花道はまだ遠いから

とろめらいど

花道はまだ遠いから

 私が見守る小さな和室。四階建ての校舎一階の隅っこにあって、日当たりはまあまあ、といった所です。選択授業の書道の時と、誰か偉い方がいらして講演会をするのに体育館やホールが何処も空いていない時にだけ他の人が使う場所。あとは私と同好会のみんなが放課後にちょっと使うだけ。何度お掃除をしてもどこか古くて懐かしい匂いが取れない愛しい場所。

 一日中、私が最初に部屋に入るまで誰も使わないなんて事はしょっちゅうです。そういう日は、ふすまを開けた瞬間に一日分の光が一斉にあふれ出すような感覚がします。暑い季節は少し嫌気が差すけれど、今日この頃はそれが優しく出迎えてくれるような、そんな心地になるんです。

 私はいつも一番乗りをして窓を開け、外の景色を眺めます。グラウンドでサッカー部がボールを出していたり、陸上部が準備運動を始めていたりするのを見る。ただそれだけです。日によって異なる、一つとして同じものなど生まれ得ない空気をしっかりと感じ取った私は空想の中にそれを写し取って忘れないようにするんです。

 今日はひんやりとした風が頬を撫でていて、空は薄曇り。誰かが上の階で水道を使っているのか僅かに水の流れる音がして、窓枠にかけた指は冷たさを感じている。

 よし、と声に出さずに五感全部のシャッターを切った私はみんなの分の座布団を用意します。その時、はらりと舞い込む花弁一枚。私はその色と形を見て、ああそうか。もう桜が散るのだ、と思いました。


 廊下を黙って歩く男子生徒が居た。急ぎ足になりながら階段を降りていく。足音は軽快に響いた。呼び止める者もなく、彼は道を急ぐ。「廊下は歩こう」という標語が書かれたポスターと職員室を前にしてその足音のリズムはやや緩慢になったが、それでも随分な早足には違いなかった。

 一階の隅にある和室を目指して歩く。そこは彼が所属する同好会に与えられたスペースだ。スッとふすまを開くと既に数名のメンバーが揃っている。

「先輩、早いですね。お疲れ様です」

「ん、お疲れ様」

 彼の後輩と短い挨拶を交わした。きちんとした部ではない、という理由だけではないが他の部活動のような厳しい上下関係は重要視されていない。ふすまを開けてすぐの場所に積まれたいけばな同好会のチラシに書かれた「楽しいよ!」という飾り文字はそれほど嘘でもないのだ。

 代々の人間がこの小さなグループに伝えてきた言葉がある。今でもそれは模造紙に書かれ、壁にはられているのだがもう日に焼けてしまっていた。

「花を生ける事は心を生かすことだ」

 黄色くなって剥がれ落ちそうなテープがひらひらと暖房の風に舞う。もう必要が無い時期だな、と男子学生はスイッチを押して温風を止めた。すかさず後輩の女子学生から密やかな文句が聞こえる。

「まだ寒いのに。ねえカズミ先輩」

「そうだね。でもお花には良くないかも。ありがとうね、セイくん」

 優しい声色で後輩をたしなめる女子学生の手元には花があった。柔らかな桃色と枯れ始めた葉の先端。確かに生きた証が刻まれている。正座した膝のすぐ傍にバケツが置かれ、幾本もの花が浸けられている。

 セイくんと呼ばれた男子生徒は何も言わずに自分の鞄を荷物置き場とされている畳の上に置きに行った。学校生活の中で忘れられていったものが詰め込まれた押し入れの真ん前だ。数少ない人間しか、この収納に何が入っているのか知らなかった。大して興味を惹くものでもないのだろう。取手に埃が積もっている。

「セイくん。今日のお花はね、ハナミズキと雪柳。葉物は鳴子百合とアイビー。花器はいつも通り好きなものを使ってね。丸い奴にする? 可愛いもんね、ハナミズキ」

 ん、という短い無愛想な返事にもカズミ――工藤和美と言う――は嬉しそうに「やっぱり予想通りだった」と笑うのだった。

 授業が終わって三十分ほど経った頃、和美は点呼を取り始めた。いつもこの時間に出欠を確認する訳ではなく、もう今日は誰も来ないだろうと何となく感じ取った時にこうした曖昧な出席確認が行われる。元々、同好会とされるだけの人数しか揃っていないメンバーだが今日の参加人数はその三分の二程度だ。ほどよい出席率と言って良い。

「セイくん。佐々木清一くん」

 無愛想な男子生徒の名が呼ばれる。点呼の時は普段使いの呼び名とフルネームをセットで、というのが和美なりの方針らしかった。

「居る」

「はい、居るね。次は……」

 清一の言葉が素っ気ないのもいつも通りのことだった。彼は目の前のハナミズキの枝をしげしげと眺めている。無造作にバケツから手に取った一本を、角度を変えながら少しずつ花器と照らし合わせているのだ。桃色から白へと変化する大きく開いた花弁は小さく、柔らかく儚いものだったが光と重ねる色合いによって表情がくるくると変化する。対して枝はしなやかに、だが丁寧に花を支えている。曲がり具合から何を語りたいのか、何を読み取るべきなのかを清一は熟考する。雪柳の細かな花の滴はハナミズキからこぼれ落ちた欠片のように表現すれば良い。そこにアイビーの大きく曲線の多い葉をこう加えれば、滴は自ずと流れ出るように見える。

「花は自らの心を生けるもの」という考えとは真っ向から背くやり方だと清一は思いを巡らせる。彼が花を生ける時、そこに清一は居ないのだ。ただまっすぐに自然を再現する。そこに人間は欲しくなかった。

 ハナミズキを主役とした作品は深い黒の花器に生けられた。題は付けない。強いて言うのならハナミズキとだけ呼んで欲しいと彼は言う。主役の花の名前しか厚紙の名札に書かないのもやはり、いつものことなのである。

「清一はどっか気取ってるよ」といつか先輩がこぼした。今はもう誰も文句は言わない。それは彼が作品名とポリシーに見合うだけの腕になったからなのか、ただ単にこの同好会の最高学年が清一と和美だけになったからなのかはわからない。和美は元から何も否定しなかった。

「私はセイくんとお花を生けるのは好きだよ。いつも知らないことを教えてくれるから」

 そういう彼女の花は細々としたこの同好会の伝統を見事に受け継いでいるように思う。それなりに静かな時間の中、数人のメンバーは花を整え、表現することに集中する。私語が禁止という決まりなど無いのだが自然と和美の振るまいがそうさせるのだ。

 右手に持ったはさみの銀色よりも鋭く薄く閉じられた目蓋。長い呼吸。試行錯誤する素振りは無く、真っ直ぐに伸びた背筋。茎や枝を切断する音に迷いは感じられない。

「工藤の花には敵わない」

 誰とも知れずそう言った。日頃、水草のように流れに身を任せ、揺れ動き生きる彼女はよく笑う。魚にくすぐられた葉は水中に真っ直ぐ射し込む光を柔らかく曲げて笑うのだ。だがこの時ばかりは水草は揺らめかない。流れる細い葉の秘一つ一つはあんなにも弱く見えるのに、静まった途端に一本一本が剣先のように見える。

