第20話

 翌日、学校に行くといつもと変わらない典子がいた、昨晩の事を謝りたいと思ったけど、なぜオモニがそんな行動に出たのか知るのが怖かった、きっと典子は知っているはずだから。


 休み時間も、お昼ごはんを食べている時も当たり障りない会話が続く、頭の片隅でアボジとの事を聞かなければいけない自分と、やめておけと警告する自分がいる。


「知りたいでしょ?」


 学校の帰り道、そう言った典子の目は冷たく、そしてどこか投げやりな憂いを帯びていた。「ついてきて」と呟くと、いつもの帰り道とは違う方角に向かって歩き出した。


「どこにいくの?」


 その質問には典子は答えないで「留学するんだ」と呟いた。


「え、どこに?」


 さっきから場所ばかり質問している。


「だから、そろそろすべてを知ってもらおうと思って」


 スタスタと先を急ぐ典子についていく、短い制服のスカートから細い足が伸びていた。いつの間にか染めた茶色い髪は十八歳という年齢よりもずっと大人っぽく見えた。


 それから十五分程歩いて、やっと典子は古びたアパートの前で立ち止まった。『みどり荘』と書かれた木造のアパートは一階と二階に四部屋ずつ、二階へと続く階段は錆びていて耐久性に不安がありそうだった。


 しかし典子はその階段を躊躇いもせずに上がっていく、ギシギシと軋んだ音が聞こえるがどうやら崩れ落ちるような事はなさそうだ、すぐ後に続く。


 典子は二階の一番奥の扉の前で立ち止まるとカバンから鍵を取り出してドアノブに差し込んだ、ガチャリという音と共にギィィィと嫌な音をたてて扉が開く。


「典子、ちょっとここ誰の家?」


 典子はこちらを一瞥しただけで何も答えなかった。表情は能面のように固まったまま動かない、小さな下駄箱に靴をしまうと中に入っていった。


 しかたなく後に続いて部屋に入るとどこか懐かしい匂いが充満していた、何の匂いだったか思い出せない、しかしどこかで嗅いだことかある香りだった。


「おじゃまします」と家主らしき人物がいない部屋に入る、入ってすぐ左手にシンクと小さな冷蔵庫が置いてある。二人がけのテーブルと椅子が置いてあるところを見るとおそらくダイニングなのだろう。


 典子はダイニングを通り過ぎて奥の襖を開ける、畳敷きの六畳間には小さなテーブルと敷きっぱなしの布団、むき出しのラジオがあるだけだった、右手にある襖はおそらく押し入れだろう、ハルボジの家に少し似ている。


「もうすぐ帰ってくるはずだから」


 典子の言葉に「誰が?」と質問しようとしてやめた、どうせ答えてくれないだろう、きっとここは典子の彼氏、そうだ、大学生の彼氏が一人で暮らしている部屋なんだ。留学する前に自分の彼氏を親友の宣美に紹介しておきたかった、そんなところだろう。


 一ミリも思っていない事を想像して、少しでも最悪の事態を避けるように願った。お互いに無言のまま時間だけが過ぎていく、空気が重い、しかし何か言葉を発する事もできない。


 沈黙という名の重圧に耐えきれなくなった頃に外の階段から人が上がってくる音が聞こえてきた。典子は「帰ってきた、隠れて」と言うと押入れの襖を開いて宣美を頭から突っ込んだ。


 中には何も荷物が入ってなくて意外に窮屈じゃなかった、そういえば昨日もこんな風に隠れていた事を思い出す。ガチャリと扉が開く音。


「なんだ、来てたのか」


 その声は宣美が予想していた声だった、想像した中で最も最悪な声。


「うん、またパチンコ負けたの?」


「バカ言うな、今確変中なんだよ、飯だけ食いに戻ってきただけだ」


 どうしてアボジはこんなところに家を借りているのか、オンマと喧嘩しているからだろうか、そしてどうして典子がその合鍵を持っているのか、どうして二人は親しげに会話をしているのか。頭の中は混乱するばかりだった。


「昨日おばさんに水かけられちゃった」


「英子にあったのか?」


「宣美と夕飯を食べにいっただけよ、慌てないで」


「別に慌てちゃいない、どうせ俺たちはもう終わりだ」


「浮気がばれたら慰謝料取られちゃうわよ」


「ふんっ、どこにそんな金がある」


 浮気――。


 その言葉を聞いても驚きはなかった、夫婦喧嘩で典子の名前が出てきた時に最悪の事態は想定していた。それよりも典子がなぜ自分をこの場所に呼んだ理由の方が気になった。


「なにもかも、おしまいだ、赤羽の店だってもう二ヶ月も持たない」 


「そう、なにもかも失うのね、可哀想」


「お前がいるじゃないか」


「奥さんはどうするの?」


「あいつはお荷物になるだけだ、それに今更あんなババア抱くこともできないしな、なんの役にもたたん、女なんて二人も産んで、まったく失敗したよ」  


 アボジは何を言っているのだろう、お荷物?オンマが? 女なんて産んで? 私達の事? それがアボジの本音なの? 


