空っぽ女狐

とろめらいど

空っぽ女狐

 「私、変な子ばっかり産んでしもたねぇ」

 水島詩織の記憶にある母はそう言ってきゃはは、と少女のように笑った。詩織はそれにどう答えたのだっけ、と考えながら教師の話を聞き流していた。

「それで、皆さんには読書感想文を書いてもらいます。本の決まりはありませんが、漫画とかは駄目ね」

 クラスメイトは興味が無さそうにしている子が大半だった。夏休みの課題と言えばおきまりになっているから、仕方が無い。

「来週のこの時間、どんな本を選んだのか聞きます。忘れず考えて、ちゃんと持ってくること。予定表に書いておきなさい。ほら、水島さんはもう書いてるよ」

 名指しで言われなければもっと目立たずにいられたのに、と詩織は肩を縮ませる。ぼんやりとしながらも教師の話を聞き、喜びそうなことをするのは得意だった。だがそれでクラスの気が強い女子連中に目を付けられでもしたら敵わない。来週の時間割が書かれたプリントの空欄に「本もってくる」と書いただけでそんなに怯える必要があるから。シャカイって厳しいのだなと詩織は考える。

 現にイヤミくせぇ、と隣の席の男子が自分に向かって呟いたのを彼女は耳にした。教師が聞いたら大目玉だろう。詩織には男子生徒の心情が分かるようで分からない。これは何も最近急に始まった訳ではなくて、彼女がもっと幼い頃からの疑問だった。何故、周りの子供達は大人に怒られると分かっていることをするのだろう。何故、絵本やテレビの言う通り道徳的に生きないのだろう。そしてこの感情にはまだ詩織自身は気づいていないが、最後の疑問は詰問形式になる。何故。何故、そんなに自由奔放に生きていてお前たちは許されるのだろう?

 詩織は唇を噛みしめ、無性に泣きたくなる気持ちを堪えた。これならいっそ何もしないで、教師が指導してくるのを待てば良かった。だが反射的に大人の喜びを満たしてしまう癖が付いている。

 クラスの中心的存在である川木愛理に、取り巻きがひそひそと何事か囁いている。大人を喜ばせると子供に嫌われてしまう。子供らしく振る舞おうとすると浮いてしまう。それが水島詩織の抱える大きな悩みだ。

 六時間目が終わり、終わりの会が開かれている間も詩織は生きた心地がしなかった。「今日見た良い事」というものを発表する場面があるのだ。誰かが手を挙げて「佐藤さんが木村くんの筆箱が落ちたのを一緒に拾ってあげていました」などと言い、教師が「佐藤さん偉かったね」と褒め、皆は佐藤さんに拍手する。その一連の流れ自体は特に好きでも嫌いでもないのだが、そこに自分の名前が出るとなると話は別だ。詩織は「水島さんは先生が言うより前に持ち物を予定表に書いていました」などと言う輩が現れることを恐れた。

「ちょっとチョーシのってるよねぇ」

「ムシしよーよ。いっしょに帰るのもやめちゃお」

 誰かが変化をもたらせばそんな言葉が飛び交う。けらけらという笑い声と共に。それが小学四年生の詩織が見る世界だ。激動の人間関係の中で、自分だけは穏やかに、波風立てずに生きていたい。だが、大人が求めるのは理知的で好奇心旺盛な「出来た子供」であることも理解している。大人達は風雲児と呼ばれるような、常識を打ち破る子供が見たいのだ。

 帰りの会は詩織の心配を他所に、淡々と進んで行った。ほっと息を吐く。両親が選んでくれたローズレッドのランドセルに付いた蛙のお守りを手で弄った。小さな鈴が手の中で鳴る。

「アイツさぁ、また褒めるよ。水島さんのが上手でしたーってさ」

 ねぇ、と友人である三橋希美が帰り道の途中で言い出した。アイツ、とは担任の教師のことを指す。

「何を?」

「感想文! 詩織ちゃんのこと好きだもんね、アイツ」

 希美が意地悪な笑みで詩織を見つめる。パン屋の良い香りを嗅ぎながら詩織は困ったなぁ、という風に適当な相槌を返す。

「本当それ。詩織ちゃん、お気に入りってやつでしょ」

「やだぁ。先生のくせにそんなのあるとか信じらんない。キモいね」

 きゃあ、と盛り上がる友人一行を見て詩織は「どうかなぁ」と曖昧に頷いた。やだ、あんなのに好かれるとか恥だよ。死んだ方がましじゃんね。そんな言葉を期待されているのだろうと思いながら詩織はそれを口に出せない。どちらかと言えば、大人に媚びを売って生きているほうだという自覚はある。簡単にころころ立場を変えられるほど器用ではない。それに、関東弁で悪口を言うのは何だか二重に嘘を吐いている気がして嫌だった。

 詩織の故郷は京都だ。小学校二年生までずっとそちらで暮らしていたが、父親の転勤で東京へと引っ越すことになった。方言は外でならごまかせるようになったが、外国語を喋っているようで落ち着かない。

「カワイソーだなぁ詩織ちゃん。嫌なことは嫌って言えば良いよ」

「PTAとかにさ、言えば何とかしてくれるんじゃない」

「クビになっちゃったりしてねー」

 そんなさ、と思わず詩織は口を挟む。

「そんなにおおごとにしなくて良いよ。私、平気だし」

 友人達は目を少し見開いて詩織を見る。間違えたか、と詩織は思考を巡らせた。子供の輪に入るときに浮いてしまうというのはこういうことだ。友人達の欲していない言葉を吐いてしまった。間が空いて、希美がふっと噴き出した。

「ジョーダンだよ。めんどくさいもんね、親とかに言うの」

「そうそう。結局オトナ同士で何か解決したフリして何にもわかってない」

「なんでわかんないんだろうね」

 ケタケタと笑いが起こるのを見て危機は去ったのだと一安心する。こういう切り返しが上手いから、希美はクラスの中でもある程度の地位を築けているのだろう。所属しているグループこそ違うが、愛理からも刺々しい視線が飛んでくることはない。それどころか愛理の方から話しかけてくる時まである。

 うちが愛理ちゃんに話しかけられたんっていつやったっけ、と詩織は思い返してみる。まず、転校初日。値踏みするような目で色々と話を聞き出した愛理は、最終的に詩織の持っている本を見て「この子は私のグループに入れるような子ではない」と判断したらしかった。その時持っていたのは子供向けのミステリー小説だ。華やかな一軍には似合わないことぐらい詩織にも分かっていた。京都の学校でもそれは変わらなかったからだ。

 それ以降、愛理の取り巻きから「愛理ちゃんが聞きたいことあるんだって」と呼び出されたことはあるが、宿題の答えを参考にしたい、課題のヒントを出し合いたいなどというものだった。要するに、愛理は詩織のことを「勉強が出来る気の弱い便利な奴」程度にしか思っていない。

「詩織ちゃん。じゃあね。アイツに何かされたら言いなよ」

 希美は別れ道で朗らかにそう言い、詩織に手を振った。一人になった帰り道で詩織は考える。こんなだから母に「変な子」と言われてしまうのだろうか。もっと希美や愛理のように多少悪い子であった方が喜ばれたのだろうか。だが自分は元来、大人達を喜ばせる為に良い子であろうとした筈なのに、どうしてこうなってしまうのだろう。

「ただいまぁ」

「しーちゃん、おかえりぃ」

 詩織の家はマンションの一室だ。扉を開けると母は関西の訛りで出迎えてくれる。

「暑かったやろ。手洗いうがいしたらアイス食べる?」

「うん。食べるわ。今日さぁ、希美ちゃんがな、嫌なことあったら何でも言いやって言ってくれたん」

 ああ、と母は希美の顔を思い出しているのか中空をじっと見つめた。

「希美ちゃんな。名前に『美しい』なんて漢字入れんのすごいやんな。私やったら気後れするわ」

 話題の後半はあまり聞いてくれていないのだ。いつもそうだなと思いつつ詩織は同調する。

「詩織もかなん。美人さんやなかったら笑われそうやもん」

 この主張は詩織のものではない。過去に母が同じことを言ったのだ。美人に育つかも分からないのに、美しいなんて漢字を名前に入れるのは怖い。そんな意味を繰り返し聞かされていた。だからこう言えば母が喜ぶことも知っている。

