第43話 スキップと鬼子母神と脳筋課長と
九月三十日 午後五時三十六分
私は今、スキップをしている。
自宅でDVDをスキップしているのではない。署の廊下でスキップをしている。
私と手を繋ぎ、同じくスキップしているのは組織犯罪対策課所属の男性警察官だ。
数年前、独身警察官を次々と妊娠させるとして全署出禁になった私は今、不妊に悩む職員から鬼子母神奈緒として歓迎されている。
出禁よりはマシだが、どうしてこうなった。
事の発端は、交通捜査課の福岡から相談を受けたことから始まる。
彼から不妊に悩む課員がいると相談を受けた。
鬼子母神奈緒は独身警察官を次々と妊娠させたのだから、不妊に悩む男性警察官も子宝に恵まれるのではと彼は言ったのだ。
どこをどうしたらそんな結論になるんだと言いたかったが、子宝に恵まれないと悩む課員とその奥様は様々なことをしたのだろう。藁にも縋りたいのだ。
どう考えても偶然の産物である鬼子母神奈緒の私は藁だ。気が済むのならいくらでも協力しよう、私はそう思った。
そしてその交通捜査課員と会ったのだが、署の廊下で私たちは見つめ合った。双方、何をすればいいかわからなかったから。
ならばと裏の公園で一緒に走ろうかと提案したが、私の足の速さを知っている彼はダメだと言った。仕方がないから二人でスキップをした。双方意味がわからなかったが、とりあえずやってみたのだ。
署の五階は交通捜査課と刑事課があるが、長い廊下で彼もまさか職場で先輩とスキップするとは思わなかっただろう。私も後輩とスキップするとは思わなかった。
そして二ヶ月後の七月、奥様のご懐妊が発覚し、彼は須藤さんを通してお礼に来た。
その後、鬼子母神奈緒の噂はまたたく間に広がり、不妊に悩む警察官や職員から須藤さん宛に連絡が来るようになった。
須藤さんが夏に萎びていたのは、鬼子母神奈緒のせいでもある。おそらく二割ぐらいだ。
「スキップ、もしかして出来ない?」
「バレました? すみません、練習したんですけど……」
鬼子母神奈緒とスキップすると子宝に恵まれると噂になり、ここ二ヶ月で十二人の警察官とスキップしてきたが、これまでに三人がスキップが出来なかった。彼で四人目だ。
スキップが出来なくても警察官になれると、スキップが出来ない警察官志望者に教えてあげたいと思った。
「ふふっ……でも、よく課長は許してくれましたね」
「ええ、私も驚きました。ダメかと思ったんですけど」
須藤さんは鬼子母神奈緒の噂を聞きつけた警察官や職員からの問い合わせに頭を抱えていたが、上席を通して鬼子母神奈緒の来署を要請しろと伝えていた。
私など、しょせんは藁だ。だが部下の悩みに心を寄せ、須藤さんに連絡をしてくれる管理職が誰なのかを須藤さんは把握出来るのだ。そんなものと一笑に付し、何もしない管理職が誰なのかも、もちろん把握出来る。
チンパンジーは萎びてもタダじゃ起きない奴なんだなと、私は思った。
「加藤さんの噂は聞いていました」
「鬼子母神奈緒?」
「ええ、それとすごい美人だと」
「んふふっ、ありがとう……でも狂犬加藤でもあるよ」
「ふふっ、ええ、玲緒奈さんの舎弟だとも知ってます」
「ふふふ……」
彼は一緒にスキップすると奥様が妊娠すると噂の女性警察官がいると話し、奥様はやって欲しいとご主人にお願いして、それを聞き入れたご主人だ。頼んでみると奥様に伝えたのかも知れない。
どちらにせよ、なんて良い夫婦関係なのだろうかと思う。
奥様を思いやり、上席に相談し、上席が心を寄せてくれ、私の来署を待っていたのだ。彼も子宝に恵まれたら、私も嬉しい。
◇
長い廊下を折返した時、途中にある階段から葉梨と岡島が出て来た。
ここは二人の所属だからいてもおかしくはないのだが、生活安全部は別の階だから会わないと思ったのに、いた。面倒くさい。
「あっ、加藤さん……」
「奈緒ちゃん何やってるの?」
「スキップ」
「あれ? 岡島さんも葉梨もご存知なんですか?」
「ええ。岡島は――」
「奈緒ちゃーん!」
「――チンピラは同期で、葉梨とも面識はあります」
「そうなんですか」
私たちは二人を無視して、スキップを続けた。
二人は私たちの後についてくる。そうだ。岡島が私に無視されたくらいで挫けるわけがないのだ。