 躊躇いなく切断される枝の音が断続的に響いた。

「出来た」

 和美のその一言で、この和室の空気がどれほど安らぐのか彼女だけが知らない。

「工藤の花は全部を語ってくる」とは清一の言葉だ。三年間同じ場所で過ごし、和美の作品をこの学校の誰よりも見てきた彼の目は正しい。

 和美は、元々華道に縁がある人間だったらしい。幼い頃から作品を作って来たのだと言う。

「そんなに数も多くないし、子供の遊びだよ。先生だって居ない訳じゃ無いけど、好きにやらせてくれる方だよ」

 和美は自身の経歴や作品を褒められるとそう否定する。それでも、清一はあの生け方が洗練されていると感じるのだ。今日何があったのか。今、自分はどんな気持ちなのか。今日という一日限り、二度と訪れない日に何を思ったのか。そうしたことを花が語る。言わば、和美にとって花は最も優れた言語なのだろう。

 彼女が今日、棚に並べた作品は鳴子百合の濃い緑の葉が背景に立つ。流れ落ちる雪柳が緑との陰影の差で迫ってくる。落ちた先にスイートピー。満開とは言えない風合いだ。しおれ始めと言って良い。役目を今にも終えそうな薄桃色を看取るような世界だ。それが角張った黒い花器の中にある。

「和美先輩、タイトル用紙これです」

「あっ、ありがとう。えっと、今日って何日だっけ?」

 七十二候をまとめた小さな本をめくりながら彼女が尋ねる。返答を聞き、彼女は礼を言いながらページをめくる手を止める。そしてしばらく思案した後にさらさらと題を書き付けた。

「春雷」と題された作品は周囲の葉や茎の屑をさっと片付けた後、他の生徒達の作品と同様に写真に収められる。やや古風なタイトルだが、名付け方はいつもこのような流れだ。まだタイトル用紙に制作者の名前を入れて飾っていた頃、和美は古典の教師に意味と意図を尋ねられた。「先生には申し訳ないのですが、あまり関係無いのです」と彼女は指先を弄りながら答えた。本当はただ日付を書くだけでも良いと思っている。でも「四月三日」などと書かれた紙はあまりに味気ない。どんなに綺麗に生けた花があろうと、意識はその違和感に吸い寄せられてしまう。それでは花が可哀想だ。季節を五日ごとに区切った言葉は、ただ丁度良かったのだ。

 今日の七十二候にあたる言葉は「雷乃発声」――「雷、すなわち声を発す」と読む――春の訪れを示す雷が鳴り始める頃という意味になる。和美はこの名付け方に何の不満も無いらしい。

 水仙を主役にした作品に「清流」と名付けた時はその詩的な雰囲気が良い働きをしていたが、真っ白な百合が葉にしなだれかかる作品のタイトルが「かまきり」だった時はいたずらに難解さを増していただけのように思う。

「どの辺りがカマキリなのか」と問われる度に同じ答えを繰り返す彼女は困った様子で「まだ『蟷螂』とかにしておけば良かったかなぁ。意味がもうちょっと広いし」とぼやいたものだ。あれ以来、和美は漢字二文字で作品を表現することにしている。

 制作者の氏名を任意で裏面に小さく載せることにしたのは、そんなことが切掛けだっただろうかと清一は古い記憶を掘り起こす。廊下や踊り場に気まぐれに飾られる生け花同好会の作品だったが、徐々に華道の家と縁深いという噂が広まり和美の名前ばかりが注目されるようになったのだ。

 そんな事態は誰も望ましく思っていなかった。特に清一は思うところがあったのだ。しかしそれも今となってはもう起こり得ない話である。その為に彼は比較的伸びやかに花を生けることが出来るようになった。今日、彼女よりも先に作品を仕上げられたのもきっとそのお陰なのだろう。

 和美が自分の作品を運ぼうとすると不安定な花が揺れた。やや重い花器であるせいもあるだろうし、彼女の作品そのものが繊細なバランスの上に成り立っているせいでもあるだろう。

「僕が運ぶよ。重いだろうから」

 清一が声をかける。

「ごめん。手に負えないものは作るものじゃないね。セイくんがいつも居るとは限らないんだから。今日一人だったら私、どうしてたんだろうね」

 彼女一人だけという日も、人数や日頃の出席率から見て有り得なくはないのだ。だが今まで和美が和室を独占したのは同好会会長として鍵を開けた時、一番乗りの数分間だけだった。昨年の五月頃、一つ上の学年の会長が引退するまでは会長が居なければ部屋には入れなかったし、それから和室の鍵の管理を任された後も一人きりの日は無かった。

 どうしてたんだろうね、という宛先の無い問いに彼は答えない。黙って作品を運び、部屋の隅の棚に置く。陰りの深い隅で雪柳の白は一層白さを際立たせ、鳴子百合の葉は影の中にあってもなお深く暗かった。

 そのうちに、今日集まっていた者は作業に目処を付け始める。目標としていた姿との差異に苦笑いを浮かべる者、完成を諦め剣山の上で他の表現方法を模索する者、何とか出来上がった花の山を慎重に部屋の隅へと運ぶ者。様々だ。

「ハナミズキみたいに木にくっついているようなものはね、『枝もの』って言うんだよ。茎と違って硬いから、初めは切るのが大変だったかな。コツみたいなものは一応ホワイトボードに書いたんだけど」

 和美は入って間もない後輩に話をしている。まだ大きな制服に身を包んだ子達は掌をさすっていた。何度か回数を重ねてきたが、枝を切る作業は初めての人間が多かった筈だ。花を選ぶのは和美が率先して行っていた。彼女なりに段階を踏んでいるのだろう。

 片付けと共に簡単な掃除が始まる。マイナーな生け花同好会に此程広い部屋があてがわれている理由の一つとして、部屋の管理係に最適だという利点が挙げられる。それなりの広さがあるが、行事などで頻繁に使う部屋では無い、しかし急な予定が入った際に頼れるのはこの部屋だ。欠かさず掃除をしてくれる者が居ないだろうか、と学校側が考えていた所に同好会の発足の申請があったらしい。

 この話の方が部の信条としての「花を生けるは心を生ける」よりも切なさを伴って語り継がれている。

「最初は大部屋だって喜んでたのよ。それが掃除の手間に比例することに気づくまでは」

「束の間の夢ですね」

 清一が正直にそう言って先輩が笑ったのを覚えている。その時点では和美と出会って間もなかったが彼女は「セイくん!」と思わずたしなめたのだった。

 とはいえ、週に数日軽く掃除をすればそこまでひどく汚れる事は無い。何人かで畳に雑巾がけをしてしまえば大方は綺麗に保たれる。

 日々の努力の積み重ねとはこういうことなのだろうと同好会の面々は薄く埃の積もった資料室を思い出す。玄関に出るまでの廊下でよく目に付いた。数ヶ月単位、もしくは数年単位で放置されているであろうそこは昼間も薄暗く不気味だった。