「ほんまほんま。しーちゃん、詩織、ええ名前やろ。お爺ちゃんが付けてくれたんよ」

「うん。ええ名前やね」

 オウムのように繰り返すだけの自分はテープレコーダーか何かの代わりなのだ。重たいランドセルを妹の居る自室に置き、洗面所で手を洗う。学校で話した関東弁が抜けていくような心地がした。うがいをしている最中は鏡越しに母のことをちらりと見る。母は次、どんな話題を求めているのか観察するためだ。冷凍庫からソーダ味のアイスを取り出し、母の出方を待つが詩織は重大なことを思い出した。

「あ。あのさ、夏休みの読書感想文の本な、決めて来週に持って来なあかんてセンセ言わはったわ」

「ほんならお母さん、図書館行かなあかんね」

 ちくりと違和感がする。棒アイスを口の中に詰め込み、冷たさでごまかした。

「何の本がええやろ。ちょっと考えるわ」

 ここで「詩織も考えよか」などと言ってはいけない。母は完璧な水島詩織が世に出ることを画策している。子供じみたアイデアなど募集してはいない。詩織の好むミステリー小説の名前など初めから眼中にない。

 詩織は黙ってアイスを食べ進める。こぼしたら叱られるから下にティッシュでも敷いておこうか、と立ち上がりかけた時に母が「あ、お皿あった方がええね」と言って食器棚から平皿を出してくれた。ティッシュを取りかけた手をそっと戻す。ぼうっと皿を待っている自分はさぞかし間抜け、不出来な子そのものに見えるだろうなと考えた。それでも母を手伝えない。母の機嫌を損ねるからだ。

 妹の香織が部屋から出て来て顔を出した。

「おねえちゃんアイス食べてる。かおりもたべたい」

「お姉ちゃんガッコ行って疲れたはんの。香織はずっと家居たやろ」

 そう言いながらも母は香織の分のアイスを出す。香織は「いちごのやつがいい」と椅子に座って注文していた。

 詩織の妹である香織はいわゆる不登校児だ。詩織は母に完璧を求められる。母の思い描いた完璧になる。だが香織は少し違った。彼女は誰に言われるまでもなく、完璧でいたいのだ。漢字ドリルに書いた自分の字がお手本と1ミリずれても気に入らないし、教師の作成したプリントの些細な間違いが許せない。そんなだから学校に行くのが難しくなってしまった。学校はいつも完璧ではない場所だからだ。絶えず問題が起こり、修正する中でもまた新たな歪みを生み出す。

 詩織は考える。皆はどうして毎日学校に来て、不完全な己をさらけ出すのだろう。そうやって子供が成長していくことを詩織は知らなかった。ただ世間一般から見て、クラスメイトの家庭より水島家の方が異常に寄っていることは薄ぼんやりと理解している。

 読書感想文の本も、皆はきちんと自分の考えたものを持ってくることぐらい知っている。母がそんな自由を許さないことも知っている。

 ソーダの爽やかな風味で押し流せない何かを抱えたまま、詩織は最後の一口を頬張った。

 宿題をしたりテレビを眺めていたりすると父が帰ってきた。

「ただいま」

「おかえり」

 両親のやり取りにごく普通の家庭風景を見る。ドラマで見る家族はこんな風にしていた。

「お帰りなさい。お父さん、あのさぁ、読書感想文書くことになってん」

 ふぅん、と言った父はテレビのリモコンで野球中継を映していた。詩織の方を見もしない。何とか振り返ってもらえないか、と子供らしい感情を抱いた詩織は話を続ける。野球の実況の声を邪魔しない程度の声量にすることに気を遣った。

「本はさぁ、何でも良くって。漫画はあかんってセンセ言わはったけど漫画も面白いのあるから男子とか選ぶかもしれへんよね」

「それで怒られたりする奴、お父さんの時も居たなぁ」

 返答が来て胸がどきどきする。この人が子供と会話するなど本当に極まれなことだ。

「ね、居るかもしれへん。詩織も漫画好きやけど」

「詩織は決めたんか、本」

 話を終わらせたがっている空気を父から感じ取った詩織は薄く笑う。

「まだ決めてない」

 そうか、と言った父は野球の画面の方にずっと目を向けたままだ。フツーってどこまでなんやろうか。愛理ちゃんも教室でこの前「お父さんテレビばっか見ててさ」と愚痴言ってたから大丈夫や。これがフツーなんや。詩織は黙って母が図書館で借りてくるだろう本に思いを馳せる。何の本でもどうでも良いと感じていた。感想文を書けと言われる度、詩織の心は疼く。

 思ったことをそのまま書きなさいという言葉は小学生の大半に届かない。読んで思ったことなど「面白かった」の五文字で終わってしまう。もっと頑張って「主人公がかっこよかった」くらいだ。大人はそんなものを求めて居ないことぐらい詩織でなくとも分かる。クラスの隣席の男子だってきっと分かっている。「こういうところに憧れました」「私も見習わなくてはいけないと思いました」「この問題はみんなで考えていくべきだと思います」そんな真摯な触感の良さで大人は子供の文章を良いと悪いに分ける。そういう感想を書ける本は小難しくて、正直「面白い」とは言いがたい。幼子の素直な感情というものに、皆期待しすぎだ。一握りの天才だけが素直にそうした表現を発露できるのであって、凡庸な我々にはひどく難しい。

 子供の書いた詩を取り上げた本を借りてきた母が、詩織に「詩を書いてみなさい」と勧めたことがある。詩織はいくつか書いてみたが、どれも母の笑顔には繋がらなかった。そもそも詩織は自分の想像力が乏しいことをその時思い知った。「空はどうして青いのか」というような内容の詩を読んでも、青いのだから青いに決まっているとしか思わなかったし、飛行機雲のことを「飛行機がペンキで空にお絵かきをしている」と表現した詩を見てもそんなままごとめいたことをしている訳が無いと思った。

 時折、詩織は自分が恐ろしく孤独であるように感じる。大人が気に入るように振る舞う子供というのは、詩織が見る限り自分以外どこにも存在していなかったからだ。皆、ある程度のわがままを言い、自己表現に必死だった。自分はこんな風に思うのだが、私の話を聞いてよ、僕はあの子が嫌いだ。詩織はその真逆だ。周りの人間が詩織を気に入るように、その場の空気を乱さないように自分を殺す。

 ピンク色が好きで姉とお揃いが嫌いな妹の為に、いつも水色のボーイッシュなデザインのものを選ぶ。苺味が好きな妹の為に冷凍庫からソーダ味のアイスばかり選ぶ。祖父を喜ばせる為に勧められたものは何でも口にして「美味しい」と笑う。博物館に連れて行かれた時は興味深げにメモを取る。

 自分を殺して殺して殺しきった先には何も無い。詩織は自分が何色を好きなのかわからないし、何味のアイスが好きなのかも知らないし、どんな食べ物を美味しいと感じるのかも知らなくて、何が面白くてメモを取るのかさえ知らない。

 だから時々、詩織はこう考えてしまうのだ。

 なぁなぁ、うちってほんまにうちやろか。皆が詩織ちゃんて呼ぶんは関東弁のちょっと間抜けで勉強だけ出来るうちや。水島さんって呼ばれるんはええ子のうちや。しーちゃんて呼ばれてんのは甘えたの何も出来ひん木偶人形のうちや。なぁ、うちって誰やろな。水島詩織って誰やろな。

 そしてその思考の対象は周囲にまで広がっていく。

 お母さん、お父さん、香織。この人たちは誰なんやろう? 水島詩織って人間の血縁らしいけど、うちにとっては知らん、関係ない人や。うちが明日起きてうちと違う人間になってても、誰も何も思わへん。それぐらいうちは何にも持ってない。うちの個性なんて無い。

「詩織、行儀悪いよ」

 はっと我に返ると、テーブルの上に肘をつきながら夕食を取っていた。

「ごめんなさい」

「どうしたん、ぼんやりして。ミートボール、好きやろ?」

 好きでも何でもない肉の塊を箸で掴んで喜ばしい顔をしながら頷く。

「うん、好き。ありがとう」

「ガッコで嫌なことでもあったんか」

 母の求める水島詩織は学校で問題など起こさないに決まっているのに、奇妙な質問だ。何も無いと言って丁寧に食事を進める。味はするのだが、それが好きだとか嫌いだとかは今ひとつ分からない。

