第19話 寛永寺空戦(上)

「梅雨明けしたとたん、急に暑くなったわね」


 上空からは長屋の裏に洗濯した着物の布地を戸板に貼って干している光景があちこちで見られる。

 この最近、江戸は晴天の日が続いていた。雨続きで外出できなかった鬱憤をはらすかのように、今日は人出が多い。寛永寺前の道にも豆粒ほどの人々が数多く行き来している。


 寛永二年(1625年)慈眼大師じげんだいし天海大僧正てんかいだいそうじょうによって江戸城の鬼門を守るため創建されたこの寛永寺は、東の比叡山と位置づけられ、不忍池の近くに広大な土地を与えられていた。

 現代で言えば、日本最古の動物園として有名な上野動物園のある上野公園が伽藍がらんにあたり、東京国立博物館の位置に本坊を構えるほどの巨大さである。

 この一帯は江戸の中でも台地にあたる。桜を好んだ天海大僧正が吉野山から山桜を移植したため春は満開の桜が美しい。その時だけは特別に一般にも解放されるため庶民が繰り出して賑わう行楽地と姿を変えた。春はなにかと諍いが起りやすいため御天馬隊もたびたび見回りに赴くが、参道に並ぶ桜の姿は格別で上空からは薄桃色の綿帽子をこんもりと並べたような可愛らしい景色を満喫できた。

 この景色は地上からでは見られない、まさに天馬乗りの役得である。

 だが、花が散った後の夏の景観も捨てたものではない。参道に並ぶ夏の桜は春の姿とは打って変わって、緑の葉が揺れるさっぱりとした姿となっている。それはまるで、美少女が急に爽やかな青年になってしまったようで、りのは毎年きつねに化かされたような不思議な気持ちになった。


 桜並木から視線を先に転じると照りつける光でまぶしく黒光りする伽藍の大きな屋根が眼に飛び込んでくる。屋根の黒さが柱の朱をさらに引き立ててこの上なく壮麗であり、ここが非日常の場所であることを強調していた。

 さらに周りに眼を転じれば、北では茂った木々の外側に田が連なり、南には広い不忍池、そして西には大名屋敷、東には寺が軒を連ねている。その更に外側には小役人や町人の家がびっしりと並んでいた。


「今日も何もないようね」


 暑い時間に見回りに来てしまったことを後悔しながら、りのは周囲を見まわす。

 恵鈴は日焼けを避けるように、目だけを出して頭巾を深々と被っている。カンナはぐったりとした表情で竹筒の水を飲んでいた。二人の目がもう帰ろうとばかりにりのをチラチラと見ている。

 この一月、きびしい訓練と江戸の見回りで彼女たちもそろそろ体力が尽きかけていた。今日はとりわけ休む間もなくあちこちを回っているので人馬共に疲労困憊だ。


「でも、泰理やすりの勘は妙に当たる」


 今朝、泰理がりのに梅雨も明けたしそろそろ何か起りそうな気がすると告げに来た。乱雑に結った髷から髪が飛び出しているぼさぼさの頭の上に寝ぼけ眼だが、鬼気迫るその容貌から繰り出される、寝起きの地を這うような声には無視できないものがあった。


「りーのー、一休みしようよお」とうとうカンナが大声で泣きを入れてきた。

 大粒の汗を拭って、りのもうなずく。「全員、降下」

「目指すは茶屋よ!」恵鈴が叫ぶ。「わらわは冷やしあめを所望じゃっ」


 寛永寺門前近くに店を出していた茶店に天馬を着けると、少女達は縁台に腰掛けて一斉に叫ぶ。


「おばさん、きんきんの冷やしあめっ」


 いつものことなのだろう。天馬達が茶店に着いたことに気がついた警備の者達が、駆け寄って深い桶に冷たい水を入れて天馬に供する。すぐさま天馬も顔を突っ込み、音を立てて水を飲み始めた。


 ほどなく茶屋の主人が冷たい井戸水で作った冷やしあめを運んできた。

 乾いて貼り付いた三人の喉を清流が流れるように冷たい甘さが染み渡る。鼻に抜けるつんとした生姜の香り。暑さと疲れでぼんやりとかすんでいた視界がはっきりと輪郭をとりはじめ、目の中に辺りの景色が鮮やかに飛び込んできた。


「おかわりっ、次は少し濃いめにしてね」


 飲み干すなり、カンナが叫ぶ。恵鈴はいつの間にか醤油味の焼き団子を頬張っている。りのも2杯めの冷やしあめを飲みながら、ひとときの憩いに息をついていた。


 その時。


 水を飲んでいたりのの愛馬、北辰ほくしん号の耳がピンと立つ。そして御天馬隊の天馬達の耳が次々に同じ方向を向いて突っ立った。同時に、少女達も風に乗って遠くからバサバサという多数の羽音を耳にする。


「あ、あれは」音のする方向を遠めがねで見ていたカンナが叫ぶ。


 青空の彼方に墨の飛沫が散ったような、塊が浮かんでいた。

 それは徐々におおきくなり、まるでカラスが群れているような姿となった。だが、さらに近づくとその大きさはカラスの比では無いことが一目瞭然となる。そして――。


「黒天馬だっ」


 人々が我先に逃げ出した。

 丸い塊は帯状に形を変えて上下に波打ちながら、寛永寺の上空を飛び回る。彼らは恐怖を煽るかのような奇声を上げて、いつものようにびらをばらまき始めた。

 すでに天馬を駆り三人は空中に飛び上がっている。

 りのの胸が早鐘のように打つ。

 この一団を操っているのは、もしかしてあの女か……。

 しかし、その答えを待つ余裕はなかった。




★この話はフィクションであり実在の人物や団体などとは関係ありません★

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