「じゃあしよっか?」


「いや、だから今確変中で、戻らないと」 


「すぐに終わるわよ」


 宣美が思考停止した押し入れの中に聞こえてくるのは服を脱ぐ衣擦れの音と気味の悪い二人の息遣い、ピチャピチャだのクチュクチュだの日常生活では出ないような音が部屋の中を支配している。


 やがてパンパンッと小気味よい音がしたと思うと、典子の喘ぎ声が聞こえてきた。


 なんだこれは――。


 襖一枚隔てた向こうで親友とアボジが性行為をしている、宣美は小さく震えながら行為が終わるのをじっと待っていた。


 昨日の典子を思い出す、勇敢に飛び出して「何してるの」と言える人間になると誓った思いは、現実の恐怖の前ではまるで機能しなかった。


 時間にしては一五分くらいだろうか、しかし宣美には永遠に思える時間は突如終わりを告げた、アボジの聞いたことのないような声の後にガチャガチャとベルトをしめる音がする。


 「じゃあな、ちゃんと閉じまりしろよ」とだけ言い残し部屋からアボジが出ていった。しかし宣美はその場から動けない、動くことが出来ない。


 ガララっと襖が開き暗闇に慣れた目を細めると、細い足が二本伸びている、視線を上に上げると細い体には不釣り合いな膨らみが二つ、スカートは履いたままで上半身が裸の典子が仁王立ちしていた。


「あなたは完璧なんかじゃない、誰にも愛されていない、親にも、友人にも、私と同じ」


「なに、それ?」


 かろうじて宣美はそれだけ発した。


「それにしても、家庭をめちゃくちゃにしてやろうとは思ったけどさ、お店までなくなっちゃうとはね、本当に何もかも失っちゃったね、宣美」


「どういうこと?」 


「ったく、頭良いくせに鈍いなあ、私はあんたが気に食わなかったの、幸せそうな家族も、その頭の良さも、進学高の特急クラスに入っても一番、東大確実、それで選んだ進路が就職。馬鹿にしてるの?」 


 分からなかった、典子が喋っている言葉が理解できなかった、だから聞いた。


「騙していたの?」


「逆によく今まで気がつかなかったわね」


「でも、昨日だって助けてくれたじゃない」


「あいつはシンプルに気持ち悪かっただけよ」 


「そんな、だって、だって毎日一緒に……」

  

 涙も出なかった、ただ呆然とする宣美の前で典子は淡々と着替えると「キモっ」と一言発して玄関を出ていった。


 

 何時間くらいそうしていただろう、小さな目覚まし時計が目に入り時間を確認すると、すでに十時を回っている、いつまでもこの場所にいるとアボジが帰ってきてしまうかも知れない。


 急に慌てて動き出すと玄関に置いてある靴を履いて部屋を飛び出した、冬の冷たい空気で吐く息が白い。巻いたままのマフラーをギュッと掴むと聚楽に向かって歩きだす。


 オモニに会いたかった、この時間はまだ店にいるに違いない。目の焦点が定まらないまま感覚だけで駅前の聚楽を目指す、途中酔っぱらいのサラリーマンと肩がぶつかり「おう、ねえちゃん、幾らだ?」と尋ねられた後に「なんだブスだな」と、言いたいことだけ言ってフラフラと闇夜に消えていった。


 駅前は飲み屋帰りのサラリーマンで溢れている、制服をきた女子高生は珍しいのか宣美はジロジロと視線を浴びた。


 早足になり聚楽の前まで行くとcloseの札が掛かっているが店内はまだ明かりが漏れている、ドアベルが鳴らないように静かに入ると店内には誰もいなかったが奥のキッチンから話声がする。誰かいるのだろうか、もしかしてアボジかも知れない、そろそろと声の方角に近づいていく。


「もう、渡すお金がないんです、このお店だって毎月赤字で借金が増えるばかりなの」 


 オンマの逼迫した声が聞こえてくる、あらためて聚楽がもう終わりなんだと聞かされてショックを受けたが、話している相手は誰だろうか、敬語を使っているからアボジではない。


「そうか、じゃあ仕方がないな、僕らの関係もこれまでって事で」


 心拍数が急上昇する、この声は亮二、お店に亮二がいる事はなんら不思議ではないが会話の内容が気になってそのまま聞き耳を立てた。


「そんな、今まで沢山お金を渡してきたじゃない」


「それは、不法滞在の人間を雇っているのを不問にする為に上の人間に渡す賄賂のようなものだ、俺が受け取っていた訳じゃない」


「うそよ、そんな嘘にいつまでも騙されないわ」  


 お金、亮二にお金を渡していた。オモニが?


