第14話 長崎 典子

「そういえば期末テストの結果出たんじゃない?」


 ママに指摘されて口元まで運んだカレーのスプーンが止まった。日曜の昼下がり、遅めの昼食中だった。


 もちろん隠し通せるとは思ってなかったけど、このまま何事もなかったかのように時が過ぎるのを望んでいたことも確かだった。


「あ、うん、ちょうど昨日」


 本当は先週にはすべての教科が戻ってきていたが、敢えて自分から披露する事は出来なかった、たった一つの間違いのせいで――。


 数学以外の教科はすべて満点、九十五点の数学、最後の問題が解けなかっただけだ。普通の親なら小躍りして喜ぶような結果だと思うがママは百点以外は認めない、そう教育されてきた。


「持ってくるね」


 典子はスプーンを置いて部屋に向かう、言い訳を考えながら机の奥に隠しておいた答案用紙を手に取ると重い足取りでリビングに戻った。


 さっきまでより部屋がどんよりと暗くなった気がするのは多分、心の問題だろう。数学の答案用紙を一番下にして五教科すべてを手渡すとママは片手で器用にカレーを掬いながら満足そうに眺めている。


 一枚一枚吟味して最後の用紙になった所でわかりやすく顔が曇った、ちらりと典子を一瞥してから再び答案用紙に目を戻す。


「あのね、その問題は誰も解けなかったんだって」


 嘘をついた、解いた人間が一人だけいる。このふざけた問題を作った数学の教師は毎週小テストを行う、それは構わないが必ず最後の問題に難易度が高すぎる問題を組み込む。


 応用問題なので絶対に解けない訳ではないが、時間が間に合わない、その問題だけをやっていたら他の問題ができなくなる。おそらくそれを分かって出しているに違いない。案の定、あの女以外は誰一人として満点を取ることが出来ない。


 なので小テストの存在はママに内緒にしていた、しかし期末テストの結果を見せない訳にはいかない。


「そうね、確かにこの問題量だと最後の問題を時間内に終わらせるのはかなり計算を早く終わらせないと不可能ね、普通なら」


 ため息を付いて答案用紙を置いた、内心でホッとする。


「う、うん、そうなのママ、百点取らせない為に意地悪してるん――」


「典子」


 言葉を遮られて体がビクッとなる。


「ママじゃなくてお母さん、それにあなたは」


 次のセリフは分かっていた。


「普通じゃないの」


 優秀な遺伝子同士で生まれた完璧な人間、ママは東京大学を主席で卒業、外資系証券会社に入社してバリバリ働くキャリアウーマンだ。


 男女雇用機会均等法が施行されたとは言え女性が社会でやっていくには男の二倍以上の能力がいるとママは言う。


 その為に恋愛や結婚など時間の無駄、しかし優秀な自分の遺伝子を後世に残す事と、散々偉そうにしてきた男達には逆立しても出来ない出産を経験するためにママはAID(非配偶者間人工授精)要するに優秀な精子を使い妊娠、典子が生まれた。当然父親に会うことは出来ないがその経歴はママをも凌ぐとだけ聞かされている。


 つまり自分は優秀な遺伝子同士が作り出した天才、怪物、サイボーグ。凡人に負けることなど許される訳もなく、実際これまでに成績はもちろん、運動神経から美しい見た目まで誰かより劣るような事は一度もなかった。


 木下成美、いや、朴宣美が現れるまでは――。


「うん、次は大丈夫、絶対」


 食欲は既になくなっていた、半分以上残ったカレーライスを下げると食器を洗った、食欲がない娘に一切関心を示すこともなくママは黙々とスプーンを動かしている。


 ママにとって娘は自分の遺伝子の優秀さ、能力を証明するための分身にすぎないのだろう、愛情などはないのだと分かっていた。「ごちそうさまでした」と呟いて自分の部屋に戻る。


「本当に私の子供なのかしら……」


 ため息と共に放たれた言葉を聞こえないフリをしながら扉を閉めた。


 他の同級生がテレビをみて馬鹿笑いしている間に勉強して差を付けなければならない、自分は天才のはず、なのだから。


 もし天才じゃなければママはきっと興味をなくす、それだけは本能的に理解していた、冗談じゃなく捨てられるかもしれない。しかし。


 長崎典子は天才じゃない。


 あの女の側にいると嫌でもそう痛感させられた、朴宣美は異常だ、頭の回転、記憶力、思考力も普通じゃない。


 近づいたのは何か特殊な勉強方法やコツを盗めるチャンスを伺う為だった、しかし蓋を開けばなんて事はない、勉強は学校の授業と宿題だけ、家庭教師を雇っている訳でも塾に通っている訳でもない。


 その両方を駆使して毎日、五時間以上勉強してもあの女には敵わなかった。


 数学の小テスト中、いつものように最後の問題で四苦八苦していた、答案用紙の余白には計算式がびっしりと書かれている、しかし到底間に合わない。ふと前に座る宣美の背中に目をやると肩が上下に微妙に動いている。


 寝ていた――。


 先生の目を盗み、宣美の答案用紙に目をやるとすでに最後の問題の解答欄に答えが記されている、さらに驚愕なのは計算式の類が一切ない、どの問題も答えだけが書かれている。


 むし暑い教室の中で悪寒がした、この女は頭の中ですべて計算して暗算、答えを導き出しているのだ、勝てる訳がなかった。


 何より悔しいのはあの女は日本人ですらない、後進国の北朝鮮人、そんな輩に負けたとママに知れたら一大事だ。


 どうしよう、考えるより先にカンニングした最終問題の答えを自分の答案用紙に記入していた。

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