「そうそう、お母さんな、また作ったんよ。ビーズの犬。またしーちゃんも一緒に作ろか」

 詩織の母の趣味は手芸やフラワーアレンジメントだ。家には細々とした綺麗な者が並ぶ。ビーズの犬とはそのまま、ビーズをテグスに通して作った犬のことで、親指ほどの大きさをしている。

 にこやかに「また作ろ」と鸚鵡返しをした詩織はビーズと言えば、と数週間前の出来事を思い出していた。その時は図工の授業で何かお店屋さんを作るという課題があったのだ。家に帰り、母親に迅速に報告すると母は直ちに計画を練り始めた。

「手芸屋さんがええわ。材料やったらうちによぉけあるし」

 そうして母は詩織が学校で踏むべき手順を綿密に組み上げた。店の土台にはこの箱を使いなさい。この位置に棚としてこのお菓子の箱を貼りなさい。このバランスが良いから分かりやすいよう番号を振りましょう。刺繍糸を短く切ってまとめて、ミニチュアみたいにしなさい。そして手芸屋さんにはビーズも売っているから、と母は美しく色ごとに分けられたビーズを取り出す。寒色は寒色で混ぜて、暖色は暖色で混ぜて。そう言いながらチャック付きのビニール袋にビーズを何種類か注ぐ。水色、青、緑の混ざったビニール袋、オレンジ、ピンク、黄色の混ざったビニール袋が母の手元で作られる。

 何も口出しして殴られた経験などは無いのだが、詩織は本能的にこの行為は邪魔してはいけないものだと察知している。ざららら、と流れるビーズの音を聞いた時にようやく口を開いた。

「これでさぁ、テレビの。効果音とかさ。波の音にしはんねんやんな」

「そうそうそう。こう、ざらざらーってしはってな。上手い具合にしゃはるもんやわ」

 関係の無い話だがくすくすと母が笑う。この手の話題は母が喜ぶ。そうしてまた詩織は黙った。いい加減、教師も気づかないのだろうか。小学四年生がこんなに凝ったものを作れるものか。あんな文章を書けるものか。詩織は小さく大人を馬鹿にする。気づかないのだろうな、と。同時に自分へ嘲笑を向ける。坂木くんは一人であんなに立派な絵を描いた。麻理ちゃんは一人で書いた作文をあんなに褒められた。私はどうだろう。教師からみた水島詩織はそうだが、本当の私は何も出来ない。母が作り上げた作品を自分のものだと表に出すとんだ恥知らず。今からでも遅くない。自分でやると言え。言え。詩織は膝を抱え込み、丁寧に仕込みをする母を見つめる。懸命に汗を流す母を見ていると、唇は硬く閉ざされて何も言えやしないのだった。

 ビーズが一粒、母の手から溢れて飛んで行く。あ、と声を上げたが母は気づかなかったらしい。

「ビーズ、落ちたみたい」

「ああ、ほんま。でもまぁええわ。ぎょうさんあるし。みんな一緒や」

 自分はこのビーズに似ていると詩織は思った。何というか、使いようによっては輝くのだがいくらでも代わりが居る存在。個性を殺した果てが此処にある。手から滑り落ちても気にされない。

「いつか掃除機で吸ってしまうかもしれへんね」

「ああ、そういうこともあるやろねえ」

 恐らく、自分の行き着く果ては落ちたビーズと同じくゴミ箱なのだ。そのことに気づいた時から詩織にはとある囁きが聞こえる。

「この人たちは私が死んでも悲しまない」

「この人たちは私が不出来なビーズだと気づいている」

「この人達は私を殺して(不揃いなビーズを捨てて)新しい子供が欲しいのだ」

「それをしないのは愛ゆえではなくただ罪に問われるから」

「お前を愛するのは仕方無しだ。事故死してくれと願っているよ」

 その声を聞いていると夕飯の味がしなくなって、にこにことしている余裕もなくなる。だがそれではますます死を願われる確率が上がるので無理に詩織は笑った。

 翌日の昼休みのことだ。学校で話すと子供らしく振る舞ったり生徒に擬態しようとしたりと忙しいので詩織は黙って本を読んでいた。そこに声がかかる。

「水島さん、今ヒマ?」

「うん。本読んでただけ。細野さん何か困ってるの?」

 細野多恵はクラス内でかなり地位の低い女子生徒だ。はっきり言ってしまえばいじめに近い扱いを受けている。教室に入るだけで失笑されたり、グループ活動の際に無視されたりとそんな具合だ。だがこれはいじめではないと皆が思っていた。詩織もそうだ。

「あのね、池の近く行こうとしたらまた川木さんに追い払われちゃって」

 愛理は多恵のことが気に食わないのだ。始まりは何だったのか転校生の詩織は知らない。多恵に聞くのも悪い気がしている。愛理のグループを通りがかった際、「顔が気持ち悪い」「クサい」と言いながら多恵をちらちらと見ていたので些細な切掛けなのだろう。

「池に用事?」

 校門近くに魚が飼われている池がある。特に生徒が立ち入るような用事は無かった筈だ。

「池じゃなくてさ、近くに植木鉢あるでしょ。あれに水やりしてるの」

 池じゃなくて、という辺りにやや棘のある言い方だった。この口調は多恵の個性で、こういうところから嫌われていったのかも知れないと詩織は推測してみる。

「私が行こうか? それとも付いていく?」

「一緒に来て欲しい。水島さんなら川木さんも何もしないと思うから」

 どういう意味なのだろう。愛理を黙らせるほどの力は詩織にはない。疑問符を浮かべながら詩織は本を閉じ、多恵に同行することにした。

「ここでペットボトルに水入れるんだ」

 あまり通ったことのない校門脇の通路には小さな蛇口があった。へえ、と言いながら付いていく中、またあの声が囁いてくる。多恵が欲しているのは詩織じゃない。言うことを聞きそうな奴を選んだだけだ。お前は「多恵の親友」というポジションの代替品だ。

「うわ。また来た」

「何あれ。水島さん連れてるじゃん」

「キッショいな。仲間居れば平気だと思ったワケ?」

 愛理達が聞こえるように言ってくる中、多恵は涼しい顔で水やりを始めた。

「あー、やだな。何かここクサくない?」

「ホントだよねー。ついさっきから急にクサくなったっていうか」

「やだコッちゃん、わかりやすすぎー。そんなの流石にアイツも気づいちゃうって」

 多恵の手が少し震えていることに気づく。詩織は「大丈夫?」と小声で尋ねた。

「ごめんね。傍に居てね。もう終わる」

「いいよ」

 暴言の飛び交う池周辺は穏やかな陽気だ。夏へぐんぐん進んで行く気温に池の水音が涼しくて心地よい。多恵が水をやっているのはアサガオだった。青紫色のつぼみが渦を巻いて空へと突き立っている。水をやり終え、詩織と多恵の二人が立ち去るまで愛理達は多恵を遠回しに罵っていたが突き飛ばしたり泥をかけたりすることは無かった。

「ありがとう。水島さん、先生に気に入られてるでしょ。だから川木さんたちはさ、水島さんがあたしの巻き添えになって汚れたり怪我したりするのが怖いんだよ。そんなことになったらきっと先生、あたしが怪我した時よりずっと怒って犯人捜しするでしょ。先生もあたしのこと嫌いだからさ」

 うん、としか詩織は言えなかった。すぐに愛理たちがこちらにやって来たからだ。

「水島さん、ちょっといい?」

 断れる筈もない。詩織は一人愛理達の方へと引っ張られていく。多恵は教室に戻る道を行きながら寂しそうに笑っていた。愛理が真剣な表情をして言い出したのは意外な言葉だった。

「あのさ、大丈夫だった?」

「え、何がかな」

 困惑した様子の詩織を取り囲むようにして輪が形成される。

「細野だよ。アイツ、ジコチューでしょ。水島さんみたいに言うこと何でも聞いてくれそうな子のこと良いように利用するんだ」

「一人がお似合いなクセしてさ。サイテー」

「ホンット、キモいよね。水島さんだって休み時間することあったでしょ。それを無理やり連れ回してさ、ひどいよ」

 詩織は困り笑いのまま首を傾げている。シャカイって本当に難しいんやわ。被害者も加害者もどうしようもなく善意だ。この構造が分かっているから、いじめ調査のアンケートに誰も「いじめがあります」なんて回答をしないのだ。道徳の授業やドラマで見るいじめはもっと陰湿で残忍で、どうしようもない悪がやることだ。そして被害者は全くの善だ。だからこれはいじめじゃない。

