太郎にとって実家は、気が休まらず居心地が悪い場所でしかない。立ち寄っても、用事が済めばそそくさと出ていく。しかし今日は、一刻も早く立ち去りたいという衝動に駆られることなく、ソファに座り続けている。


 洋平が、時計に目をる。

 太郎が認識しているだけでも、これで三回目。太郎は、帰って欲しいという洋平の意思表示だと感じる。

「そろそろ行くわ」

「昼飯食ってかないか? あと10分で食べられる」

 時計の針は11時50分を指している。

 洋平は、昼食の時間を気にして時計を見ていただけのようだ。

「ああ。親父と一緒に飯うのは……15年振りだな。出前取るか?」

 太郎が実家を訪れる理由は、母の年忌ねんき法要ほうよう。7回忌までは一緒に飯を食ったが、先日の23回忌、17回忌、13回忌では食べていない。

「いや。冷蔵庫に2人分入ってるんだ」

「親父と、雪乃さんの分だろ」

「ワシとお前の分だ。お前が来たとき、雪乃が作っていたのを見ていただろう」

「2人分しか無いんだよな? 雪乃さんの分は?」

「今日は3限までと言ってたから、帰ってくるのは15時過ぎだ」

「そうなのか。昼食、冷蔵庫から出してくる。親父は座っていてくれ」

「待て! 12時になるまで冷蔵庫を開けるな!」

「もう12時じゃないか」

「ダメだ! まだ開けないでくれ」


 太郎は、12時になったのに、洋平が止めようとする理由がわからない。気にせず冷蔵庫を開ける。

「あー……」

 洋平が項垂うなだれる。

「なんで項垂うなだれてるんだよ?」

 太郎は冷蔵庫から取り出した、うどんで作ったナポリタンを電子レンジで温める。2つの皿のラップには『太郎さん』『洋平さん』と書かれている。


 机に運び、ラップを開けた太郎は2つの違いに気付いた。『洋平さん』と書かれているほうは、とろみが付いている。太郎のほうにはとろみが無い。太郎は、とろみが誤嚥ごえんしにくくするための措置であることを知っている。

「雪乃さん、親父のことをよく考えてくれてるんだな」

 洋平は無反応。妻を褒められたのに、頭をかか項垂うなだれている。

 とはいえ、洋平はナポリタンを完食したし、項垂うなだれていること以外、変わった様子は無い。


「親父。どうして項垂うなだれているんだ?」

「雪乃を傷付けるからだ」

「どうして? 何もしてないだろう」

「認知症になると、時間感覚が狂う。見当識障害という症状だ。雪乃は異変にすぐ気付けるようにするため、冷蔵庫の扉にセンサーを取付けた。ワシが予定外の時間に開けると、雪乃のスマホに通知が飛ぶようになっている」

「ほんの数分早く開けただけだ。気にしないだろう」


 バタバタと足音が聞こえる。

「ただいま! 洋平さん、大丈夫!?」

 息を切らした雪乃がリビングに入ってきた。

 洋平は15時過ぎに帰ってくると言っていたが、今は12時台。


 洋平は顔を伏せ、下を向いたまま応答する。

「大丈夫だ。太郎に、冷蔵庫のことを伝えそびれただけだ。すまんな……」

「忘れてたの? 太郎さん、洋平さんは開けていないんですか?」

 正直に話せと言わんばかりに、鋭い目で太郎を見つめる雪乃。

「事実です。付け加えると、親父は俺に『12時になるまで冷蔵庫を開けるな!』とはっきりと言いました」

「そうですか……それなら良かった」

 崩れるように膝を折り、床に座り込む雪乃。

 洋平のことを本気で心配していることは、見ればわかる。


 であれば尚更、昨日のことをきちんと詫びなければならない。太郎は雪乃に向け、深々ふかぶかと頭を下げる。

「雪乃さん。昨日は酷いことを言い、本当に申し訳ありませんでした!」


 雪乃から返ってきた言葉は、太郎が予想だにしていなかった内容。

「ズルい……謝ると、太郎さんは満足するよね。それで終わり。それはオナニーだよ。そんなの見せられて、私はどう反応すればいいかな? 今だって、洋平さんの代わりに弁明したつもりになって、気持ち良くなってるでしょ。そういうの、虫唾むしずが走る」

「そんなつもりでは」

「太郎さんは、開けるなと言われたのに開けたよね。何故? その結果、洋平さんを悩ませてる。太郎さんが開けなければ、悩む必要無かったよね? 私は三限目の授業を受けられませんでした。それなのに今、太郎さんだけが気持ち良くなってる」

「そんな言い方は」

「何? 洋平さんは予定を覚えていられる。予定通りに動くことが出来る。自分で冷蔵庫の前に行き、2つの皿を取り出すことが出来る。電子レンジに皿を入れ、温めることが出来る。ラップの文字を読んで自分の皿を選ぶことが出来る。太郎さんに皿を差し出すことが出来る。全て出来たらご褒美がある……太郎さんは、洋平さんが出来ることを奪った」

「何故そんなに怒るんだ。そんな回りくどい言い方されなくてもわかる」

「太郎さんのことは話してない。洋平さんは、出来るようになるために頑張ってる最中なの。こんなに落ち込ませたら、意欲が無くなって、一気に進行しちゃう」

 太郎は、洋平が認知症であると察した。

 先程まで会話出来ていたのは調子が良かったからだろう。現状は、顔を伏せ、下を向いたまま動かない。抑うつ状態に陥っているように見える。


 ――いつからこうなっていた?

 太郎が洋平から出来ることを奪おうとした瞬間から、こうなっていたと思い出す。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

爺嬢 はゆ @33hayuu

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