第19話

 結局あれから一睡も出来ないまま朝食を食べて学校に向かう、地下鉄を乗り継いで溜池山王駅で降りた。


 ここから学校までは五分程だ。校門をくぐった所で「おはよっ」と肩を叩かれてビクッとした。誰かは分かっているのだが昨夜の両親の会話が嫌でも思い出される。


「おはよう、典子」


「げっ、どうしたの宣美、目の下クマすごいよ、寝不足?」


 相変わらず丸顔で、アイドルのように可愛らしい顔をした典子が目を見開いて驚いている、そんなにひどい顔だろうか、自分では分からなかった。


「ちょっと、今読んでる本が面白くてさ、夜ふかし」


「へー、そんなに面白いなら今度借りようかな」


「う、うん。いいよ」


 平静を装おうとして余計に不自然になっていないだろうか、しかし事実を確認するのは怖い、けど確認しないのはもっと怖い。


 授業中も同じ特級クラスの典子が気になって頭に入らなかった、そもそも受験を控えた学生に普段の授業が役に立つとは思えないし、進学しない宣美には更に不必要な時間に思えたので、典子にそれとなく確認する方法を考えることにシフトした。  


 昼休み、お互いに持参したお弁当を食べ終えた所で意を決して典子に話しかけた。


「うちのお父さ――」


「昨日見ちゃったのよ」  


「え?」   


 典子は辺りを見渡して誰もコチラに注意を払っていない事を確認すると小声で続けた。


「麗娜ちゃんが男と会ってる所」


「あ、ああ」   


 麗娜の事は、と言うか朴家の事は全員知っている彼女は昨日、駅前で偶然見つけた麗娜を驚かせてやろうとこっそりと後を付けた、軽い足取りで麗娜が訪れたのは瀟洒なマンションで一階にはコンビニが入っていた。


 声を掛けようと近づくと若い男が麗娜に近づいてきて、二人は仲良さそうにコンビニで買い物をした後にそのマンションに消えていったと言う。


「え、若い男って」


 彼氏と言うからにはせいぜい同級生か少し年上といった所だろうと勝手に考えていたが、彼女の言い方は成人男性のそれだった。


「しかも、宣美が知ってる男よ」 


「ちょっとまって、どういう事」


 頭が混乱して話について行けない、すっかりアボジの事は失念していた、自分も知っている大人の男、一体それは。


「前に聚楽で働いてた二枚目、確かこうすけって呼ばれてた人」 

 

『いいの、こうちゃんが短い方が好きなんだもん』

 

 孝介、こうちゃん――。


 麗娜がいう彼氏のこうちゃんとは石川孝介の事なのだろうか、確か年齢は宣美の七歳年上だから二十五歳。 


「気持ち悪っ!」


 最初に出てきた感想だった、社会人になった大人が中学生に手を出すなんてあり得るのだろうか。


「ねー、気持ち悪いよね、お母さん知ってるの?」 


 知らないだろう、今はそれどころではないはずだし、元々娘たちの微妙な変化に気がつくような器用な人じゃない。 


「知らない、と、思う」


「そっか、でもちゃんと聞いたほうが良いと思うよ、さすがにその年齢差はちょっと怖いよ、私も同席しよっか?」 


 非常に助かる、はっきり言って男女の恋愛の事は宣美には分からない、恋愛経験豊富な典子がいてくれたら説得力が増すだろう。仮に付き合っているのであれば早めに別れさせたほうが良いに決まっている。 


「ごめん、お願いしても良いかな」


「不二家のケーキで手を打ちましょう」


「もちろん、紅茶もつけますわ」


 アボジの件はこの時すっかり忘れていた。放課後、帰り支度を済ませると宣美のマンションに二人で帰った。玄関に入ると麗娜の靴が揃えて置いてある、どうやら帰ってきているようだ。