 しかしこの時間を短くすれば作品を完成させられただろうと後ろ髪を引かれる者が出る日もままある。心残りも塵と共に掃き清めて同好会活動は終了となるのだ。

 速やかに部屋を片付け、完全下校のチャイムの鳴る時刻を気にしながら和室の入り口を閉める。電気を消した清一は作品の群れが影に身を潜めた瞬間、全く別のものに変わるような感覚をおぼえた。投げかけられる光の印象はそれほどまでに強い。制作者の望む光を当てられた時、これらの作品はどれほど輝くのだろう。そうして世に出た作品も、生花という材料の特性の為にこの時期でも十日と保たない。

 バケツから出て美しく飾られた花々は、こうして静かな夜に浸される。


 私は花を見ます。それで今日のこと、今さっきの出来事やこれからのこと、花と向き合ったその時の心に浮かんだものなんかをただ目の前に現像します。人はそれを「花との対話」「華道の神髄」などと呼ぶことがあるけれど、本当にそうなんでしょうか。

 私にとって花は道具に近いのです。

 みんな、誰だって自分の気持ちを言葉で表現しますよね。その時、文字と対話するような感覚なんてあるんでしょうか。私はありません。花も同じ。言葉、私の場合は花ですね。そのそれぞれの特性を掴む為によく観察はするのですが、それは対話なんて立派なものでは無い気がしているのです。

 言葉を覚える為に、小さな子が五十音表を指でなぞりながら読み上げるような、そんな作業です。だからこそ嘘偽りの無い気持ちが描ける。言葉はあんまりに使い込み過ぎていて簡単に違った言葉が紡げるから……。


 清一が同好会に所属すると決めた当初、何か大きな目標というものは無かった。生け花というものに対しても無知だった。ただ週末まで束縛される部活動に属するほどの熱は無く、無為に過ごす放課後も嫌だっただけのことだ。

 無為とは何だろう。

 どこにも所属しない身の上は一見気軽に見えるが、部員不足に頭を悩ませる部活動の勧誘を断り続ける意思が要求される。誰とも交流を持たず休み時間には机に顔を突っ伏しているだけの生活を望むのであれば別だが、清一は人との交流が嫌いでは無かった。

 どこにも所属しないのであれば、自分のような人間はきっと有意義な時間など過ごせないだろう。一人で何かを成し遂げるのはひどく難しいのだ。そうしたことを実行しようとしている生徒は居る。教師の居なくなった教室で自主的な勉強や課題として出された教材の問題に取り組む者たちのことだ。そう清一は思っている。また、その後に続けてこう考えるのだ。

「僕が放課後に友人と意味なく繰り返すお喋りは、彼らの集中を乱してまで欲しいものなのだろうか」

 答えを出すまでしばらくの時間が必要だったが、入部届を出す締め切りの日には明確に答えが出ていた。否だ。そのような思考回路の末、彼は何かやり通すものを見つける為に生け花同好会と書き入れた申請書を提出した。条件や嗜好に一致する部活動、同好会の中からこの場所に絞り込んだ理由は特に無い。和美の作品タイトルと同程度の当てずっぽうだった。

 もしそこに流れる空気が自分に合わないものであったり、雰囲気に居心地の悪さを感じたりすればすぐに去れば良いだけのことだ。「何か有意義なことがしたい」という少年の漠然とした夢とも言いがたい望み。時に大人はそれを空っぽの考え無しだと笑ったり叱ったりするが、そんな向こう見ずで無責任な駆け出しこそが少年少女の持つ輝きだ。

 たった二年前の話だが、随分昔のことに思えた。時期がそういった感傷を呼び起こすのだろうか。授業後の休憩時間で清一は思い出に導かれるように窓の先を見て、入会以前はこんな目で植物を見なかったな、と思い出していた。入部届を出した日、一階にあった教室の窓からは桃色の花が木の先でこぼれ落ちて小鳥が蜜を吸っていた。学年と共に上階へと移った教室は今、三階にある。視線の先にはもう零れ切った梅の枝がただ茶色く寂しい色で立っている。骨張った人間の手にも似た枝は一羽の鳥も載せることなく清一を見ていた。

 この日は同好会の活動日ではなかった。連続して活動することは稀だ。だが清一と和美だけは活動日の翌日、放課後の同じ時間に訪れる。昨日の作品を校内で許可が下りた場所に飾る手はずとなっているのだ。そう多くない作品を運ぶのに人数は二人も居れば十分だ。会長である和美一人で行わないのは昨日もあった顛末のように、重量のある作品や不安定な作品を運ぶ為である。

 その後、当然のように二人は揃って下校するのだが、決まった組み合わせの男女が並んで歩けばそれとなく色恋の噂が生まれる。

 清一は冗談半分のからかいにこう答えた。

「同好会の後、僕も工藤も特に寄る用事とかは無くてただ帰るだけだから。わざわざ別の道を選ぶ理由も無いと思う」

 別に誰でも良いなら、同性の人間とでも一緒に作業すればいいのにと続けて聞かれれば、和美はこう答える。

「後輩にはまだ作品に熱中していて欲しいな。それで行くと三年は私とセイくんだけだからね」

 昨年の春から始まったこの二人の奇妙とも言える帰宅風景はもう馴染みのものとなっている。今は生け花同好会の新入生がまた噂をしているが、また収まっていくことだろう。どれほど掘り返しても二人の間には本当にそれ以上、何も無いのだから。

「新入生の子、名前を書かない子が多いね。恥ずかしい気持ちなのかな」

 手に持ったカードを引っ繰り返しながら和美が呟く。作品を載せた台車を押しながら清一は考えを口にした。

「まあ僕もあんまり書かないから気持ちはわかる。何か、汚すような気がするんだ。自分の名前は未完成だから。作品だけで純粋に評価されて欲しい気持ちも含まれる」

 清楚な印象を受ける花器に飾られたスイートピーを廊下のガラスケース内に収める。作品に対応する紙を裏返して見れば、二年の女子生徒の名前が小さく書かれていた。

「私は書くよ。自分で自分の花がどれか分からなくなる時が結構あるから」

 ガラガラと車輪の音が廊下を進んで行く。それから二人の上履きが時折フローリングと摩擦を起こして立てる甲高い音が鳴った。

 一年の教室が並ぶ通路の突き当たりにまた一つ花を展示する。今度は名前が無かった。題もかき消えそうな細い字で頼りなげに書かれている。

「ええと。別に分からなくても問題は無いんだけど、一体これは誰のだろうね。あんまり見ない感じ。葉が前面に出て、雪柳が見え隠れしてるんだ。恥ずかしくて、でもちょっと勇気を出したみたいな」