「なんとでも言え」 


「今まで渡してきたお金の事、ばらしても良いの?」


「おっと奥さん、発言には気をつけた方が良い、世の中には多少の金を掴ませただけで人殺しするような連中が腐るほどいる、俺はそんな知り合いが職業柄多くてねえ、散々レイプされた上に東京湾に浮かぶ娘達なんてゾッとするだろ?」


 本当にこの声の主は亮二なのだろうか、信じられなかった、あの優しい亮二、いつも笑顔の亮二、頼りになる亮二、大好きな亮二。


「結婚してくれるっていったじゃない」


 オンマの啜り泣く声が聞こえてくる、駄目だ、もう限界だ。昨日からの度重なる出来事に宣美の思考回路はすでにめちゃくちゃになっていた。頭がぼーっとして自分が自分じゃないような、夢の中にいるような感覚だった。


「警察官が朝鮮人と結婚するわけにはいかんのですよ、あ、法律的には問題ありませんよ、しかし響くんですよ、昇進に、分かるでしょう。世間体ってやつでね」


「そんな……」


「せっかく警視庁でも指折りのエースにまで上り詰めたんです、ああ、しかしあんたはアゲマンってやつなのかも知れないな、あんたと出会ってからすべてがトントン拍子で上手くいく、逆にあんたを失った旦那さんは……くくく」


「ひどい」


「いや、もう金は入りません、無い袖は振れないでしょうからね、でもさっき言ったようにあんたはアゲマンだ、手放すのは良案じゃない」


「や、やめて」


「嘘をつくな、やめてほしくないだろう?」


 ああ、またこれか、もううんざりだ、もうどうでもいい。しばらくその場に立ち尽くしていた宣美はフラフラとキッチンの中に入っていった。


 二人は背中を向けていた、オンマは壁に両手を付いて、亮二は尻を丸出しにして腰を振っている。


 夢中になってキッチンに入ってきた宣美にはまったく気がついていない、ふと視線を右に向けるとまな板の上に包丁が置かれていた、大した料理を出さない店にしては随分立派な包丁で刃渡り三十センチはありそうだ。


 ふわふわとした思考の中で宣美は何気なく包丁を手に取ると、よく研がれた包丁の側面に映り込む自分の顔が歪んで、まるで怪物のようだった。 



――騙されないようにな、やつらは人の皮を被った悪魔なんだ。



 いつかのハルボジの言葉を思い出す、日本人は悪魔、朝鮮人を奴隷のように扱う悪魔、悪魔を倒さなければ。悪魔を殺さなければ朝鮮人が殺される。


 すぐ目の前では悪魔が下半身丸出しで獣のように腰を振っている、躊躇いはなかった、目の前にいるのは人間じゃないのだから。


 フラフラと近づいていって背中に包丁を突き立てた、横向きに入った包丁は意外にもすっと悪魔の体に突き刺さる。


 「ッツ」といって悪魔は動きを止めた、ゆっくりと振り返るとやはりその顔には地獄で見るような悪魔の顔が張り付いている、半分ほどしか入っていない刃先を体ごとぐっと押し込むと悪魔は「ぐううぅう」と断末魔の叫びとは程遠い微かな吐息をもらして膝をついた。


「ヒュゥゥゥ、ヒュゥゥゥ」 


 四つん這いになった悪魔の背中からは包丁の柄が飛び出している、伝説の剣みたいで格好いいと思った、抜いてみようか迷う。


「宣美! なにしてるの」


 オンマがやっと気がついた、捲し上げたスカートを戻して宣美と四つん這いになった悪魔を交互に見る。


「オンマ、悪魔はやっつけたから安心してね、もう大丈夫」 


 悪魔は最後に「救急車を……」と言うとやっと事切れたのかその場でうつ伏せになり動かなくなった、それにしても悪魔が救急車とはなかなか笑える、魔界ギャグだろうか。


「宣美、宣美、どうして、こんな」


 オンマは宣美を抱きしめながらむせび泣いている、そんなに嬉しかったのだろうか、久しぶりの親孝行に満足した。


「宣美、すぐにお家に帰りなさい、これはオンマがやったの、いい? わかる? この人を刺したのはオンマよ、わかった?」


 そうか、オンマは自分の手柄にしたいのか、うん、それもいいだろう、悪魔を倒した栄冠をオンマに譲るのもまた親孝行だ、宣美は「うん、いいよ」と頷くと回れ右してキッチンを出た。


 店のドアを開けると駅前の喧騒は先程よりも少し収まっている。不快感はない、もう何も恐れるものはないのだから、また新たな悪魔が襲ってきても、もう大丈夫。




 宣美は家に帰ると、久しぶりにぐっすりと眠り、楽しい夢をみた。大人になった宣美が旦那さんと結婚式を上げている所だ、宣美の手を取ってヴァージンロードを歩くアボジの横顔は少しだけ寂しそうで、オンマはハンカチを目に当てて泣いている、益々綺麗になった麗娜は最前列でパチパチと拍手を送っていた。



 ――ああ、幸せ。



 ただ普通の幸せ、宣美が望んでいた幸せ。  

 誓いのキスをする為に男性が宣美のベールを持ち上げる、宣美は閉じていた目を開き微笑みあう。


 二人が誓いのキスをすると歓声があがり、この世界中で一番幸せなのは自分かも知れないと本気で思った。

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