 隣の典子に無言で頷くと典子も同じように無言で返した。なぜか自分の家をソロリソロリと忍び足で歩き、リビングに入るとターゲットは呑気にソファでポッキーを食べている。


「麗娜、話があるの」   


「うわっ、びっくりした、帰ってたの? あれ典子ちゃん」


「麗娜ちゃん久しぶり」  


 二人のただならぬ空気を察したのか麗娜は「なに、どうしたの」と警戒した声を発した、ダイニングテーブルに座らせてその正面に典子と二人で腰掛けるとさっそく本題に入る。


「最近出来た麗娜の彼氏っていうのは石川孝介なの?」 


 かつて好きになった男だがすっかり呼び捨てにしていた、中学生を誑かすような変態に敬語は必要ない。


「え、なんで分かったの?」  


「麗娜、あなた事の重大さが分かってるの?」 


 脳天気な麗娜、典子はまだ沈黙を守っている。


「なに、なに、ちょっと怖いよ、なんかまずいの?」 


 麗娜は二人の威圧に押されたのか椅子を引いて少し後ろに下がった。


「麗娜ちゃん、その男に変なことされてない?」


 我慢できずに、といった感じで典子が入ってきた。 


「なに、変なことって、セックスのこと?」


 目眩がして気を失いそうになった、麗娜の口からセックスなどと言う卑猥なワードが出てくる日が来るとは思わなかった。


 無論生涯純血を守れ、などと言うつもりはないが、それでもそんな行為はまだ大分先の事だと思っていた、何しろ自分だって経験がない、典子はどうだろうか、分からなかった。


「してるの、その男と?」


「普通するでしょ、恋人同士なんだから、それにかんちが――」 


 パンっ、と乾いた音が自分の掌から出ていることに気がつくのに数秒掛かった、なぜかハァハァと呼吸が荒くなっている、麗娜は左頬を抑えて何をされたのかまだ理解していない様子だ。


「宣美! 暴力はだめ、麗娜ちゃんごめんね、ちゃんと話そう、何か言いかけたでしょ、勘違いって言わなかった?」 


「う、うぅ、うぅぅ」


 麗娜は両目に涙を一杯にすると、大きな瞳から涙が溢れた、おそらくなぜ叩かれたか理解する前に、宣美から初めて本気で叱責された事によるショックで動揺を隠せない様子だった。


「なんで、なんで叩くのオンニ、麗娜なんかしたの? 嫌いになった? やだよオンニ」


 肩を震わせて涙をこぼす麗娜を見て激しく後悔した、彼女は何も悪くない、いつだって麗娜は自分に素直に生きているだけだ、誰かを傷つけたり、陥れたりするような子じゃない。


 すぐに麗娜の方にいって抱きしめた。「ごめんね、ごめんね」と何度も謝ると、やっと泣き止んで「麗娜のこと嫌いになったの?」と聞かれた。


「嫌いじゃないよ、大好きだから怒っちゃったの、でも叩いたら良くないね、ごめんね、麗娜の事はオンニ大好きだよ」


 頭をよしよしと撫でてあげるとやっと笑顔で「良かった」と呟いた、二人が落ち着いた所で典子が話を戻す。


「さっき勘違いしてるって言いかけたよね、どういう事かな?」 


 麗娜は深呼吸してから、席に戻った宣美の顔色を伺うようにもじもじとしている。「もう怒らないから大丈夫だよ」と言うとやっと口を開いた。


「こうちゃんとはもうずっと昔から付き合ってるの、最近彼氏になった訳じゃないんだよ」


 宣美が典子の方を向くと彼女もコチラを凝視していた、ずっと昔から、何かの例えだろうか。


「ごめんね、麗娜ちゃん、昔って言うのはいつ頃かな」


 うーん、と斜め上を見上げながら考えている。


「たぶん小学校二年生かな」 


 宣美が怒らない事が分かると麗娜は覚えている限りの情報を話してくれた、まだ聚楽でアルバイトをしていた学生時代の孝介、一人暮らしのマンションに一度夏休みの宿題をしに姉妹で訪れた事がある。


 宣美も覚えているが綺麗な彼女も一緒だった。そこに置いてあった最新のゲーム機に夢中になった麗娜はその日以降も毎日のように孝介の家に入り浸るようになる。


 二人きりになると孝介は麗娜の体をやたらと触るようになり、次第にエスカレートすると裸の写真を撮りたいと求めてきたのだという。


 ゲームがやりたい幼い麗娜は特に躊躇いなく言いなりになったそうだ、夏休みも残り少なくなった日に孝介から恋人になって欲しいと懇願された、特に嫌いでもなかったのと、彼氏ができるという大人っぽい雰囲気に憧れてその返事に頷いた。ただし二人だけの秘密。それがまた麗娜を後押しする。なんだかドキドキした。