「あの、平気だよ。私が、あのさ、お願いしたの。アサガオに水やるところ見せてって」

 愛理は詩織の泳ぐ目を射すように捉える。

「そう言えって言われたの?」

「そうじゃないよ」

 愛理の威圧するような調子に、声がどんどん小さくなって泣いてしまいそうになる。身長の高い愛理は覆い被さるように詩織に抱きついた。

「無理しないで、水島さん。泣かないで。ちゃんと懲らしめるから」

 詩織はぽんぽんと頭を撫でられる内に涙をこぼしてしまった。ここで泣いてしまえば多恵の罪を認めたようなものだ。

「ごめんなさい、そうじゃなくって。そうじゃないの」

 結局この言葉はかき消されていき、水島さんは可哀想な被害者だという結論になってしまった。

 涙を拭い、昼休みが終わってしまう。放課後に何が起こるか予想した詩織は教室に戻った折、さっと多恵を見る。あまり長く見つめているとすぐ傍の愛理から「目、会わせない方がいいよ」と苦言が飛んで来てしまう。

 おどおどして何もかも人に頼り切りで、流されっぱなしの自分に水島詩織なんて名前を付けたくない。母に。母に捨てられてしまう。もっと踏み込んだ表現をするならば、この姿がバレれば母はもう詩織に見切りを付けるだろう。あの丁寧な手芸をするときのような綿密さで丁寧に誰にも分からないように殺されてもおかしくない。詩織は小さく身体を震わせ、弱い自分を恥じて殺した。だから五限目からはいつも通りの水島詩織だった。

 帰宅すると、母が本を手に二冊持って待ち構えていた。

「お帰り。アイス食べながらでも後でもええし本読んでな」

「選んでくれたんや。ありがとう」

 分かりきっていたくせにわざとらしく驚いて礼を言う。母の持っている本は宮沢賢治の「よだかの星」と震災についての本だった。どちらも詩織が普段手に取らないジャンルだ。

 手芸屋の時のようなやりとりがまた始まることを察した詩織は母が喜びそうなエピソードを今のうちに思い浮かべておくことにした。

「それで、しーちゃんどう思た?」

「よだかの星」を読み終えた詩織に母が尋ねる。

「かわいそうやなぁと思った。よだか、ひとりぼっちやもん」

 母は詩織が言った言葉の何倍もの量のメモを連ねていく。「よだかはけっきょく一人ぼっちになってしまったので私はとてもかわいそうだと思いました」「でも一人になったよだかがきれいな星になれたので少しほっとしました」「だれかを意味もなくいじめるのはだれのためにもならないのだなと感じます」

「何か思い出したこととかないんか?」

 母の質問に今日経験した出来事がふと頭に蘇るが、あれは完璧な水島詩織がやってはならない失態だった。口を噤む。詩織はしばらく悩んだ末に「星になるんはええかもしれんけど、詩織は暗いのは嫌いや。あんま星になりたない」とだけ言った。母は少し考えていたがゆっくりと微笑む。この微笑み方が詩織は好きではない。そんなこと言ってはだめでしょう、と諫める笑み。正解からは遠いですよ、というバツ印の笑み。もっと出来た子の振る舞いをしないと許しませんよ、という笑み。

「よだかは自分の命よりかぶと虫の命が大事なんやろ。それはすごいと思った」

 正解らしきものを捻り出す。母は黙ってメモにペンを走らせていた。

「次、こっち。地震の本。どやった?」

 詩織はしばらく考えた末にこう言う。

「なぁ、それさ、さし絵めっちゃきれいやった」

「ああ、そうなん。中身はどやったん。しーちゃん、何も思わんかったん?」

 挿絵がきれいだったことと、それにしては解説キャラクターのねずみの顔が不細工だなと思ったのが正直な感想だ。だがあの微笑みをまたされるのが恐ろしいので詩織は目を逸らしながら適当に母が気に入りそうな話題を探す。

「地震、危ないなぁって思った。詩織はあんま地震あったことないけど」

「そやねぇ。お母さんが若い頃に一回大きいのあったんやけどな」

「じいちゃん家、つぶれへんかったん?」

「潰れる思たけど大丈夫やったね」

 母が快活な笑いを漏らしたので安堵する。詩織はやはり自分の中身はスカスカの空っぽなのだなと自覚した。ビーズにも真ん中に穴が空いている。何を感じたのか、何を思ったのか、何が好きで、何が嫌いか、全部分からない。ただその場の状況に合わせて適当に選んでいるだけだ。

 うちは何が好きなんやろ。なんも好きやないよなぁ。

 囁きが言う。空っぽがバレないように振る舞えよ。さもなきゃ殺されるんだから。

 詩織は暗い家の中でぽつりと自分に言い聞かせるように言う。

「うん。地震、こわいなぁ」

 さて、詩織が母との共同作業を終えて真夜中になり眠る頃、彼女が覚えていない頃の記憶がぼんやりと無意識に浮かび上がってくる。

 狐だ! 狐憑きだ!

 父方の祖母がひそひそと両親に何事か話している。

 やっぱりね、あなたの信仰が足りないから詩織ちゃんは駄目な子なのよ。香織ちゃんもでしょ? 狐が憑いているのよ。あのかんしゃくの起こし方は異常だと思わないの。

 盗み聞きをしている背後、従兄弟からバーン、と指で作った銃で撃たれる。わぁ、と言って詩織は大げさに死んだふりをする。

 大人たちは子供の存在に気づき、しんとなった。一瞬の間が空いて、不自然な程明るい笑い声が響いてくる。幼い詩織は空恐ろしくなって生き返る演技も忘れて大人達の笑い声が聞こえないよう耳を塞ぐ。

 囁きだけが鮮明に布団の中に居る詩織の耳に残った。

 お前が良い子でなければ皆、不幸になるんだ。生き延びたければ良い子で居ろ。お前自身の幸せなんか二の次だろ?

 詩織の母は信仰が嫌いな人間だった。嫁いだ先が信仰深い家だったのがまず一つ目の不幸だ。二つ目の不幸は、夫である父がそれに対して何の感情も抱かなかったこと。

「信仰するのが嫌なら自分でうちの母さんに言えばいいじゃないか。僕は知らない。君の問題だ」

 三つ目。信仰しないことを何とか断言した母から生まれた子、詩織が狐に似た目をしていたこと。

「いやや、狐みたいな子」

 四つ。詩織が少しでも悪い事をすれば「狐の祟りだ」「狐憑きだ」と祖母が善意から言ったこと。

「今からでも信仰してみたらどうかしら。お祓いなんかも良いかもしれないわ」

 母は拒絶した。この子は狐憑きなんかやありません。とても良い子です。ね、良い子やんね、詩織。詩織、ええ子やんね。いつでも賢いすごい子やったよね、詩織。これからも。なぁ詩織、詩織。

「詩織! 起きなさい、朝やで。ガッコ遅れる」

 詩織はその声で目覚める。途轍もなく嫌な夢を見た気がした。少し吊り目気味の目を擦り、朝食へと向かう。今日も学校なのか、と思うと憂鬱だった。

「はよ食べなさい。本はどっちするか選んだ?」

「んーと、よだかにしよかな」

 ちらりと母の顔色をうかがう。どうやら正解を引き当てたらしく、あの穏やかな拒否の笑みは浮かんでいなかった。

「ああ、やっぱりそうやんな。お母さんもそっちがええと思てたんよ。有名やしね、宮沢賢治さん」

 正解を絶えず選び続けなければいけない詩織はクイズ番組やクイズの催しが何となく好きになれない。間違えた選択肢を選んだ人間が罰ゲームを受けて、皆が笑う。どうしてもその時、本心から笑えないのだ。そして「水島詩織」の完璧さが脅かされないか始終気を張る。

