太郎は帰宅し、すぐに自室の椅子に腰を掛ける。


 雪乃のよわいは19。個室居酒屋で提示された学生証によると、4月しがつ9日ここのかに誕生日を迎えたばかり。太郎はその時初めて雪乃が先月まで高校生だったと知った。

 19歳は、民法改正前であれば未成年に該当する年齢。改正により、法的には成人となったとはいえ、法律上の定義変更に応じ判断能力や思考力が高まったり、成長が早まることは無い。


 雪乃は青年期真っ只中。青年の青は未熟を意味する。いくら外見が大人びていても、中身は成熟していない。

 多感な時期だから、不快度は太郎が想像する以上に高かっただろうと容易に想像出来る。

 その上、雪乃に『母だから、水に流すだけです。もしも他人だったら、私は許しません』なんて言わせてしまった。

 雪乃は、許すとは言っていない。許せない程酷いことをされたのに、水に流さなければならない状況にあると表現したに過ぎない。


 太郎は冷静になり、改めて雪乃にした仕打ちの残酷さを痛感する。しかし、悔いたところで、過去の行為を無かったことには出来ない。


 今考えるべきことは、雪乃から家族に使うよう指示された10万円を、どのように使うべきか――。

 太郎は妻、香織と二人暮らし。使う相手は必然的に香織となる。とはいえ、太郎と香織は家庭内別居状態。同じ建物内で生活してはいるが、言葉を交わすことは無い。顔を合わせることも皆無。偶然鉢合わせになっても、顔を背け、無視するほど冷め切った関係。


 離婚していないだけの他人。


 関係が冷めたのは23年前。

 就職して2年目の長男、一平は、職場で出会であった女性と結婚し、家を出た。

 その日から、太郎と香織の二人暮らしが始まった。子育てを終え、第二の人生の過ごし方を考え始めた。その矢先、香織は交通事故に巻き込まれ、右足を失った。

 以降、性行為をしていない。会話が無くなるまでは、あっという間だった。


 時間を持て余した太郎。夕飯は外で済ませ、以降の時間は、風俗通いに充てるようになった。

 今に至るまで、寝るためだけに帰宅する日々が続いている。

 健康なよわい44の男が、性欲を処理する相手を失ったのだから、代理の者を手配するのは当然。太郎はそう思っていたから、行為の是非を考えたことは無かった。


 雪乃に言われた『太郎さんがスナックに行かず、風俗通いをしなければ学費分のお金を確保出来ます』という言葉を思い出す。

 週に2、3回。23年間風俗を利用している。一回あたりの支払額は2、3万円。

 計算すると、風俗だけで少なくとも5,000万円程使っていることがわかった。大学の学費くらい、余裕で賄うことが出来る額だ。太郎には、そんなにも使っているという自覚は無かった。しかし、今更気付いても遅い――あとに続いた『己の一時的な欲と孫の人生を天秤に掛け、欲を選択した。愚かです』という雪乃からの指摘への、弁解の言葉は無い。


 太郎は、生まれてこのかた、雪乃以外から『私は太郎さんを愚かだと評価します』なんて言われたことは無い。

 指摘されてもなお、逆上し恥の上塗りをした。その上、雪乃に助け船まで出させた――まさに愚の骨頂だ。


 10万円、どのように使うべきか――考える猶予は、親父に謝罪するために家を出るまでの数時間しかない。太郎は使い道を、が明けるまで悩み続けた。


  


 太郎は香織の部屋の扉をノックする。

「香織。話したいことがある。入ってもいいか?」

「はい。どうぞ」

 すぐに、はっきりとした声で応答があった。

 部屋を訪れたのは太郎の都合。香織が、顔を合わせたくないと、無応答を決め込むことを懸念していた。立場が逆だったら、太郎はそうしたはず。だから、不安に駆られていた。


 扉をけ、香織の部屋に入る。

 香織は、太郎の記憶にある風貌ではない。23年の時間の経過が、変化させた。

 先に風貌の変化を口にしたのは香織。

「こうして顔を合わせるのは、いつりかしら……すっかりお爺さんね」

 太郎は唖然あぜんとする。白髪しらがが目立つようになった認識はあったが、お爺さんと称される程、老化している認識は無かった。周囲の誰も太郎にお爺さんという言葉を向けることは無かったからだ。

 太郎に向けられてきた言葉は『元気』や『若い』という肯定的なものばかり。


 雪乃から問われた言葉が太郎の脳裏をよぎる。

『私にとって、太郎さんはなに? 私たちはお金の関係ですか?』

 太郎の人間関係は、かねの繋がりで成り立っている者ばかり。太郎の機嫌を取るために、気分を害さない言葉を選んで使う。当然、老いを感じさせる言葉は忌避する。


 太郎はかねの話をしにきたのだと思い出し、我に帰る。

「10万円あったら何したい?」

 散々さんざん考え、それでも答えが出なかった。時間の猶予は無い。だから太郎は単刀直入に尋ねた。

「その10万円は、どんなお金?」

「どんなって? 香織のために使うお金」

「なんのために?」

「えーっと……欲しい物とか、何か無い?」

「誤魔化すってことは、言えない何かがあるんだね」

 言えるはずがない。太郎は黙り込む。

「そのお金の出所でどころは? 悪いことして得たお金なら、私に使わないで」

「俺のかね

「家のお金だよね?」

「同じだろ」

「わからないならいい。家のお金なら尚更なおさら、使わずに貯めておきたい」

「好きなことに使っていいんだぞ。何故使わないんだ?」

「家のお金、もう無いの。太郎さんの退職金は借金の返済と、日々の引き出しで残り僅か。10万円なんて大金、使える余裕は無い」

「そんな……何故もっと早く言わなかったんだ」

「何度も話そうとした。その度、怒って出て行ったでしょ。今日は、最後の10万円の使い道を話しに来たんだよね?」


「……その10万円の使い道、香織に任せる」

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