るというおかしな構図になっていた。
「大和君……、」
後ろから肩を叩いてきたのはもう一人のサカキ役、桐生大伍だ。
「あ、どうも」
「やってくれたねぇ」
皮肉めいた言い方で、桐生。
「あんなの見せられたらさ、俺、本気出さなきゃいけなくなっちゃうじゃない。どんな役作りしたの? ワンシーンのためにさぁ。ほんと、参っちゃうよ」
苦い顔をしながらも、なんだか楽しそうである。
そしてその後ろで口を一文字に結んでいるのは……、
「……昴流」
近くにいた橋本マネージャーが身を硬くした。辺りを警戒するように目を泳がせる。
「……なんだよ」
昴流が小さな声で、そう呟く。
「え? なんて?」
凪人が聞き返すと、昴流は突然凪人の首根っこに抱きついたのだ。
「わっ、」
さすがの凪人も驚く。
「なんだよお前! 最高じゃんか! 俺、めちゃくちゃ悔しいっ。悔しいから、これから頑張る! なぁ、俺と友達になってくれよ。いいよな? な?」
(えええ? なんで……、)
「お前、俺のこと嫌いだったんじゃないのかよ? 遥さんのことは、」
「それはそれ、だ! 役者としてのお前は最高だ! 一生離さないぞ!」
なんでそうなったかわからないが、懐かれてしまったようだ。
「やだよ、俺……、」
凪人がくっついている昴流を引き剥がした。
「あはは、いいなぁ、若い役者同士の友情は!」
傍にいた桐生が笑った。
「監督、カメラチェック入ってください!」
向こうから助監督が叫ぶ。その場にいた役者陣がぞろぞろとモニターの前に集まった。
このシーンは定点カメラで撮影している。寄ったり引いたりはあるが、数カ所から囲むように同時撮影だ。モニターにはそれぞれのカメラで撮った映像が映し出されている。凪人は、そこに映し出された自分の姿を見て、改めて思った。
「……うわぁ、はっず」
と。
*****
「大和さん、クランクアップです!」
スタッフ陣からワーッと拍手が起こる。見学に来ていた役者や関係者はもう既にスタジオを去り、残った関係者だけでお見送りをしてくれる。花束を渡され、なんだか照れ臭くなりながらも、今までにはない達成感に包まれていた。
「ありがとうございました!」
大きな声でお礼を述べ、一礼を。
着替えを済ませ、スタジオを出る。橋本マネージャーにも声を掛け、帰路につく。夕飯に誘われたが、断ってしまった。それどころではない。これから一世一代の告白をしに行くのだから。
花束を携え、帰り道を急ぐ。絶対に今日伝えると決めていた。結果はわからない。わからないが、ただ黙って見つめているだけはやめだ。サカキを演じて、そう思った。
伝えなければ駄目だ。
失うことを恐れては駄目だ。
失くしたくないのなら、離さなければいいだけのことだ。
(俺は、あんな思いは、したくない)
「よっしゃ」
気合いを入れる。
気合いを!
……気合い……。
(あああ……怖い……、)
アパートにつくころには、気合いはどこかに消えてなくなっていた。少しずつ道端に落としてきたかのよう。
「はぁ……、」
遥はあの演技を見ていたのだ。どう思っただろう。まずはそこからじゃないか。
「とことんヘタレだな、俺」
アパートの前まで来て、ぴたりと足が止まる。遥の部屋の電気は、灯っていた。
一歩一歩が重い。
階段を上がる足がなかなか前に進まない。
カチャ
遥の部屋のドアが開く。心臓が飛び出すかと思った。が、出てきたのは、奈々。
「あ、帰ってきた。遥! 凪人帰ってきたわよっ」
部屋の中に声を掛ける。
「ほら、なにしてるのよ、早く!」
半ば引っ張られるように遥の部屋に押し込まれる凪人。
「え? なに? え?」
中では遥がワインの瓶を片手に待っていた。
「お疲れ様、凪人」
「あ、はい……?」
「いやねぇ、あんたの慰労会をやってあげようってんじゃない! さ、始めましょ!」
奈々に促され、席に座る。
さっきまでの決意はどこへやら、宴が始まってしまったのである。
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