 学校に行くと、多恵が話しかけてきた。遠くの席で愛理が目を光らせているのに大した度胸だ、と詩織は感心する。

「水島さん、おはよう」

「おはよう。アサガオ、今日も付いていく?」

 これで「うん」と言われたらどうしようかと詩織はハラハラしながら微笑みを形作る。

「今日からは良い。川木さんたち、目的が変わったみたいだから。昼休み、多分池には来ない」

 多恵の言っている意味がよく分からず詩織は笑ったまま首を傾げる。

「詩織ちゃんさ、よく笑うよね。その時、目がぎゅってなって可愛い」

 突然名前で呼ばれたことに少しうろたえてしまった。母の作ったものを褒められることは多いが、目は初めてだった。

「そうかな。気にしてんのやけどね、これ」

「あ、関西弁。転校してきた時はずっとそれだったよね。なんで止めたの?」

 個性を殺す為だとは詩織自身あまりよく理解していない。言語化できる自信が無かった。

「みんな、関東弁だから。うつっちゃった」

 片言になりながら取り繕う。だが多恵の距離感の近さに戸惑いを隠せない。へぇ、と納得した様子の多恵は愛理達に視線をやると「じゃあね。ありがとう詩織ちゃん」と言って去って行く。何だったのだろうと考えているうちに朝の会が始まる。

 特に何事もなく終わったが、愛理が苛立っていることはクラスの七割程度が気づいていただろう。一時間目までの僅かな休憩時間、今度は教師が詩織に話しかけてきた。

「水島さん。読書感想文の本は決まった?」

 大人の方が分かりやすくて助かる、と詩織は感じる。教師は期待しているのだ。いつも提出物や宿題を期限より随分早く出して優秀な出来を見せつける詩織の才覚に。それがうちの母の功績だとも知らず御機嫌なことですね。心の中で詩織はそう皮肉を吐いたが表情には出さない。

「はい。『よだかの星』にします」

「おぉ、すごいね。大人でもきっと難しい本だよ。頑張ってね」

 優等生の顔をして詩織は自慢げにすることもなく「頑張ります」と小声でしおらしく呟いた。大きな課題だと知って少し気後れした優等生の雰囲気が出せただろうか。教師がははは、と笑ったので正解だ。

「そんなに気負わなくていいよ。思ったことをそのまま書いてね」

 ああ、出たな、と詩織は心中で冷笑する。お手本のような事など実際には一度も思ったことが無い自分にそれを言うのか。

「わかりました」

 教師は自慢の生徒だと言いたげに頷いて一時間目の用意をし始めた。愛理が遠くでひそひそと話しているのが気に掛かる。いじめの標的がこちらに変わってしまっていたら、それは完璧な「水島詩織」の死だ。誰にも言えない。いじめ抜かれて殺されるまで二年間は耐えなければならない。それだけの強さが今の自分にあるだろうかと詩織は計算する。結論としては、無い。その場に合わせた行動をして精神を殺すのが得意なだけで肉体的な痛みに対する耐性は低い。母は気づかなかったことにするか、詩織を完璧な被害者に仕立て上げようとするだろう。そのやり方では駄目なのだ。愛理達は何も哀れな被害者をいじめているつもりなど毛頭無い。

 昼休みがやってくる。多恵は早々にアサガオの水やりに向かったのか既に姿がない。そして愛理達が詩織に近付いてきた。

「水島さん」

「なに?」

 警戒しすぎだろうかというほど声を張り詰めて答える。

「私たちね、水島さんのこと」

 うん、という声は震えてしまったかもしれない。

「守ってあげようと思って」

「守る?」

 使命感に満ちた表情で愛理達は肯定する。

「今日も朝、水島さん来る前に細野に言っといたからね」

「水島さんにメーワクかけんなって」

「お昼はさ、私達とおしゃべりしよーよ。それならアイツも寄ってこないでしょ」

 少しだけ気が緩むが、警戒を解いてしまってはいけないと詩織はぎゅっと目を閉じる。本来、詩織はこのグループに入れるような地位ではないし趣味も違う。お情けで入れてもらった代償は大きいに違いない。それに、普段から仲良くしている希美との関係はどうなるだろう。一緒に帰る習慣が廃れると希美が不快に感じる可能性もある。

「ありがとう。でも、ずっと一緒じゃなくても大丈夫だよ。ほら、今だって細野さん、どっか行っちゃったみたいだし」

 おそるおそる言葉を選ぶ。本当に同年代相手のクイズは難しい。機嫌を損ねないようにと過剰に演出すれば大人は却って喜ぶが、子供はそこに嫌悪を感じ取る。だがずっと一緒にお喋りというのが互いにとって長期的には不利益しか生まないことは目に見えている。

「そっか。そうだね。水島さん、本読むのも好きだもん」

 私には理解出来ないけど、という距離感と優越感を最後の言葉に含ませて愛理は「困ったらいつでも言って。約束」と小指を差し出した。そこに詩織が小指を絡めると、力強く振られる。周りの子が指切りげんまんの歌を歌う中、愛理と詩織は黙って互いの目を見つめていた。

 その他に特筆すべきことは起こらず、無事に学校での一日が終わっていく。愛理達の目的が変わったというのはこういうことだったのかと多恵の聡さに詩織は舌を巻く。良い具合にあの騒がしい正義の連中を此方に押し付けてくれたものだ。今後も多恵への嫌がらせ自体は続くだろうが、つきまといはぐっと減る筈だ。

 ふぅ、とため息を吐きながらマンションのドアを開ける。ただいまの声に張りがないのが自分でも分かった。

「おかえり。どないしたん」

「なんもないよ」

 不格好なビーズは工場で弾かれてゴミ箱行きだ。詩織は別の話題を探す。

「センセェな、本えらびましたかって聞かはった。まだ来週なってへんのに」

「ほんま。選んどいて良かったねぇ。センセ、褒めはったやろ」

 母は驚きつつも期待されている我が子が誇らしいのか、確信に満ちた問いを投げかけてくる。ほら、お義母さん、狐憑きなんかじゃないでしょう。

「ええ本選びましたねって言わはった」

 詩織は事実と異なる言い方をした。教師は正確にはそんなことを言っていない。ただ、詩織が考え得るこの場での最適解はこの返答だった。

 そやろ、と笑う母を見てやはりこれが当たりだったのだと安堵のため息を吐く。

 それからしばらく、何という事も無い日々が続いた。夏休みが近づいている。校門近くのアサガオは見事な花を登校時間に開かせるようになっていた。

「水島さん、これ持ってて」

 冷房をつけていてもまだ暑い昼下がり、教室に汗びっしょりでばたばたと駆け込んできた愛理は一つの物を読書中の詩織に手渡した。布の柔らかい感触が手に当たる。

「何、これ」

「いいから、いいから。隠しといて」

「アイツ、ぜったいこまるよ」

「私たちがとったって思い込んでるもんね」

 他のクラスメイトも何となくこの会話は聞いているような気がした。詩織は言われた通り、机の中によく見ていない布製の何かを隠す。数分して、多恵が汗を流しながら教室に駆け込んできた。クラス全体が小馬鹿にしたような笑いを漏らす。詩織は笑えなかった。本の中に口元を隠して熟読中の振りをする。

「川木さん。返して。あれママが作ってくれたの」

「ママだって」

 くすくすと笑い声がする。

「売り物じゃないの。大事なものなの」

「何それ。売り物だったら大事じゃないんですかー?」

「サベツじゃん。先生に言っちゃお」

 多恵は珍しく感情を露わにしていた。それだけ取られた物が大切なのだろう。

「いいから返してよ!」

「自分で探せば? この教室のどっかにはあるんじゃないの」

「池に捨てたんじゃなかったっけ?」

 やだ、きったなーい、と愛理の周りの女子達がさざめくように笑う。もういいと言った多恵は愛理の机周りを探し始めた。机の中を覗こうとしたところで愛理から冷たい声がかかる。

「どこ見ようとしてんの? プライバシーとか知らない? ってかそこには無いし。やめろよ」

 そう言って突き飛ばされた多恵は尻餅をつく。そうしている内に昼休みが終了するチャイムが鳴った。教師が入ってくる前に多恵以外の全員が自分の席へと戻っていく。

「はい。五時間目は算数ですね。細野さん、何してるの。さっさと席に着きなさい」

 またくすくすと笑い声が教室に響く。同調圧力の波に押し潰されそうな詩織は自意識を可能な限り殺し、無表情であることに努めた。水島詩織はクラス内でいじめに加担してはいけない。かといってクラス内で浮いた存在になってもいけない。いじめの対象になってもいけない。笑っていないことが誰にもバレていませんように、と算数の教科書を慌てて取り出す間抜けな生徒を演じる。机の中に手を突っ込んだ時、布の感触にぶち当たる。深く考えるまでもない。これが多恵の探しているものなのだろう。心臓の鼓動が速まる。素知らぬ顔で教科書を取り出すには多大な努力が必要だった。