 物語を読み解く視線で見つめながら彼女が呟く。

「新入生で一人眼鏡の子が居たよな。あの子のだ。隣で作ってたから覚えてる」

「みっちゃんね。よく見てるなぁ、セイくんは」

 二人は作品をしばし眺めた。花にその人がよく現れるのは二人の共通認識だった。

「でもさ、見ているのは多分花だけでしょう。新しい子の名前も覚えてくれると嬉しい。私も同じくらい花をよく見るようにするからさ、ね」

「覚えていけたらいいけど、すぐに引退だろ。意味があるのかな」

 枯れた梅に鳥は止まらない。清一はもう自らを枯れ行く木々に重ねているのだ。立ち枯れた木が何を思おうと花は咲かない。華やいだ木々と蜜の季節は今や遠い昔で、もう訪れることはない。和美は違うようだった。

「ちょっとでも仲良くなれたら嬉しいし、何か伝えていけるって気持ちになるの。花と同じ。花は早ければ明日にも枯れるけど、私たち生ける時には真剣に向き合うでしょう」

 彼女は清一とは違う道を行くだろう。卒業しても恐らく彼女の人生から花が消えることは無い。しばらくたたずむ季節に入るものの、季節は巡りまた何度でも咲き誇れる。

 清一は和美と自分の違いに頷き、それきり二人は黙ってしまった。外は暗くなり始め、この季節に特有の強い風が素早く窓の隙間を通り過ぎて行く。校舎内に残る人影も少なくなってきていた。

 いくつかの展示場所を通り過ぎ、和美が「これは誰のでしょうか」と楽しげに一つの花器を差し出す。受け取った清一は少し笑って言う。

「さすがにお前の花はすぐにわかるよ。昨日今日で忘れないし」

「私もセイくんの花は絶対当てられる自信がある。北の渡り廊下に置いた奴でしょう」

 互いの作品は誰より見てきたのだ。ふと彼が受け取った花を見て目を細める。

「これ、もう花が落ちそうだな。でもわざとなんだろ?」

「そう。多分ね、昨日の私はちょっと寂しかったみたい」

 かつては瑞々しくあったのであろうスイートピーの花弁には更に皺が寄っていた。花の作り出す滝がより一層、老成した雰囲気を醸し出す。

「なあ、聞いてもいいかな」

 慎重に彼女の作品を飾るが、堪えきれなかったスイートピー、震動に身を任せた雪柳の花が幾らか落ちて花器に張った水の上に浮かんだ。拾おうか、と清一が目で尋ねると、和美は「ううん、そのまま」と言うように頸を横に振った。

「改まってどうしたの。大事な話?」

「大事と言えば大事だけど。他の奴が聞いたらただ笑うだけかもしれない」

 小さな水面が彼の顔を映した。己自身と目が合う。

「こうやって生けられた花、生きていると思うか」

 和美が小さく呼吸を繰り返しながら考えをまとめるのが分かった。遠くに雷の音が聞こえる。波乱と豊穣を予感させる音は微かに耳を通り過ぎる。彼女が慎重に口を開いた。

「ん……生きていると思うよ。作った人の思いが残っているうちは生きてる。段々枯れて無くなっていっちゃうけど。だから私は枯れていくことも考えて生けるの。いつか朽ちると決まっていても、無意味なんかじゃないよ」

 感情を書き残した時、言葉はそのまま残り続ける。だが花はどう足掻いても枯れ行くものだし、彼女はその文脈が好きだった。最後の一片が死んでいくまで花は言葉を放ち続ける。

「そうか。僕は死んでいると思う。地面から引き離されて時間が経つし、根ももう無い。花弁はまだ生きていた頃を思わせるけど、それはただの面影だ。僕に言わせればさ、生けることは死んだ花への手向けなんだ」

 彼もまた言葉を丁寧に拾い集めて語る。ゆっくりと自分に問いかけるように。

「僕らに与えられた花は最初から死んでいて、それならせめて美しく弔おうと思う。せめて散りきる寸前まで最もそれらしい形にしてあげたい。くだらないよな。たった三年しかやっていない癖に哲学的になって。ただの時間つぶしが始まりだったんだから、最後までそんな気楽さを貫けたら楽だったろうな」

 春雷が光る。彼女はガラスケースの扉を閉めた。小さな空間に閉じ込められた彼女の感情の模写はそこにあり続ける。

「たった三年ってことないよ」

 傷の入ったガラス越しに和美が届かない花に向けて口にする。細かな傷を愛おしむように指が滑った。

「工藤みたいに思える人間が僕の思うような花を生けるんだ。最後の最後までお前の花は綺麗だから、枯れ方までが美しいから羨ましかったよ。三年かかってようやく言葉に出来た」

 そう、と答えた彼女が数歩だけ先に足を進め、次の場所へ行こうと促す。台車を引きずる音は春雷にほんの少し似ていた。

 全ての花を飾り負えた二人は帰路につく。並んで他愛ない話をしながら分かれ道までをのんびりと歩く。雑多な街並みは等しく薄曇りの中に居た。雨が降るかも知れない。

「あのさ、全然考えは違うけど、無意味じゃないって言ってくれて少し嬉しかった」

 何でもない話の切れ目に清一がそう挟む。

「良かった。似ていないからね。私達」

 和美はすぐに先ほどの話だと気づいてそう返した。歩みが止まることは無かったが、すぐ傍の植え込みにはツツジが咲いていて、じっと彼らを見つめていた。

「似ていて欲しかったな」

「うん」

 似た道を選び取りながら、互いがどうしようもなく異なっていることを再確認した。分かれ道が迫っている。

「ツツジが綺麗だ」


 昨年もツツジが綺麗だった。何も知らずに花は咲くのだ。

「誰が活かせるって言うんだ。こんな体験!」

 ある学生がそう叫ぶと共に花器を床にたたきつけた。中に入っていた水が飛び散り、畳に広がる。いぐさの上、数秒の間だけ丸まっていた水の粒が崩れて行くのが見えた。

 二年前のことだ。最高学年の先輩が引退する直前のことだったから、今の時期よりもう少しだけ後だっただろうか。

 その人は、憎々しげに花を見た。今までの思い出全てを否定するように和室を睨みつけた。それまで声を荒げることはなかった人だ。冷え切った空気が場を満たしていた。一年生だった清一と和美はそっと息を殺した。生けようとしていた花を掌の中に包んだまま、動きを止めることに専念していたのだった。

 引退目前の先輩は続ける。

「高校生活の中で、何かアピール出来ることはありますかって聞かれたんだ。俺は迷わずここの事を話した」

 ツツジの花はじっと窓の外に在った。

「鼻で笑われたよ。スポーツならまだしも、文化系で特に役職に就いた訳でも何か賞をもらった訳でも無い。なら面接の時に何の気も惹かない。じゃあ俺がここでこうしていることって何なんだ」

 清一はそろそろと手に持ったアヤメを下ろし始めていた。今日、ここに来た時から苛立った様子を見せていたのだったと思い返していた。この人には珍しいことだったので今でも鮮明に覚えている。

「俺も色々この場所に思い入れがあった。だから話し続けた。でも話している内に色々思い出してきて分かってしまったんだ。こんなの無意味だ」

 彼が黙ると誰も答える者は居なかった。皆、目の前にある花をじっと見下ろしてただ手を止めている。和美は震える手でアヤメの茎をつまんだままだった。意味が無いのだという言葉は何処かしんと静まり返った心に冷たく染み入った。もう今や畳の上の水滴が無いのと同じだ。ばらまかれた感情は拭き取られる間もなく各々の心に入り込んでしまった。