 付き合いが始まってからは孝介の性処理をする事もしばしばあった。もっともそれが性的な行為だと気がついたのは最近で、それまでは訳も分からず性器を握らされたり、舐めさせられたりしただけだ。「恋人同士はみんなしている」と言われると特に疑問にも感じなかったという。


「典子ちゃんもやってるよね?」


 純粋な顔で質問されて彼女も心底困った顔をした。


 なんてこと、これは立派な犯罪なのではないだろうか。幼い子供を言葉巧みに操って性処理させるなど変態による犯罪以外になんだと言うのだろう。


 宣美はゆっくりと時間を掛けて石川孝介という人間が異常者であること、幼い麗娜を騙して自分の欲を満たしていた事を説明した。二度と近づいてはいけないと助言すると意外にもあっさりと「うん、わかった」と頷いた、典子も一緒になっていかに変態かを熱弁してくれたのも助け舟になったのかも知れない。


 絶対に別れたくないなどと頑なに拒まれたらどうしようかという思いは杞憂に終わった。


 三人で話し合った結果、この話は両親には黙っている事にした、あの二人に今そんな余裕があるとも思えないし、当人の麗娜が黙っていてほしいと言うからだった。


「鍵、どうしようかな?」


 石川孝介の家の合鍵を渡されていた麗娜はキーホルダーから外した銀色の鍵をテーブルに置いた。


「ポストにでも入れておけば良いんじゃない」


 と宣美が言ったところで典子が鍵を取って今からその家に乗り込もうと提案してきた。


「写真とか回収しないと、きっとネガもあるはず、家にいない時に、やつが帰宅するのは何時くらいかわかる?」


「今日は遅くなるって昨日言ってた、なんか講演会の挨拶とか、その後に食事会があるとか」 


 一体何の仕事をしているのだろうか、有名な大学に通い高級マンションに一人暮らししていた大学時代を考えてみると親は相当なお金持ち、二十五歳になった石川孝介もそれなりの職業に付いているはずだった。 


「それは都合が良かったね、早速いこう、善は急げ」


 人の家に勝手に忍び込むのが善とは言い難いが、たしかに麗娜の幼い頃の卑猥な写真などは早々に回収しなければならない。


 三人は立ち上がり家をでた、時刻は夕方の五時、辺りは暗くなり始めているがまだ帰宅するまではだいぶ余裕があるだろう、足早に駅前にある石川孝介のマンションを目指した。


 目的のマンションは最近出来たばかりといった風情の新築だった、分譲だろうか。とにかくオートロックを解除して最上階の十五階を目指す、念の為に麗娜を先に部屋に入れて中の様子を見てきてもらう。


「大丈夫、いないよ」


 宣美は頷くと広い玄関に靴を脱いで、念のため靴箱にしまってから室内に侵入した、典子が後に続く、部屋はリビングダイニングに部屋が一つ、割とシンプルな作りだった、あまりに広い部屋だと探すのに苦労するがこれなら比較手にすぐに見つかりそうだ、物も少ない。


「麗娜はリビングお願い、私達は寝室さがすから」   


「うん、分かった」


 リビングを出て廊下には左手に扉が二つ、一つはトイレだ。寝室の扉を開くと八畳程のフローリングの部屋にシングルベッドと簡易デスクが置かれている、壁に埋め込まれたクローゼットを開けると服がびっしりと掛けられている、殆どがスーツと白いワイシャツだった。


「宣美、あった」


 振り返るとデスクの中を漁っていた典子が写真を何枚か手にしている、いそいで確認する。比較的最近の写真だろう、麗娜が裸でベッドに横になっている写真だった、当の麗娜は楽しそうに笑顔でピースサインをしている、写真は百枚以上あった、一番古い写真は麗娜がまだ小さい頃まで遡る、小さな麗娜は少し恥ずかしそうにカメラ目線でハニカンでいた。