 机の中のものをしっかりと見られたのは放課後、多恵が傷心した様子でどこかへ向かった隙だった。それは手作りの給食セットだ。給食を食べる際に机に敷くランチョンマットやお箸、お手ふきや小さなタオルなどが入っている。どれも多恵の母が熱心に作ったようで、売り物と遜色ない。長く中身を見つめていると何だかいけないことをしている気持ちになって詩織はすぐにきゅっと入り口を紐で閉める。

「それ。好きにしていいよ。水島さん、細野で遊んだことないでしょ」

 愛理の取り巻きの一人がそう言った。彼女がこの給食セットを多恵から奪った犯人らしい。そういえば、今日の給食時間に多恵は教師に忘れ物をしたから割り箸を貸して下さいと申請し、机には頼りないハンカチ一枚を敷いていたのだった。使われた形跡がないのはそういう訳か、と合点する。詩織やこのクラスの人間にとって多恵がそういう人為的な不遇からなる行為をするのは特に珍しいことでもなかったので見逃していた。

「あ。えーっと」

 先生にいじめを報告する絶好のチャンスだぞ、と「水島さん」は言っている。黙って多恵に返しなよと「しーちゃん」は言っている。「詩織ちゃん」はこっそり落とし物箱にでも入れちゃえと言っている。正解がわからない。

「考える、ね」

 曖昧な返答はもう誰も聞いていないようだった。何かしら多恵の反応を見ないと駄目だ、と判断した詩織は机の上のランドセルに腕を載せて放課後の時間が過ぎていくのを待つ。母は帰りが遅いことについて説明を求めるだろうから、何か優等生らしい言い訳を考えねばならない。

「詩織ちゃん、帰らないの?」

 希美の誘いに「ちょっとお腹痛くて」と返す。これなら気を悪くさせないだろう。

「もうちょっと休んでから帰る。あんまり痛かったら保健室にも行くね」

「水島さん、バイバイ」

 希美との会話を中断させながら愛理達がぞろぞろと帰って行った。

「うん。バイバイ」

 給食セットをどうしたものかと考えていると本当に腹痛を感じるようになってきた。どうするにしろ、人目が少ない方がいいのは間違い無い。

「じゃあみーちゃんとさっちゃんと帰るね。明日はまたいっしょに帰れるといいな」

「ごめんね、また明日ね」

 教室からは生徒がまばらになっていく。遊び足りない男子は校庭へと向かい、本を読みたい子は図書室へと向かう。机の中に入れたままだと、いつか教師が見つけてしまうかもしれない。詩織は人気の無い教室で手提げバッグに多恵の給食袋をそっと入れた。夕焼けが痛い。

 どの私が正しいのだろう、と詩織は三つの選択肢と向き合う。

 いじめの告発。これは長い目で見れば一番正しい。いじめは犯罪だというポスターが思い返される。おまわりさんに何か言われたとき、胸張って私は正しいって言えるんはこれや。だが告発するということはクラス全員を敵に回すということだ。これから二年間は一緒に居るクラスメイトと、いつ来るかもわからない警察。どちらが怖いかと言われれば前者だ。

 多恵に返す。どんな顔をして返すのが正しいのだろう。いじめから助けるようなマネをしておいて、実は加担していましたなんて言えるわけがない。そして今までは消極的に多恵の味方で居たが、これは積極的な表明だ。多恵と詩織がセット扱いされ、今後いじめの対象になることは想像に容易い。

 多恵と顔を合わせることなく自然に返っていくよう落とし物箱へやる。これも微妙なところだ。箱は昇降口のところに誰でも見やすいように置いてあるから愛理達も見るだろう。彼女らは詩織のことをいじめ共有の仲間ではないと判断し追い立てる筈だ。

 結局の所、給食セットを受け取らせた時点で愛理の策は始まっていたのだ。自分達の行為にクラスで唯一消極的な詩織が、どの立場なのかはっきりさせようとしている。

 人気のキャラクターをモチーフにした大人っぽいデザインの、既製品の給食セットを携えている愛理はどんな気持ちでこれを取ろうと言い出したのだろう。売り物だったら大事じゃないのかと言った愛理の表情は僅かに傷ついているように見えた。

 愛理のことはどうでも良い、と詩織はランドセルについた蛙のお守りを握り締める。私の岐路だ、と感じていた。空っぽで何も考えられない水島詩織は母親に頼ることなく一人で決断しなければならない。

 多恵の顔を見て決めよう。アニメや漫画でも、目を見れば分かるというようなことを言うじゃないか。そしていよいよ、多恵が教室に帰ってくる。

 多恵は疲弊しきった表情でドアを開けて入ってきた。詩織が居る事など気づいてもいない様子だ。そして愛理の机の上に荷物がないことを確認すると、思い切って机の中をあさり始めた。ぎょっとして詩織が顔を上げると椅子が床に擦れてぎぃぎぃ音がする。それで多恵は教室に一人ぼっちの詩織を見つけた。

「詩織ちゃん。川田さんには言わないでね。どうしても見つけなきゃいけないんだ」

「そっか。でも、川田さん、嘘は吐かないと思う。多分ホントにそこには無いよ」

 今私が左手を少し伸ばせばあなたの探し物は見つかる。詩織はそう分かっていながら動けない。口ばかりが流暢に親切な言葉を吐き出した。

「プライド高いもんね」

 納得した様子の多恵は取り巻きの子の机周辺へ捜索場所を移す。無いなぁ、という落胆の声がやたらと広い教室にぽつりと落ちる。涙混じりの声だった。その時、得体の知れない感情が詩織の胸を焦がし始めた。心臓が高鳴っている。作り物の感情ではない、真の感情が初めて胸の内で踊り狂い始めた。

 優越感。高慢。狂喜。

 ああ、これが、これこそが水島詩織だ。これがうちの本性か。空っぽや思てたけど案外あるな。こんな真っ黒けなんやったら空っぽの方がマシやったけど。やっと見つけた。

「多恵ちゃん。私、帰るね。いっしょに探してあげられたら良かったんだけど、習い事があるんだ」

 時計へ視線をやった詩織はピアノの練習がある、という設定の仮面を被る。

「ごめん。また明日手伝えたらやるよ」

「今日、見つけてしまいたいけどね。付き合わせてもまた川田さんたちに何か言われるよ」

 そう返答すると知っていた。時間やば、と分針が動くのを確認した詩織は駆け出す。手提げをひっつかむようにして教室を飛び出す。走ってはいけない廊下を飛ぶように駆ける。

「あはは! アホみたいに這いつくばって探してた。あの横面けとばして泣かしたらええ気持ちやろなぁ!」

 声にこそ出さないが、心がそう叫んでいた。こんなに喜びを感じたのは初めてかもしれない。そうだ、自分の力で何か為したのは初めてだ。走りながら涙が出てくる。アスファルトに滴をまき散らしながら家へと走る。ははは、と乾いた笑いが口から出ていた。視界は滲んで碌に見えない。心臓が燃えるように熱い。

 囁きが言った。その本性は誰にも見せるなよ。

「ただいま!」

「おかえりぃ。しーちゃん、走って帰ってきたん。ちょっと遅いし。何で?」

「せんせぇがな、本の今んとこの感想どうですかって聞かはったから答えてた。緊張したしはよ帰りたかってん。あついなぁ」

 すらすらと嘘が口から出る。勢い良く走り出した心臓は頭の回転をかつて無いほどに速くしていた。

 こうして、誰に見せることもなく多恵の給食セットは詩織の手提げの中に仕舞われることになったのだ。一年生の頃、母は子どもの手提げやランドセルの中身を覗くほどに過保護で神経質だったが今は香織のことがある。詩織一人にそこまで労力を裂く余裕が無い為に、夏休みの間、ずっと多恵の給食セットは手提げの中で眠り続けた。

 詩織の罪悪感がゼロだったと言えば嘘だ。時折、返した方が良いのではないかと不安がる心が出て来た。だがどれも作り物の水島詩織の言うことだ。本性の狡猾な狐には勝てない。

 家族旅行に行く時も、母の考えた読書感想文を書き写している時も、母が考案した自由研究をただ言われるがまま進めている時も、詩織は安心して空っぽで居られた。安心して良い子を演じられた。それは空洞の中に潜む傲慢な己を発見したからだ。