 無意味という言葉は正しいかもしれない。何かを生み出しているとは当時の清一には実感として無かったからそう、素直に思ってしまった。花器に生けられる中途の花がうなだれていた。此処へ来た浅い理由が突きつけられているような気がした。

 和美はまだ手を震わせていたが、決心したようにその花を生けた。花が差し込まれる繊細にして痛烈な音が僅かに、だが確かにその場の空気を乱した。

 その春の訪れを感じ取った当時の会長が、張り詰めた氷を割るように口を開いたのだった。

「怒鳴り散らしてもそれこそ意味は無いし、皆びっくりします。悩みなら後で聞きますから片付けますよ。いいですね?」

 男性の先輩はそれにふて腐れたように頷き、掃除用具を取りに向かう会長の後に続いた。だがしんとした和室の雰囲気は残り続けた。戻って来た会長が「さあ、みんな続けてね」と言ってからゆったりと部屋の空気は温もりを取り戻し始めたが、やはり先ほどの言葉が皆の心の中に何かしらの影を落としているようだった。

 近くの場所に居た和美が枝をはさみで切り取る小気味良い音を聞きながら、清一はぼんやりと考えていた。この活動に意味があるのだろうか。自分のように明確な目標も何も無く、ただ何か見つかるかもしれないと思い続けているだけで、その「何か」とやらは本当に落ちてくるのだろうか。そうしている中で会長と件の先輩が密やかに話しているのを聞いたのだ。きっと和美は目の前の作品に集中していて気づかなかっただろう。

「先輩が『何にも無かった』って言ったら不安になるでしょう。後で私が話しますけれど」

「でもお前も言われなかったか? まあ会長だからそこまで追及されなかったかもしれないが、生け花の中で一体何を学んだのか、それは今後どう役に立つのか、今後の学問にどう関わるのか、何の為に、何の為に……」

 男子生徒が一輪の小手毬を手にした。丸く集合した花がくるくると回され、本物の鞠のように弾んだ。

「否定はしません。でも先生の言うことが正しいって限りませんよ。……ああ、割れていなくて良かった。花器も高いんですよ。大切にしてください」

 その手に持った花器を見て、男子生徒は皮肉な笑いを漏らした。かとおもうとその中に持っていた花を投げ入れたのだった。

「なあ、それ、そこらに飾ってみろよ。タイトルも作者名も付けずにさ。みんな素通りするだろうな。でもそれはさ、俺が今まで誠心誠意生けてきた花に対するみんなの反応とそれほど変わりないよ」

 適当に投げ入れられた花を見て、会長は「いいえ」と言ったのだ。だがそれは何だか逃避のように清一には思われて……。

 回想はそこで途切れる。あの後、どんな花を生けたのかさえ清一の記憶には無かった。だがふとした時に思い返すことがある。自分の花に意味はあるのだろうか。引退を目前にした今、あの先輩と同じような状況に置かれているからこそ思い出すのかもしれない。

「じゃあね」

「ああ。また来週かな」

 思い出に浸ったせいでそれ以降との和美との話は弾まなかった。乾いた唇で短く別れの言葉を交わす。和美の居ない帰り道にも沢山の植物があった。道端に咲く花は確かにそれだけで素朴な魅力がある。タンポポなどはその代表例だろう。ただそこに居るだけで春の訪れを感じさせる。わざわざ死を飾ってやることの意味を噛みしめて歩く。

 ただの花が美しいなら、自分がわざわざ整えてやる意味は無い。やはり自分は何も得るものなど無かったのだろうか。こういった文脈では無かったが、和美の発した「無意味ではない」という言葉が思い返される。

 嬉しいと言った気持ちに嘘は無かった。だが「お前はそうだろうよ」と言葉にしたかった。横には誰も居ないのだと言い聞かせ、家を目指す。花一つに意味を持たせることに長けた彼女の作品。和美は自分自身を見つめ、清一は自然の形を再現する。わざわざ切り取り、命を刈り取った花で自然を再現するのはどうも不自然に過ぎる。「手向け」という言葉で折り合いを付けた自分は勝手に過ぎるだろうか。

 また一つの光景が頭の中で反響する。

 鮮明に聞こえてくるのは「違いが分からない」という声だ。飾られた花に対するどこかの誰かの声だ。和美の名前が評判を呼び始めた頃、彼女の作品を見に来た生徒がぽつりと漏らした。悪意など無いのがひしひしと感じ取れたからこそ本心だと分かってしまった。多分、大半の人々にとって花など大して違わない。

 だが違うと言わねばならない。でなければ無意味さが際立ってしまう。

 何もかもが違う。

 見学者が居なくなった頃、一人になった清一が口にした言葉はどこにも響かずに絶えた。自分が花器の前で悩んだ時間全てが瓦解する音が聞こえた。

 二年前に先輩が言っていた「何の為に花を生けた」という問いがやはり清一にも降りかかっていた。終わりが近くなるにつれ、そうした意味を求めたくなるものなのだろうか。それとも、ただ単純に進路相談の際、教師に似たことを尋ねられるから考えるのだろうか。「何を得たのか」と問われれば、清一は自然の美しさを学んだと答える。ありきたりな答えに彼自身頸を傾げる。だがこうした問いには簡潔な答えが求められている。自然を壊してまで自然を再現する彼のスタンスが不毛であるとか、空虚なものを生み出す意味だとか、そうした悩みに満ちた回答は求められていない。彼は自らに言い聞かせる。自分は自然の良さを学んだ。そういうことにしておかねば、将来が開けてこないのだ。

 悩みを飲み下して大学という未来に向け、自分を不自然なほど刈り揃える作業は痛みを伴うものだった。それは当然だろう。和美であれば躊躇うこと無く切り取る葉も、何とか残して作品に取り込むのが清一なりの流儀なのだから。自然にそこに生えた葉に意味はあると思いたいのが彼だった。投げやりな態度に走る気持ちも、今であれば理解出来る。

「あの投げ入れられた小手毬、会長はどうしたんだっけ」

 寂しく白い花の行方は思い出せなかった。


 そこに生き続けるものがあるのならば、私はそこに命が宿ると思うのです。ならば、意味も宿りましょう。セイくんに言われた話が私の中でこだまします。

 こういう時、答えがいつも正反対だから悲しくなってしまうのでしょう。一緒であって欲しかったねという気持ちだけ。そこだけはいつも一緒です。

 そんな暗い感情から連想していくと、もうすぐ引退だという事実も私を寂しくさせます。不思議ですね。この場所も同好会も無くならないのに、胸が締め付けられるようなんです。あと何度あの場所で花を触れるのでしょう。それを数えるのが怖くて、でも数えてカウントダウンを始めてしまう。もう、あと一回ですよ。