「奈緒ちゃん何してるの?」
「スキップ」
「見ればわかるよ」
「ついて来たら殴るよ?」
「えー」
二人は立ち止まり、私たちを見ていた。隣の彼は笑っている。
「これが噂の狂犬加藤なんですね……んふっ」
「ふふふっ」
廊下の端までスキップして、私たちは止まった。
彼はいい笑顔だ。どうか子宝に恵まれて欲しい。
「ありがとうございました」
「こちらこそ」
立ち話をしていると、岡島と葉梨がこちらに向かって来た。葉梨は遠慮がちだが、岡島は私の名を呼びながら歩いて来る。
「私と葉梨は同期なんですよ」
「そうなんだ」
葉梨は彼に近づき、小声で話している。
岡島は葉梨から聞いたのだろう。鬼子母神奈緒のスキップ大作戦だと知ったようだった。
「奈緒ちゃんお疲れさま」
「うん」
「この後は?」
「帰るよ。須藤さんと一緒に帰る」
「そうなんだ」
岡島は何か話があるようだ。
私は彼に、後で課に顔を出すと告げて外してもらった。
去りゆく彼の背中を見ながら、岡島は話始めた。
「奈緒ちゃんを飲み会に連れて来いって言う奴がすっごい増えた」
「間宮さんからも聞いてるよ」
「俺では断りきれない人もいる」
「……ごめんね」
「あー、うん……どうしよう」
信頼と実績の間宮さん経由では無茶ぶりされてダメだからと、岡島を利用したのだろう。岡島では断りきれない相手なら、実力行使しかない。
「玲緒奈さんに言おう」
「ダメ。やめて。死人が出る。仕事が増える」
「ふふふっ……」
岡島は私を見て、困ったような顔をしている。
私は今でも、守られている。いつまで続くのだろうか。
「奈緒ちゃんが早く結婚してくれればいいのに」
「相手がいない」
「じゃあ俺と結婚する?」
「離婚歴のある人は嫌だよ」
「じゃ、誰かに養子縁組してもらって戸籍をまっさらにする」
「バカなの?」
「ならさ、そろそろ俺のことを『くん付け』して呼んでよ」
「やだよ」
「奈緒ちゃんと直くん、いいじゃん、お願い」
「殴るよ?」
いつものやり取りだなと思いながら葉梨を見ると目が合った。
笑うわけでもなく、私をただ見ている。
なんだろうか。そう思いながら首を傾げると、葉梨は口を開いた。
「次にお会いする日の件は、あらためてご連絡します」
「え、うん……わかった」
九月はお互いに忙しく、予定を先に伸ばしてもう九月最終日だ。私は笑顔で答えたが、葉梨は笑わない。どうしたのだろう。
「組
「うん。奈緒ちゃんまたね」
「葉梨、連絡待ってるね」
「はい!」
◇
組織犯罪対策課のドアをノックして入ると、先ほどの彼が応対してくれたのだが、私を見てなんとも言えない顔をしている。
「どうしたの?」
「あの、それが……」
須藤さんはどこにいるのだろうか。
私たちがスキップを終えるまで課長と談笑しているはずだったのだが、姿が見えない。
課員もなんとなく、挙動不審だ。
彼は話始めた。
この後、私を伴い飲みに行こうと誘う課長に、須藤さんは『加藤は松永家の三人に了承を得ないといけない』と言ったが、課長は挫けなかった。
課長は須藤さんより先輩にあたるからやんわりと断っていたが、双方がだんだんとヒートアップして、最終的には拳で解決することになったという。脳筋あるあるだ。
だが、管理職になって運動不足の脳筋課長と、特別任務のために体を作ってある四十歳の須藤さんでは勝敗は言うまでもない。
「うちの課長、応接室で伸びてます」
「んふっ」
私がそっと応接室を覗くと、須藤さんはソファに座り、向かいのソファに伸びている組織犯罪対策課の脳筋課長を生暖かい目で見つめていた。
「お疲れ様です」
「お疲れ。聞いた?」
「はい」
「じゃ、今のうちに帰ろっか」
須藤さんは立ち上がり、応接室を出て課員の前でこう言った。
「帰ります。課長によろしく伝えて下さい。課長をシメたい希望者がいるなら、教えますが、どうします?」
そう言って笑いながらドアに向かった。
課員は立ち上がり、須藤さんに一礼した。見た感じ、少なくとも二人は希望者がいたなと思いながら、私も課員に一礼して課を出た。
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