 夏休みが明け、秋も通り過ぎて冬の始まりのことだ。教師は真剣な面持ちでクラス全員に語り始めた。

「最近、友だちに対しての接し方がおかしいと思う人はいますか」

 何のことだろうとざわついたクラスだが、教師が無言で黙るよう促したので徐々に静かになった。

「ある人から、いじめのようなものがこのクラスにあると報告を受けています」

 それで皆、多恵のことだと分かった。

「今から一人ずつ、別室でお話をしましょう。終わるまで帰れません。みんなの責任です」

 なんて面倒なことをしてくれたのだ、という心の声が互いに聞こえるようだった。詩織が多恵の方を見てみると、目を伏せて指の爪を弄っている。クラス中の敵意が多恵に突き刺さっているのが見えるかのようだった。

 教室の右端に座っている生徒から席順で来るようにと言い残し、一番になってしまった生徒を連れて教師は教材準備室の方へと向かった。そこまでは余程大きな声を出さない限り、クラスの音は届かないだろう。教師が出て行き、教材準備室の扉が閉まるのを皆注意深く聞いていた。バタン、と音がすると男子生徒が口火を切る。

「めんどくせーなぁ。誰だよ、そんなこと言ったヤツ」

「アタシ早く帰らなきゃ塾に遅れるんだけど」

「オレもオレも」

「お前、塾なんて行かねーだろ」

 けらけらと笑いが渦巻く。笑っていないのは多恵と詩織だけだった。この待ち時間に対する愚痴はそれぞれあるようだが、全ての責任は多恵へと向けられていた。教師はこうなるとわからなかったのだろうか。詩織は考える。きっと、大人は私達のことを純真だと買いかぶりすぎている。もっと私達は大人と同じように汚くて、小狡くて、今から何か教育してどうこうするなんて出来やしない。人間は子どもの時は無知なだけで、悪の形はもう完成している。

 一番目の生徒が戻って着る為にドアを開ける音が聞こえた時は流石に皆黙った。廊下を上履きでぺたぺたと歩いてきたその生徒は「よっちゃん、次おいでってさ」と次の生徒に宣告した。

「何聞かれたんだよ」

「あんま言うなって言われてんだよ」

 一番目の生徒は言いつけを守ってそれ以上深くは何も言わなかったが、多恵へ向ける視線の厳しいことと言ったらなかった。順番が巡っていく。教師と話し終えた生徒は皆一様にふて腐れたような表情で席に着き、早く終わんねぇかなぁとぼやいた。

「水島さん、次だって」

 詩織は緊張しながら立ち上がる。今も手提げ袋の中には給食セットが眠っているのだ。体操服や絵の具箱に覆い隠されてすぐにはわからないだろうが。

 うちは水島さん。うちは水島さん。扉の前でそう唱えてドアを開けると厳しい表情の教師が座っていた。水島さんに向けられる筈のない表情だ。詩織は具合の悪そうな顔で指示された席に着く。

「水島さん。これはみんなに聞いているのであって、あなた一人を責める訳じゃないからそう緊張しないで聞いて。細野さんに皆が嫌なことを言われているのは知ってるよね」

 ああ、と心の中の傲慢がどっかりと椅子にくつろいだのを感じる。この教師はまだ私を水島さんとして見ている。良かった。あの歓喜を知っている訳ではないのだ。本性まで見抜かれたのではないかと思ってしまった。詩織は震えそうになる手を押さえる振りをした。

「知ってます」

 か細い声だ。いかにも無力だった優等生らしい。

「例えばどんなことを言われていたとか、わかる? 誰が、とかでも良いんだけど」

「どんなことと言うか。細野さんが教室に入ってきた時にからかったりとか、です。誰がってことはなくて、何となくみんなにそういう雰囲気があって」

 怯えの感情はつい先ほどまで本当に抱いていたから嘘の言葉にも載せやすかった。

「細野さんからもそういうことを聞いています。それで、水島さんだけは味方だったとも」

「でも、私は」

 そうですと頷きたい気持ちを全力で押しとどめてやんわりと否定する。多恵は詩織のことを信じ切ってくれていたようだ。そのことでまた、心の内にぼんやりと火が灯る。

「そうですね。それなのに何で叱られているかわかりますか」

「見てるだけだったからです。何か言う勇気が無くて」

 この教師は「水島さん」を傍観者として捉えている。まさか母親の愛情が籠もった給食セットを盗んだまま数ヶ月も堂々と学校に通っているとは思わない。詩織は泣き出しそうになる。演技半分、真実半分といったところだ。本性が顔を出しそうになるとなぜか目頭が熱くなる。

「一人でも間違っていることには勇気を持って立ち向かえると良いですね。あなたの書いた感想文にあったように。よだかのように」

「よだかの星」のことだ。読書感想文はクラスでも一番出来が良いと褒められていた。詩織は母の言う通り、一人でも気高く自身の意思を貫くよだかに感銘を受けたというようなことを書いた。しかし空っぽな言葉だ。現に詩織は今、こう考えている。

 でも先生、よだかは最後、一人ぼっちで星になりましたよ。私は暗いところが怖いんです。夜空にぽっかり浮かぶなんて御免なんです。地上でゴミに塗れてしまうのがきっと私なんです。あんなこと、ちっとも思っちゃいないんです。

 唾と言葉を喉の奥にやり、乾いた唇をゆっくりと開けて「はい」と答える。涙が一粒、計算したかのようにこぼれ落ちた。

「もういいですよ。次の人を呼んできてください。味方で居てあげたのはとても、そうですね。そこは水島さんの美点です。これからも大切にしてください」

 そう言われて、詩織は無意識に笑った。涙の落ちた一筋の跡が頬に残っているが、微笑んだ。それは母がよく見せるバツ印の笑顔だ。母譲りの、柔らかで確かな拒絶の眼差しだ。

 なんだ、先生。不正解ですよ。

 そこまで詩織ははっきりと心の中で言語化した訳ではないが、教師にも分からないことがあってほっとしたのだ。何より嫌う表情が自分の顔に表れていることを詩織はまだ知らない。

 詩織が知らないだけで、「私、変な子ばっかり産んでしもたねぇ」と母親に言われた時もこの笑みを返したのだ。

「そう……?」

 穏やかな微笑み。間違っているあなたを許さないという最後の警告。

 図工の授業で、こっそり母には内緒で初めて自分だけの発想で作品を完成させた時、希美から「なんか詩織ちゃんっぽくないね」と言われた時も。

 母の考案したポスターが表彰され、校長先生から「素晴らしい構図だね」と褒められた時も。

 妹の担任から「香織ちゃんは家で元気にしてるかな」と尋ねられた時も。

 祖母が「詩織ちゃんは良い子になったね」と言った時も。

 詩織は忌み嫌う笑みで本心を隠してきた。

 ドアを閉めた途端に詩織の顔から微笑みは消え去った。廊下を一人で歩く。他のクラスはとっくに帰ってしまったらしい。本性の狐火がちらちらと胸を焦がし始める。渡り廊下の手すりにもたれかかった。誰にも聞こえないよう、目に触れないよう下を向き、吹き抜けに向かって大きく口を開ける。声にならない笑いが飛び出した。騙し通せた喜び。一階にまで吹き抜けている空間に息を落とす。透明な笑い声は誰に聞かれるでもなく深く深く落ちて行った。時間にして数秒だった。しかし本性をじっくりと味わうのは多恵の給食セットを持ち帰った時ぶりだ。歓喜に胸が震える。

 妙に間が空いてしまうと教師は怪しむだろうと考え、渡り廊下の先は少し早足で戻った。その間に「可哀想な水島さん」「可哀想な詩織ちゃん」の用意をする。

「あっ、帰ってきた」

「水島さん何にもしてないのにアイツひどいよね。泣いたの? 大丈夫?」

 頬に残った涙を手の甲で拭い、詩織は申し訳なさそうに眉を下げる。

「私も悪いところ、あったから。所沢くん、次だって」

「オレも叱られてくるかな。水島みたいに泣いて帰ってくるからなぐさめてくれよな」

 大げさな泣き真似をする所沢に皆が笑った。詩織もつい笑ってしまったが、これは自分に向けられた嘲笑だから構わないと思った。

 この話題を教師と生徒、一対一でするなら最低でも一分はかかる。単純計算で、どれだけ話が効率よく進んだとしてもクラス四十人全員と話すには四十分かかる。長い待ち時間への苛立ちは多恵への怒りに容易に繋がっていく。