 他の部活の方も似たような感情を抱いていると知ってほっとしました。引退の寂しさはまだ遠く思える卒業の先駆けとなって、私達の目を少しだけ濡らします。

 セイくんのお話で、二年前のことを思い出していました。大切なこの場所がもしかしたら無意味かもしれないと考えるのは怖いことです。途中で気づけたなら「これから意味のあるものにしていこう」とも思えるかもしれません。でももう私は何も出来ないから、それがすごく怖い。ぱちんと剪定され、落ちて箒で掃かれてしまうような花。私の人生はそうじゃないって、誰が言えるんでしょう。

 私は勝手に花を切ります。ただ私の感情を表現する為に。意味を宿すと言っても良い。でも何も読み取れないと世界中の人に言われてしまったら、私はどうしたらいいんでしょう? そこに意味を読み取れる人間が居なくなってしまったら、私だけが自己満足で意味を宿していたら、人に向けて語っていた言葉は全部一人言に成り果ててしまう。私はこんなにも声高に叫んでいるのに。


 何を迷おうとも、最後の日は等しく訪れるものだ。四月の終わり、清一と和美が同好会に訪れる日は今日限りだった。

「あっ、セイくんだ。一緒に行こうよ。今日で最後だね」

 清一が教室を出ると、ちょうど隣の教室から和美も出てくるところだった。冷やかしの声はもう遠くになって久しい。

「行こう。あんまり感慨とかは無いな。工藤は?」

「それなりに、かな」

 今日はよく晴れている。照り輝く陽が優しく教室を包み込んでいた。カーテンがはためく音が聞こえる。のどかな、どこにでも在るありふれた日だ。だから何かが終わることが少し意外にさえ思えた。和美は「ああ卒業の日もこうなんだろうか」と感じていたし、清一は「節目の時が劇的とは限らないよな」と何も変わらない光景を見ていた。掃除をするクラスメイト、授業から解放されて騒ぐ声、下へと続く階段、和美の笑顔、清一の静かな足音、全てがいつも通りだった。この日常が明日からはもう無い。

「鍵、もらってくるから待っててね」

 和美が一階に降りたところで小走りに駆けていく。背中で揺れる重たそうなリュックに付いた羊のストラップがよく跳ねていた。最後だからと聞いてしまったせいなのか、そんな些細なことまではっきりと、よく見えた。

「一番乗りするのが好きなんだ。会長特権だね。誰も居ない和室が好き。準備もしなくちゃいけないけど、その時間だって好き」

 鍵を受け取り、戻って来た和美は誰も聞かないのにそんなことを話し始める。清一は頷いた。雑用とも呼べる時間を特権と表現する彼女が好きだった。

「工藤。進路ってさ」

「今日はお花のことだけ考えようよ。ね、今日が最後だから。一緒に同じ花を見て、同じ場所で生けて、同じ場所でバイバイするのはもう今日が最後。明日も展示して帰るから一緒かもしれないけど、その時は次の会長のヨーコちゃんと副会長のたっくんも居るから。二人なのはこれで最後だよ」

 遠いような近いような未来の話を遠ざけて、今日という地面に視線を落とす。すると和美と目が合った。鍵を開けながら、彼女は笑う。ありがとうねと言葉にしつつ和室の扉が開かれる。

 日だまりをため込んだ空気が溢れ、畳の青い匂いが数秒の間だけ鼻に纏わり付く。一番乗りの景色を披露して、和美は清一を呼ぶ。

「窓を開けるから手伝って欲しいな。私はこっち方面を開けていくからね」

 日に焼けた障子、何の飾りも無い窓枠。彼女の言葉に従うと、春色が和室を染め上げていくのが分かった。外に春らしい花など見当たらない。それどころかグラウンドから立ち上がる砂埃で指がざらついた。それでも春がそこにあることが分かった。

「何か上手くは言えないけど、春だな」

 和美が目を閉じて答える。

「うん。切ない春。今日だけの春」

 換気を済ませた二人は荷物を例の押し入れの前に置く。ここを開けない理由は、掃除が煩わしそうだからとか、知らないものが入っているからだとか、そういった訳とは別の所にもあるのだったと気づいた。

 そうだ、あの小手毬の花器はここに仕舞われたんだ。

 清一はその中に眠っているものを無意識に恐れていたのかも知れない。無意味と称されたもの、自分の中にずっと引っ掛かっている虚ろな感情そのものがそこにある。押し入れがいやに切なく訴えかけてくるようだ。頭を振り、忘れていくのかと呼ばれる感覚を吹き飛ばそうと試みる。

「いつから此処を荷物置きにしようって決めたんだっけ」

「去年の今頃だったと思うよ。前会長に代替わりした時だもの」

 正確な答えを呟き、彼女も清一の隣に荷物を置いた。この奥にある怖いものを封印するように荷物はここに重ねられていく。小手毬の花を投げ入れた先輩の件は、今や同好会では二人しか知らない。

 今日の花を取ってくるねと言い残し、無意味さに怯える一人は去った。もう一人は真新しい陽気に見惚れ、手伝おうかと声に出した時にはもう相手の姿が見えなくなっていたので気恥ずかしげに手で口元を隠した。

 バケツの水が揺れる音が近付いてきて、清一はその方向を見る。灰色のプラスチックの中に花が咲いていた。最後の花は見事な桜だった。

「ね、見てみて。優しい色だよね。今日で私たち最後だからって、みんなが先生に無理言ってくれたんだって」

「卒業式みたいだ」

 ちょっと散りかけかなという和美の言葉に同意の頷きを返す。桜色よりも葉の緑が主役になりかけた頃合いだ。あといくつかバケツが残っていると言うので、残りは清一も手伝って運び入れた。

「工藤は花と対話しているって皆が言う。僕も正直そうじゃないかと思う。でもあんまりお前は嬉しそうな顔をしないよな。何でだ?」

 座布団を適当な枚数出してきて清一は尋ねる。もう最後なのだからという思いは、彼を普段よりも饒舌にさせた。

「あんまり私にそういう意識が無いから。私にはセイくんみたいな人が対話しているように見えるの。対話って、お花をきちんと理解するってことだよね。私はただ花を使うだけだから」

 校舎に響くざわめきを心地よく耳が拾う。話は途切れる。花を準備し、席も用意したが他の生徒はまだ現れない。自然と二人は花を見た。バケツの中で何かを待っている花を見た。

「こうしていると、花は僕を見てくるようなんだ」

 一人言がこぼれ落ちる。嘘は無かった。私はこうして生きてきた、と花が枝振りや切り口、葉の具合で語りかけてくるように思える。だが清一はそれに答えられているかどうかが分からない。

「お花ね、私のことはちっとも見ないよ」

 和美は小さく言葉を落とした。葉蘭の表面を視線でなぞり、そのままどこか遠くへと眼差しを向ける。彼女に植物の言葉は届かない。花が彼女の言葉となる。それは正しいことだろうか。勝手な表現は意味を生むだろうか。