「ちょっ、宣美、どうしたの?」


 典子に声を掛けられるまで気が付かなかった、いつの間にか涙がボロボロとこぼれ落ちてフローリングを濡らしている。


 どうして気がついてあげられなかった――。


 こんなに近くに、毎日一緒にいたのに。麗娜がこんな目にあっている時に、本人は何をされているかも分からないで。


 悲しみの後には怒りが押し寄せてきた、まったく関係ないがハルモニ達、先人が日本人に性奴隷にされていた歴史を思い出して歯噛みする。


「ごめん、まだないか探そう」


 下段の抽斗からは大量のネガが出てきた、それらをすべて回収して部屋を出ようとした所で、玄関の扉がガチャリと開く音がした、典子と顔を見合わせる。


「麗娜ー、来てるのかー?」


 玄関から声が聞こえて、急いでクローゼットに潜り込む、幸い二人で入っても十分に扉が閉まるほど中は広い、靴をしまっておいて正解だった。 


「うん、こうちゃん早いね、今日は遅くなるって」 


 麗娜の声がクローゼットの隙間から漏れ聞こえる、心臓がバクバクと鼓動を早めている、おそらく隣の典子もそうだろう。


「うん、このあと食事会なんだ、その前に着替えに帰ってきた、少しラフな格好にしろって親父が」  


 寝室を通り過ぎてリビングに向かった、ひとまずホッとしたがいつ戻ってくるか分からない。


「どーしよー?」


 小声で典子に質問した、真っ暗なクローゼットの中で押し殺した声だけが響いた。


「麗娜ちゃんが上手くやってくれるよ、少し様子をみよう」


 あの子にそんな機転がきくだろうか、若干の不安を覚えながらもいま飛び出すリスクを考えると従うしかなかった。


「あー、そっちは今ちょっと掃除中でー」


 麗娜の声と二人の足音が聞こえるのが同時だった。


「いや、着替えないとだから」


 しまった、着替えるのだから当然クローゼットを開けにくる、あまりの緊張に思考回路が停止している。


「まだ、大丈夫でしょ? ほら珈琲でも入れるからさ」


 薄い板一枚隔てて二人がいるのが分かる、息を殺して物音一つたてないように注意しながら何とかこの場からいなくなる事を願った。


「なんだよ麗娜、なんか様子がおかしいぞ」


「そんな事な、ん――――、だめ」


「なんでだよ、好きだろ」


 ハアハアと気味の悪い息遣いが聞こえてくる、一瞬なにが行われているか理解出来ない、いや理解したくなかった。


 足がガクガクと震えている、聞いたことがない麗娜の色っぽい声が、ガラスを引っ掻いたような不快な音に変換されて耳に飛び込んでくる。もうダメだ、立っていられない。


 と思った瞬間だった。真っ暗だった目の前の視界がひらけて二人の姿が現れる、ズボンを下まで下げた石川孝介は驚いて後ろに飛び退いた拍子に転んで頭をデスクに打ち付けていた。


「この、くそ変態野郎が! いい加減にしろ」

 

 怒鳴り散らした典子が頭を擦っている石川孝介の顔面を足の裏で踏みつけ押し付けた、同じ場所を再び強打して「ぐっ」と言う声だけを発する。


「現行犯だ、この犯罪者が、刑務所行って臭い飯でも食ってこい」  


 宣美と麗娜は呆然とその様子を見ていた、しかし心の中では拍手喝采を送っている、そうだ、私達がコソコソと隠れる必要なんて最初からなかった。


 隠れるのはコイツだ、そんな事に気が付かなかった。やはり典子はすごい。彼女のように堂々と生きたいと考えていた事を今更思い出した。


 最近流行り始めたルーズソックスで顔面を踏まれている石川孝介が何かブツブツと喋っている。


「もっとください、もっと強く」


「うわぁーーー、コイツ勃起してる、キモっ」

  