 要するに、多恵への怒りが最高潮に達した辺りで担任教師は最後の面談生徒と共に教室へ帰ってきたのだ。目を合わせないようあちこちに視線をばらけさせる生徒達に教師は言う。

「全員と話したので皆さん事情はわかりましたね。犯人捜しをするつもりはありませんが、きちんと自分が正しいことをしているかしっかり、よく考えて行動してください。先生は卑怯なことも狡いことも嫌いです」

 この言い方は反感を買うな、と詩織は他人事のように思う。ぼんやりと話を聞き流すモードになっていた。私達は、先生の好き嫌いなどどうでも良い。先生が嫌いだと言うのならもっと嫌がらせをしてやろうかとまで思う。教師に嫌われたくないから必死になる生徒など居ない。「水島さん」には少しその傾向があるが彼女は教師に嫌われてはいけない、と決まっているだけだから微妙に感覚が違う。

 クラスに居残りさせられた生徒達は、多恵を除いて神妙に頷いてみせた。こうでもしなければ帰れないのだから仕方が無い。ここで意地を張るほど馬鹿でもないのだ。

「では今日はこれまで。何か、言うべき人に言うべきことがある人はきちんとそれを言ってから帰りなさい。明日から気持ちよく過ごせるように」

 多恵に険しい視線が幾つも寄せられる。本当に面倒なことをしてくれたな。最後の最後までかったるい仕事を押し付けてきやがって。そんな教師への不満も含めて多恵へと注がれていく。

 教師ががらりと戸を開けて教室を出て行くと、生徒達は盛大にため息を吐いたりあーあ、とわざとらしく多恵を見たりした。

「愛理ちゃん」

 愛理の取り巻きは何か言った方が良いのだろうかと不安げに愛理に寄り添っている。中心に座った愛理は丁寧に整理された机の中から古ぼけた消しゴムを取り出した。そしてそれを多恵の方へ転がす。

「何か落とし物しちゃったみたい。細野さん、それ拾っといてよ。あげる」

 言葉の裏を読み取れば、これは元々多恵の物なのだろう。多恵は消しゴムと愛理の顔を見比べて黙っている。

「なに、耳も聞こえないワケ? それ、アンタの。拾ってよ。拾えって言ってんだろ」

 張り詰めた空気を感知しなかったことにして、他の生徒はまばらに帰っていく。詩織はもう少し息を潜めて成り行きを見つめることにした。

「聞こえてるし。川木さんさ、口が悪いの直した方がいいよ。女の子はそうじゃなきゃってうちのママが」

 そう言って多恵が消しゴムを拾おうとする。しかしその手が届く前に愛理が思いきり席から立ち上がり、消しゴムを踏みつけて蹴った。教室の後ろ、ランドセルを閉まっておく棚にゴツンと鈍い音を立てて当たる。

「ゴメンね。ゴミみたいだったから見えなかった。汚いよ、それ。手とか消毒した方がいい」

 しゃがみ込んだ体勢の多恵を見下ろしながら愛理は冷たく言い放つ。

「帰ろ。言うべきことは言ったでしょ。アイツが言わせたかったのはゴメンって三文字だけだろうし」

 ランドセルを背負い、愛理が立ち去っていく。多恵は教室の後ろまで中腰のまま近寄り、やっと手元に帰ってきた消しゴムの汚らしさに顔を歪めたようだった。可愛らしいカバーのフィルムがぐちゃぐちゃに剥がれている。蹴飛ばされたせいでゴミや埃も付着していた。

「多恵ちゃん。まだそういうものってあるの?」

 愛理の声が充分遠くなってから詩織はそう尋ねた。

「ある。上ばきとか、給食のセットとか、習字の筆とか。絵の具も無いんだけどこれはわかんないな。あたしが勝手になくしたのかも」

 給食セットという単語に反応してしまいそうな身体を抑える。代わりに大きく息を吸い込んでごまかした。そんなに沢山、と驚いたように。

「あのさ、あのね、いっしょに探そっか。前、だいぶ前にもこんな話したけど。ほら、愛理ちゃん、川木さんたちもう帰っちゃったし」

 多恵は少し迷ったようだが、四十分以上に及ぶ視線の猛攻に疲れ果てていたのか弱々しく口角を上げて「お願いしてもいい?」と詩織に頼んだ。

 教室には二人以外誰も居ない。詩織は夏休み前の盗難一日目を再現したかのような状況に胸を高鳴らせる。あの時と違い、外はもう暗い。寒々しい風が吹いて窓ガラスをぐらぐらと揺らしていた。

「うん。じゃあ、私、みんなの机の中、見てってもいい? 多恵ちゃんがみんなの机さわるとさ、もし見られたら前みたいにドロボーって言われちゃうかもしれないし」

 多恵の細かな動作一つに言いがかりがつけられるのは日常茶飯事だ。狐が舌を出して物欲しげにハッハッと息を荒げている風景が突拍子もなく詩織の脳内に浮かんで消えた。頭が冴える。心臓は暖かな血を流し、手足はきんと冷えている。

「わかった。あたし、窓際とか学級文庫探すね。体操服、この前カーテンの裏にあったんだ」

 うん、と頷いた詩織は愛理の机をそっと覗き込む。中には高価そうなキャラクターものの文房具が丁寧に詰められている。お手本のような中身だ。何が愛理をあそこまで激情させるのかというヒントは見つけられそうにない。取り巻き達の机の中も似たようなものだった。愛理が一番豪華なものを取りそろえていたのは印象通りだ。

 そして詩織は多恵の視線が此方に向いていないことを注意深く確認しながら、自分の手提げから給食セットを取り出す。「無いなあ」と多恵が途中で呟いたので冷や汗が出た。「無いねえ」と答えながら手が震えないよう細心の注意を払う。箸が擦れ合わさって鳴るかちゃかちゃという音でさえ、今の静かな教室には響くだろう。

 多恵の机の中を覗く。要らないプリントを丸めたもので一杯だ。これは間接的に愛理がやったことだ。いつも愛理は多恵の机をゴミ箱と呼ぶから、面白がったクラスメイトが要らないプリントや紙くずをここへ放り込むのだ。ゴミをかき分けていくと悪意を煮詰めたような臭いがした。詩織は全てのゴミを床に散らし、少し臭くなった手をスカートの裾で拭う。そして多恵が随分長い間見ていないであろう机の一番奥に給食セットをぐいと詰め込んだ。

 はやる呼吸を整える。音を殺して深呼吸した。大丈夫だ。私は詩織ちゃん。優しいやさしい、詩織ちゃん。

「あれっ、あったよ。ほら、これ」

 頓狂な声を出し、給食セットを手に持って多恵に見せる。

「えっ、ホントに? うわ、汚されたりもしてない。良かった、川木さんもそれぐらいの優しさはあるんだ」

 駆けよってきた多恵は意外そうに自分の大切ななくし物を受け取った。

「そっか。ここは見てなかったなぁ。なんか、ホントにゴミ箱みたいであたしも触るのイヤだったんだよね。手、洗う? 大丈夫、詩織ちゃん」

「ちょっと待って、嗅いでみる」

 良かったねえと例の微笑みを浮かべていた詩織は真顔になって自分の手の臭いを嗅ぐ。数秒後、「あ、くっさーい!」と噴き出した。多恵も笑う。

「やだー、そこまでさせるつもりなかったんだよ、あたし。ふふ、でもホントにくさい。笑っちゃう」

 ねぇ、と笑いかける詩織に囁きが聞こえた。

 大した化け狐に育ったものだ。罪が雪がれたなど思うなよ。お前の本性は変わらない。

 多恵と笑い転げ、手を洗っても声は消えない。多恵との語らいは、あの夏の夕焼けに感じた愉快さを上回らない。詩織の心が燃え上がらせるのは、他者を騙しおおせた時の優越感だけだ。狐は小狡く鳴いて闇夜に消える。詩織の行く果ても同じなのだろう。

「いつ返してくれてたんだろうね」

「さあ。いつだろうね」

 詩織は自分の笑いに薄く不正解の音を耳の底に感じつつ笑う。狐火がまた燃え上がり始めていた。

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空っぽ女狐 とろめらいど @RinDraume

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