「やっぱり違ったね」と彼女は微笑む。

 桜、葉蘭にかすみ草。柔らかに仕上げるも良し、力強く仕上げるも良しといった取りそろえは今日に相応しいようだった。

「違うものだ」と清一が枝を取る。

 会話はつらつらと流れ、どうでも良いことを話した。同好会に関する話題が殆どだったのは、二人ともそれを望んだからだ。明日から急に会えなくなる訳でも、一切合切が消えて無くなる訳でも無い。だが別れを惜しむようにして二人は思い出話を続けた。

 徐々に下級生達の姿が見え始めたあたりで二人はお喋りを中断し、最後の作品に取りかかることにした。最後と繰り返しているうち、散りかけた桜の切なさが切々と清一の心に肉薄してくる。誰かが無造作に取った枝からはらりと落ちた花片は、畳の上で淑やかに目を閉じたかに見えた。咄嗟にそれを拾い上げる。清一の掌の中で、花片はしっとりと死んでいた。

 和美は例の澄み切った表情で花を丹念に見ている。彼女が今感じているほろ苦い季節の散り際と、先ほど味わった少し甘い時間はこの桜と同じだ。枝だけになってもまだ春を待ち続けたい気持ちが花と重なった。

「そろそろ出欠を取らなきゃ。私が名前を呼ぶのもこれで最後。みんなありがとうね」

 感傷を感じさせないあっさりとした声で和美は感謝の言葉を口にする。ちらほらと寂しそうな返事がしても気にせず、彼女は名前を呼んだ。

「セイくん。佐々木清一くん」

「居るよ」

 何気ないやり取りが終わった。

 今にも散りそうな桜を手にした清一は深い青のガラスで出来た平たい花器を選んだ。海の底ほど濃い青だが、向こう側が透けて見える。陽の光にかざせば本物の海に似た影を落とすだろう。そしてバケツ周りに落ちていた花片数枚を手に取った。形を損なうことが無いように丁重につまみ取った時、ひんやりと指に吸い付くようだった。

 力を込めて枝を切る。ばちんという音と共に転がった何の花も持たない枝もやはり拾い上げた。切り口の処理をして、花器の上に横たえる。どこかでこんな絵を見た。水の中に夢見る表情で沈んでいく女性の絵画だ。

 僅かばかりの花が水に触れないよう、その下に葉蘭を敷く。拾っておいた枝も同様に飾った。可憐なかすみ草は枝の根元を覆い隠すように配置する。仕上げに桜の花の欠片を水面に散らした。春の夜が更けていくような一時、ほんの数日の芸術がそこにあった。

「佐々木先輩の、いつもとちょっと違いますね。もしかして今日はタイトルも付けるんですか」

 意外そうな声で、後輩が題と名前を記入する用紙を清一の横に置いた。

「今になって……今だからこそかな、迷ってるんだ。そのせいかもしれない」

 そう言って清一は渡された用紙にペンを走らせる。

「花の下にて春死なん」

 書き込んだ言葉を清一が声に出して確かめると、そこに後輩の声が重なった。

「誰かの歌でしたっけ」

「そうだよ」とだけ答え、さっさと花を写真に収める。ある歌人が「叶うことならば春、満開の桜の下で死んでいきたい」と詠んだ。今はもう満開とは呼べないが、終止符としては悪くないと思えた。

 和美は白く細長い花器に大きな桜の枝を一本、真っ直ぐに生けていた。枝は自然の中で育まれたものであるから、当然ながら美しい直線にはならない。左右に曲がりながら、天高く伸びゆく枝には活き活きと芽吹き始めた葉の緑が眩しい。足下に葉蘭が垂れ下がり、その曲線を辿るようにかすみ草が置かれる。縦長のシルエットをより効果的に見せる役割を果たしており、普段の彼女が生ける感情をより鋭敏にした印象だった。

「うん。これでおしまい」

 引き絞られた緊張の糸がのんびりとしたその声で緩む。

「わ、大きいですね。生け方でそう見えるだけかな」

「……もしかしたらガラスケースに入らないかもしれないね。大きさのこと全然考えていなかったから。ごめん。その時は飾らなくていいからね」

 記録用のデジカメを手にしながら和美が言う。彼女からヨーコちゃんと呼ばれている後輩は「そんな勿体ない」と花を見つめる。良い作品だった。そして和美が「飾らなくていい」などという発言をするのは初めてのことだった。中途半端な作品だからと辞退することはあったが、こうして完成品として写真にも残している以上、彼女もそれなりにこの作品のことを気に入っているのだろう。

「生徒が遊び場にしないような場所だったらケース無しでも飾れますよ、きっと。先生に相談したらそういう場所見つけてくれるんじゃないですか。聞いてきましょうか」

 その問いかけに和美はやんわりと頸を横に振る。

「ううん、いいの。いつもは見る人みんなに向けた花だけど、今日は一人に向けた花だから。無理することないよ」

 よいしょ、と言って作品を隅へと運ぶ。先ほどまで写真を撮っていた手は、高く伸びた枝に添えられていた。

 そのうち、下校の時刻が近付いてくる。いつも通り掃除をする中、和美が清一にそっと近寄って押し入れを指さした。

「ね、ここ、開ける?」

「本気か、お前」

 雑巾を持ったまま二人は小声で話を進める。

「だって此処で掃除できるの今日でおしまいだよ。明日聞かれたらどうするの。『あそこ開けて良いんですか』って」

 和美は次期会長、副会長の二人を見ながら言う。

「いや、割と今すっきりした気持ちなんだよ、僕は。あんまりなものがあったら今日の気持ちががた落ちになる」

 最後の花の出来が良かったせいもあり、清一は知らず知らずのうちに押し入れの件を頭の片隅に追いやっていた。小手毬の件が二人共の頭に浮かぶ。この調子だと、和美もあの花器がここに仕舞われて居ることを思い出したのだろう。

「何か分からないままの方がずっと怖いもの。私、この先ずっと押し入れに怯えるのはちょっと嫌だよ」

「まあ、それは。忘れたままにするのも難しい話だろうけどさ」

 数人分の荷物で埋もれたふすまの丸い引き手が目のように見えた。どこまでも黒く此方を見つめている。それは、この部屋から出て二度と訪れることが無くともついて回る視線なのだろう。開いてやらない限り、引き手の視線は後ろを付いてくる。気づかないふりをしている内に、恐怖ばかりが大きくなるという彼女の言葉は何となく真実味があった。

「わかったよ。みんな帰った後で良いかな」

「ありがとう。セイくんが居たら開けられる気がするの。一人じゃさすがに怖いよ」

「じゃあ消灯して、全員が玄関から出たのを見たら和室前にまた戻って来よう」

 そう約束をして二人は掃除に戻る。彼らにとっては何もかもが最後だが、他の生徒達にとっては何気ない日常の一コマに過ぎなかった。

 いつもより少し早めの時間に和美が解散の声をかける。その後、後輩達が「お疲れ様でした」と今日の花材ではない小さなブーケを手渡してくれたことは素直に驚いたし、嬉しかった。数人だけだが、和室から出る際に二人のための花道も作ってくれた。そんなに感謝されるようなことをしただろうかと思いながら、清一は礼を言う。和美は頬に手をあてながら終始にこにことしていた。