 典子は急いで飛び退いた、なぜか石川孝介は恍惚とした表情で虚ろな目をしている、もしかして打ちどころが悪かったのだろうか。


「さっさとズボン履けこの変態。宣美、警察呼んで」


 うんと頷いて電話があるリビングに向かおうとした所で「スミマセンでした、もうしませんから警察だけは」と、やっとズボンを上げた石川孝介が土下座で懇願してきた。


「警察だけは、警察だけは何卒、親父に殺される、本当に殺されるんです、お願いです」 


 本物の土下座を見たのは初めてだった、鬼気迫る表情は本気で懇願しているように見えた。


「変態、なに大袈裟なこといってんのよ、あんたの親はヤクザでもやってるわけ?」  


 典子はもはや虫けらでも見るかのように冷たい視線を向けた。


「ある意味でヤクザよりたちが悪いです、政治家です、政治家の石川誠一郎です」


 政治に詳しくない宣美でも知っている名前だった、民自党のトップ、石川誠一郎の息子だったのか、どおりで金回りが良い。


 「こんなスキャンダルになったら息子の自分でも何をされるか、本当なんです、お願いします、どうか、命は、どうか」


 ヒィヒィと啜り泣く声が聞こえてくる、自分がした事を棚に上げて赦しをこう姿を見て心底うんざりした、こんな奴の親が政治家では日本の未来も危うい、もっとも選挙権すらない在日朝鮮人の宣美には関係のない話だが。


「あのさ、警察は、許してあげて」


 麗娜が引きつった笑顔で典子に話しかけた。


「いいの? 同情なんてしない方が良いよ」


「うん、警察に行ったら親にさ、あとその写真とかも――」 


 そうだ、きっと証拠になるこれらの写真は押収されて色々な人間の目に触れる、当然親にも連絡がいく、意外にも冷静な麗娜の判断に宣美と典子は顔を合わせた。 


「どうする宣美?」


 足元で土下座する男を一瞥してからため息を付いた。決してこの変態を護る為じゃない、麗娜がそれを望んでいるからだと言い聞かせて飲み込んだ。


「やめておこう、もう懲りたと思う、騒ぎを大きくして恥ずかしい目に遭うのは麗娜だし」


 典子はふー、とため息を吐くと「二度と麗娜ちゃんに近寄るなよ」と土下座したままの石川孝介に言い放ち、最後に脇腹に蹴りを入れるのを忘れなかった。


「ありがとうございます、ありがとうございます!」


 雨乞いする村人のように何度も土下座したまま頭を下げる石川孝介を無視して三人はマンションを出ていった、腕時計に視線を落とすと六時を少し回った所だった。


 三時間以上時間が過ぎているような感覚だったが実際には一時間も経っていない。冬の空は既に漆黒に包まれている、お腹が鳴ったが今から帰って夕飯の支度をする元気は残されていなかった。


「聚楽で食べていこうか?」


 宣美がそう提案すると麗娜は小さく頷いた。「典子も良かったら」と誘う、少し考えてから「じゃあご一緒しようかな」と言って付いてきた。


 相変わらず客足の少ない店内に入ると四人がけのソファに座った、オモニがパタパタと駆け寄ってくる、アボジの姿は見当たらない。    

     

「いらっしゃい、どうし――」 


 オモニが典子の姿を確認して動きが止まった、ように見えた。


「ご飯、食べていっていいでしょ?」


 宣美が話しかけると、オモニは動きを取り戻して「うん、もちろんよ、典子ちゃんも久しぶりねえ」と言って水が入ったグラスを三人の前に置いた。代わり映えしないメニュー表を見ることもなく三人が各々注文すると、何か上の空のような表情のままオモニはキッチンに下がっていった。


 オモニの様子がおかしいという宣美の予感は的中した、食事を終えてデザートのナタデココを出してくれた時にいきなりオモニはグラスに入っていた水を典子にぶちまけた。


「トドゥクコヤンイ!」


 と目を血走らせながら叫ぶと、典子はやれやれといった態度でゆっくりと顔をハンカチで拭き、優雅な動きで「また明日ね」と言って席をたった。


 宣美と麗娜は呆気にとられている、なぜオモニがそんな行動に出たのか頭の中を巻き戻す、オモニがデザートを置いてくれた時に確か典子が口を開いた。


『おばさん、大輔さんは元気ですか?』


 次の瞬間には典子は水浸しになっていた。

 

 ――典子ちゃんと何してるわけ、彼女は宣美の友達なのよ。


 そんな馬鹿な事があるわけがない、アボジと典子が。たった一人の親友が、そんな訳ない、間違いに決まっている。

 でもオモニははっきりと、こう言った。

 

 ――トドゥクコヤンイ。泥棒猫、と。

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