「卒業式の日はもっと盛大な花がもらえると思うし、花道だってこんな貧相なものじゃないと思うんですが」

 次期会長が申し訳なさそうに語ったが、それでも十分過ぎる別れだと思った。名前も知らない大勢の人間から祝われるより、よく知る数人からのささやかな祝福の方が何より幸福なこともある。

 何度も感謝の言葉を交わしあい、暗くなり始めた外に出て行く後輩達を見送って二人は息を殺して今来た道を戻り始める。

「セイくんの言う通り、ここで終わっていた方が綺麗だったかもね」

「でも工藤の言うように、それだと数年後、数十年後に後悔するんだろうな」

 消灯したばかりの部屋の明かりを点ける。しんと静まり返った部屋は、先ほどまでの喧騒を重ねて見ると一層寂しく見えた。荷物がすっかりどかされた押し入れの前に二人はしゃがみ込む。

「何があったら嫌?」

 和美が尋ねる。

「カビとか腐った花とかは、まあまあ嫌だな。でも早く開けておけば良かったって気持ちになるだけだからマシかも」

 軽いはずのふすまが重々しくのしかかるようだ。

「変な臭いとかはしないからお水とか花は無いと思う、けど……」

「けど、何だよ。工藤は何があったら嫌なんだ」

 口ごもる和美に対して清一が聞く。あの「こんなの無意味だ」という声が鮮やかに耳の奥で響いた。

「粉々の花器とか恨み言とか」

「想像力豊かなものだね」

 引き手を掴む。ふすまが溝を滑る際、静かに、とでも言いたげな音が鳴った。部屋の明かりが少しずつ押し入れの中に入って行く。

 始めに見えたのはただの床だった。大して物は入っていないらしい。そして次に姿を現したのは花器だった。あの小手毬の花器だ。薄い黄色で、素朴な質感がある。ひびや欠けなどは見当たらない。

「あの時の花器で間違い無いかな」

「うん。あの日の花材、アヤメだっただろ。似合いそうで迷ったから良く覚えてる」

 他に見当たる物は無いので、がらりと勢いよく開き欠けだったふすまを開ける。一緒に手をかけていた和美は勢いに驚いたのか「わっ」と言って飛び退いた。

「びっくりした。それ以外何も無いの?」

 押し入れの中に顔を突っ込んであちこち見回した清一は答える。

「当時の作品をまとめたプリントみたいな紙が何枚かくしゃくしゃになって落ちてるけど、印刷ミスやら誤字でゴミになった奴だな。後はちょっと埃っぽいくらいだ」

 それぐらいしか無かった。自分たちは何をそんなに恐れて居たのかと拍子抜けする。気の抜けた声と共にどちらともなく笑った。

「なんだ、なら明日も『あの押し入れ、自由に使って良いよ』って言えるね」

「花器置き場に丁度いいんじゃないかな。増えてきて困ってるし」

 和美が「そうだね」と頷き、花器を見せて欲しいと清一に頼む。久しぶりに見るものだ。当たり前だが、どこも変わっていない。投げ入れられた小手毬はどこへ行ったのだろう。当時の会長か、先輩がすぐさま捨ててしまったのだろうか。花器の中身は空だ。

 土を素焼きにした感触が優しい。清一が花器を持ち上げるとひらりと一枚のメモ用紙が落ちた。先ほど見たプリントらしかった。

「良いよね。この花器も」

 和美が器を手にあちこち見ている間に何気なく紙を拾って見る。あ、と声が出た。畳に膝をつきながら和美が小首を傾げる。

「どうしたの」

「あの人たちの言葉だ」

 プリントの裏側には几帳面な字と、殴り書きのような字が並んでいた。

『意固地な貴方へ。これはあなたの今の投げやりな感情の発露。それで良いじゃありませんか。それに私は必ず、あなたの花を見つめます。それにつられて他の人も時に立ち止まる。それで十分。そう思うあなたのファンも居るんです』

『熱心なファンへ。余計なお世話だ。でもありがとう』

 あの人は意味を見つけたのだろう。あの小手毬にも意味はあったのだろう。清一を気にする彼女にもメモ用紙を見せると、和美は目を細めた。

「そう。そうなんだ。見てくれる人が居たら良いか、そう」

 何度か納得した様子で紙を丁寧に畳の上に置いた彼女は和室の隅にある今日の作品の方へと向かう。

「セイくんはこの花の意味、わかる?」

 一つを指さす。桜の枝が今にも芽吹きそうな作品だった。

「今日工藤が生けたやつか、それ。もしかして僕か? 違ったら恥ずかしいな。ただの自惚れだ」

 彼女は答えない。ただ満足そうに頷いた。その表情が正解だと物語っていた。清一も立ち上がり、作品の群れの前に立つ。

「僕の花はこれだ。お前はどんなことを言っていると思う?」

 和美はしばらく水に浮かんだ花片の軌跡を追っていたが口を開いた。

「もう、おしまい。でも満足」

 蛍光灯が瞬いた。


 長い時間そうしていた気がする。だが完全下校のチャイムで我に返ったのだから、字一切の時間にすれば数分程度の出来事だったのだろう。帰ろうかと二人は言って、花器を仕舞った。メモも共に仕舞われた。花器の先に小手毬が見えた気がした。

 今度こそ玄関を通り抜け、校門を出る。帰り道は暗かった。

「何かすっきりした気がする。あのね、セイくんはこれからどうする?」

 将来のこと、直近で言えば進路のことを尋ねているのだろう。花に関する心残りはもう消えたのだから。彼女は恐らくこれからも花と共に生きていく。

「あの花の通りだよ」


 私はあなたと一緒に同じ物を見ていたい。花と向き合うあなたが幸せであるように。

 生けることは生かすことです。同じところで生きてみませんか。

 あなたと違って私は花を勝手に扱うものだから、花はあまりこっちを見てくれません。

 あなたの生ける花はあなたを見透かしていて、人を一心に見つめていて、私の好きな花でした。

 私は花が好きでした。


 僕は花が嫌いだった。

 正確に言うならば「自分の生けた花」が嫌いだった。お前の花はただ一人の人間を語る為に存在するからいつまでも見ていたい。

 ただ飾ろうとするだけなのに、花は此方を見てこようとする。

 生けることは手向けに死を飾ることだ。

 僕はお前の居ない場所に行く。花に愛された君に幸いあれ。


「そっか」

「そうだよ」

 言葉は少ない。だが別れ道が迫っていた。黙々と歩く道は相変わらず騒がしい。岐路がやってくる。踏み出す道は決まっていた。清一がもう花を生けることはない。和美は花を生け続ける。

「さよなら。あなたが行くなら追いかけないよ」

 別れ道を一歩歩み出す。

「またな。花を見るたびお前を思うよ」

 たかが花。されど花。

 寂しい笑みが空に残った最後の夕焼け色と共に道の向こうへ消えて行った。

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花道はまだ遠いから とろめらいど @RinDraume

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